詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「信じるひと」

2010-04-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「信じるひと」(「すてむ」46、2010年03月25日発行)

 松岡政則「信じるひと」には、とてもおかしなことば(おかしな日本語)が出てくる。

うそをついている手
うそをつきとおす手
でもいまのは知らない手
わたしのではない
何かをひしむしるようなものがあった
聲をさがしているようでもあった
遐い祖(おや)たちの仕業だろうか
さわってはいけないものに
さわってしまったのだろうか
雨をしたくなる
いっぱい雨をしたくなる
(わたしといえばいうほどわたしではなくなってしまうバスはまだ来ない
アーミナ、アーミナ
わたしたちはいま何処にいるのか
詩そのものを伝えたいのに

 「雨をしたくなる/いっぱい雨をしたくなる」。こういう「日本語」はない。「頭」で考えると、わけがわからなくなる。
 それもで、私は、この2行が非常に好きだ。ここに「声」を感じるのだ。「意味」ではなく、「声」そのものを感じるのだ。ことばを発しようとして、ことばにならない。そのときの、「声」を感じる。「声」が聞こえる。
 最初の方に出てくる「うそをついている手/うそをつきとおす手/でもいまのは知らない手」という表現を借りれば、ここにあるのは「知らないことば」である。そして、その「知らないことば」は「うそ」とは正反対にある。「正直なことば」、いや「正直な声」なのだ。
 松岡が最初に書いている「知らない手」というのは、誰の手のことか、この詩だけでは推測できないけれど「うそ」とは正反対の手なのだ。そしてそれがあまりに「うそ」と遠くて、「ほんとう」よりも遠くて、まだ「ほんとう」にすらなっていないような「手」なのだ。「ほんとうの手」なら知っているはずである。でも、知らない。知らないのは、それが「ほんとう」になる前の、なまなましい「いのち」のような手だからである。そういうものを、私は「正直」と呼ぶ。
 何かわからないもの、けれど「正直ないのち」そのもの。それは、ほんとうはさわってはいけないのだ。なぜ、さわってはいけないかというと、さわってしまうと、その「正直」には松岡の何かが添加されてしまう。「いのち」そのものの「正直さ」とはちょっとちがったものになってしまう。それは、「さわる」のではなく、ただ見守るしかないものなのだと思う。「正直ないのち」は、その「正直ないのち」そのものをもっているひとのものであり、そのひとが育てていくしかないものなのだ。
 そう感じた直後に、

雨をしたくなる
いっぱい雨をしたくなる

 雨にぬれて、雨と一体になってしまいたい、私が私ではなくなり、雨、降り注ぐ雨になってしまいたい。いま、この土地にふる雨、その雨をつつむ風、光、そういうものとも一体になってしまいたい。
 松岡の「正直ないのち」はそう叫んでいるのかもしれない。けれど、そういうことばでは言えない「声」があるのだ。

(わたしといえばいうほどわたしではなくなってしまうバスはまだ来ない

 私は「私が私ではなくなり」と書いたが、そのことばのなかに「私」ということばが出てくる。「私」について触れないことには、「雨と一体になる」ということが言えない。これは、おかしいのだ。
 「わたし」ということばをつかった瞬間から「雨をしたくなる」という「わたし」の「正直ないのち」からとおくなってしまう。「わたし(の正直ないのち)」ではなくなる。ことばにはならないのだ。ことば、あるいは、論理ではいえないのだ。「正直ないのち」というものは。
 それはもともと、ことばにならないのだ。まだ「ほんとう」にも「うそ」にもなっていないのだから。それは、これから「ほんとう」や「うそ」になるための、形の定まらないものなのだ。

アーミナ、アーミナ

 これは、松岡が「知らない手」にふれたときに聞いたことばだろうか。それは「日本語」でいえば、きっと「雨をしたくなる」に違いないと思う。「意味」は違っているかもしれないが、「意味」以前の、「正直ないのち」の部分で「雨をしたくなる」と絡み合っている。「ふれあっている」ではなく絡み合って、区別がつかなくなっている。
 その「場所」は、「正直ないのち」と同じように、特定できない。「何処(どこ)」とは言えない。
 そして、その「場」、その絡み合った区別のつかないもの、まだ「ほんとう」にすらならないもの--それが、松岡の伝えたい「詩」そのものである。

からだの内側は
文字よりもかなしいのだ
わたしはこどもらしくないこどもだった
いいやこどもであったことなどなかった
顔で雨を享けながら
くるくると回ってみようか
わたしをばらばらに飛び散らかそうか
いま何かしゃべったら
きっと不潔な聲になってしまう
いつだってそうだった
ことばよりも歩くことのほうが大切だった
(わたしではなくなるわたしをささえているものはもう群れたくさぼだけ
アーミナ、アーミナ
もうわたしを出ていくよ
いよいよ歩くだらけになるよ

 2連目の最後も、なんだかよくわからない。つまり「頭」で考える「日本語」をはみだしているので、「意味」を「共通言語(流通言語?)」として書き直すことができない。
 けれど、私は、その不思議なことばにひかれる。
 そこには「文字よりもかなしい」ものがある。「からだの内側」がある。つまり「正直ないのち」がある。
 私たちは誰でも、その「ことば」にならないものをこそ、ことばにしたい。誰かにわかってもらいたい。けれど、それはけっしてことばにはならない。ゆがんだ「音」にしかならない。

アーミナ、アーミナ

 なんだろう。「雨をしたくなる/いっぱい雨をしたくなる」。そう、言い換えると、「そんな日本語はない」という言われてしまう。そんなふうに否定されながら、そこに「いっぱい」があふれてくる。「正直ないのち」は「ほんとう」にも「うそ」にもなれず、ただ「いっぱい」になるのだ。
 「いっぱい」はただ「声」になるだけだ。
 そして、「いっぱい」だから、それは誰にも聞き取れない。発している松岡にさえも聞き取れない。だから、変な、こんな日本語知らないとしか言えないものになってしまう。
 でも、この変な日本語になってしまうの、「なってしまう」にとても大切なものがある。多くのひとは、そういう「声」を出すことができない。「なってしまう」ことができない。
 松岡は、だから、詩をとおして、「なってしまう」ことの可能性を「声」にしているのだ。「なってしまう」方法を教えてくれているのだ。
 その「日本語」は、ただあてどなく歩いていく。目的地はわからない。きっと最初の「正直ないのち」の不定型こそが、「歩く」先にあるのだと思うけれど、「声」を「肉体」にして、ただ歩く。「歩くだらけ」になる。
 それは「わたしを出て行く」ことによって「わたし」そのものに「なる」ということと、一致してしまう。それは矛盾だ。
 だから、松岡には、松岡の「場所」がわからない。そして「詩」がわからない。

 ああ、でも、ふいに思い出すなあ。
 プラトンの対話篇。どの対話篇でもそうだが、そこで語られていることについて、ソクラテスをはじめ対話者全員が、「答え」をだせなくなる。「何も知らない」という結論に達する。--けれど、それを傍から見ていると、対話者全員がそのテーマについての「答え」を知っているように見える。
 松岡の詩は、どこかでそういう感じがある。
 松岡は、

わたしたちはいま何処にいるのか(わからない)
詩そのものを伝えたいのに(それができない)

 と書いている。かっこ内は、私がかってに補った。「わからない」「できない」ということばを読みながら、あ、松岡だけが、それをわかっている。詩をきちんと伝えていると感じるのだ。
 でもね、プラトンの対話篇と同じ。それに参加して、自分のことばで言いなおそうとすると、ああ、わからなくなる。
 松岡の詩の美しさを、別なことばで書き直す(感想を書く)というのは、とてもむずかしい。「おかしい日本語」。でも、そこに強く惹かれてしまう--そう書くことしかできない。そう書いて、おしまいにすべきだったんだろうなあ。でも、書かずにはいられない。

 あ、ごめんね。不潔なことば(声)で松岡の詩を汚してしまったね。




ちかしい喉
松岡 政則
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする