詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「竹田朔歩という運動体」

2010-04-29 00:00:00 | 詩集
井坂洋子「竹田朔歩という運動体」(竹田朔歩『鳥が啼くか π』の栞、書肆山田、2010年04月05日発行)

 詩集の感想を書く前に、その栞(解説?)の感想を書くのは、いささか変かもしれない。私は、まだ竹田朔歩の詩集を読んでいないので、これから書くことは誤解かもしれないが、あれっ、そうなの?と思ってしまったのだ。

「『多行句へ』に於いての変容の試み」と題された詩は、高柳重信の句をきっかけに発展したものであるが、句の指し示す方向に傾きながら、その句の錘りとは反対に、自分を生かすようにことばを発している。
「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」という句に対して竹田朔歩は、

「わが身」という
われが ふたつ 育つなり
生きくれて さらに生き
片腕を差し出し ●(も)ぎたし

 と応える。「我」と「身」という二つのわれがあるといっているのだが、そこまでだったら単なる認識止まりだ。「育つなり」という動きが加わったことによって、「我」と「身」の裂かれようがこちらにも感得できる。また、高橋重信の句では決して語らぬところの「(片腕を)●ぎたし」という大胆な吐露が、詩の最終連の「堕ちよ   かなしくも なし/失せよ てんつく てんつく つづくなり」の軽みにつながっていて、句から独立した彼女自身の持ち味を楽しめる。

 ●は「手ヘン」に「宛」という漢字である。私のワープロでは、その文字がない。
 私は、高橋重信の句を知らない。また、竹田の詩の全体もわからずに書くのだが(調べてから書け、と言われそうだが)、私には井坂のかいていることがわからない。

「我」と「身」という二つのわれがあるといっているのだが、

 そうなのだろうか。
 高橋の句は、だいたいどんな「意味」をもっているのだろう。私は「鬼となりぬ」を「鬼籍に入った」と読んだ。つまり、死んだ、と。高橋がどういう時代のひとか私は知らないが、第二次世界大戦時のひとだと仮定してみる。戦争で片腕を失った。それを「片腕」が「鬼籍に入った」(死んだ)と表現した。いま、高橋は「片腕」なのだと思う。
 そうすると「わが身」の「われ」が「ふたつ」というのは、「失ってしまった片腕(もがれてしまった片腕)」と、手が残っている方の「われ」の「肉体」のことなのではないのか。片腕の切断によって、「わが身」は「片腕」と「それ以外の肉体」になった。それは「われ」が「ふたつ」になった、ということである。ここには「肉体」こそが「われ」である、という意識が書かれていると思う。
 そして。
 その「ふたつ」が「育つなり」というとき、生きているは「片腕を失った肉体」だけではなく、「切断されてしまった(もがれてしまった)片腕」も生きているということになる。切断されても、その切断された「肉体」は生きていて、「育つ」のである。死んでしまいはしないのである。
 井坂は、

「我」と「身」の裂かれようがこちらにも感得できる。

 と書くが、「我」と「身」は裂かれたりなんかしない。
 だいたい、「我」って何?
 「われ」は「肉体(身)」であり、「肉体(身)」は「われ」であって、それは切り離せない。腕は切り離せても、「肉体」と「われ(私という意識?)」は切り離せない。それはぴったり重なっている。

 竹田がどんなことを書いているのか、私は知らない。けれど、井坂の引用している部分を読むかぎり、私には、竹田が「切断された片腕」は「残された肉体(?)」と共に、生きて、育っていると実感しているように感じられる。
 「切断された片腕」が「生きる」とき、その「片腕」は何を叫ぶだろう。「残された肉体」への恨み、つらみであろうか。なぜ、「切断された片腕」が「われ」ではなく、頭のある方の「残された肉体」が「われ」なのか。「切断された片腕」も「われ」である。忘れるんじゃないぜ。
 その「声」を痛切に感じるからこそ、「残された肉体」は、その肉体から、残された片腕をもぎ取って、恨み、つらみを叫ぶ「片腕」に対し、「ほら、これをやるよ」といいたくなる。そして、「ほら、おまえ(先に切断された片腕)を、こっちの肉体につけてやるよ。おまえのかわりに、こっちの片腕、そしてこっちの片腕のかわりにおまえ。これでだろう?」
 「片腕を差し出し もぎたし」とは、そういうことではないのか。

 もちろん、「残っている片腕」をもぎ取って、「切断された片腕」に対し、「ほら、この手をつかえよ」というのは矛盾である。そんなことは「切断された片腕」にとって、なんの意味もない。そんなことをしたって、なんにもならない。だいたい、そんなことはできっこない。「切断された片腕(鬼籍に入った片腕)」を「肉体」に呼び戻し、くっつけることなどできはしない。
 でも、「切断された片腕」も、「残された肉体」も、ともに「生きている」と感じてしまえば、そんな「むちゃくちゃなこと」も言いたくなる。「生きている」と感じる人間だけが、そういう理不尽な矛盾を叫びたくなる。
 それが「愛」だからである。
 いつだって人間は論理的なことではなく、矛盾したことこそ言いたいのだ。矛盾したことのなかにしか、ほんとうに言いたいことはない。

 この矛盾。矛盾としての「肉体」。それが竹田のことばなのではないか、と私は、思っている。
 「てんつく てんつく つづくなり」。このことばが「軽い」ものであるかどうか、私はわからない。それは、「意味」にはなっていない、ということだけは、わかる。「流通言語」になっていない。
 そして、だからこそ、「片腕を差し出し もぎたし」と呼応していると思う。感じる。


 --あ、なんのために、私は、こんな変な感想を書いたのだろう。
 付け足して書いて、何かが変わるわけではないが……。
 実は、私は井坂の解説にびっくりしたのである。私は、井坂が「我」と「身」と二つのわれがある--という風に感じる詩人だとは思っていなかったのである。私は井坂は「我は身であり、身はわれである」と考える(感じている)詩人だと思っていた。
 それが、この栞を読むことで、なんだか「実感」から遠いものになってしまった。井坂は「頭」の詩人だったんだのか、とふいに、感じてしまったのだ。



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