詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」(★★★★★)

2010-04-03 22:55:41 | 午前十時の映画祭

監督 スタンリー・キューブリック 出演 ケア・ダレー、ゲイリー・ロックウッド、ダグラス・レイン(HAL)

 「午前十時の映画祭」9 本目。
 これは、史上最大のはったり映画かもしれない。そして、映画は映像と音楽だということを完璧に証明する傑作である。
 きのう(4 月1 日)に感想を書いた「NINE」はミュージカルであるにもかかわらず、音楽が映画を壊してしまっていた。それとは逆に、この映画は音楽の力を最大限に生かしている。
 オープニングや宇宙船が宇宙を旅するシーンはほとんどが「モンタージュ」である。動画ではなく「写真」である。動かない。動きも、物が動くというよりも、カメラが近づいていくというような感じ。アクションではない。動いていても、狭い宇宙船内の空間を動くだけで、いまはやりの激しい動きの映画の対極にある。
 この「不動」の「写真」が「音楽」によって動いてしまう。音楽、音の連続した動きが時間をつくりだし、動いていない写真に命をあたえる。
 もし、この映画から音楽を取ってしまったら、この映画は30分も必要ないかもしれない。30分の映画が音楽の力で160 分になり、そしてそれが不自然ではない。こんな「はったり」ができるのが映画の力なのだ。
 「特撮」といっても、ほとんどが止まっている模型をカメラが接近していくことで動いているように見せかけるという、とてもシンプルなやりかたである。50センチの模型も大きなスクリーンに映せば50メートルを超す宇宙船になる。この「はったり」をクラシックの力で「本物」にかえる。偽物の模型を、本物のクラシックが巨大な実物に変えてしまう。完璧としか、言いようがない。
 後半のクライマックスだって、いいかげんだよなあ。宇宙の裂け目(亀裂?)を超スピードで移動する。そのとき見える光景。光の流れ。それって、本当? 分からないけれど、音楽が「本物」に変えてしまう。音楽の連続性が、いま、スクリーンにあるものが現実と連続したもの、本物、というのである。一瞬、そういうのではなく、鳴り響きつづける「時間」で、何度も何度も繰り返し、そう言い続け、「うそ」かもしれないものを「本物」に変えてしまう。観客に、受け入れさせてしまう。
 完璧な「はったり」、「はったり」の極地だね。



 30年ぶりくらいのHALとの再会で気づいたことが1 点。
 HALが記憶ユニットを外されながら「デイジー」の歌を歌う。私はこのシーンが一番好きだが、あれは、HALが自分の記憶を維持するために必死になって歌を歌っているのではなかった。勘違いだった。でも・・・。私は勘違いのままにしておきたい。HALには対抗手段がない。メモリーを外されるにまかせるしかない。このままでは死んでしまう。だから、最初に覚えた歌を必死に歌うことで、自分の記憶、機能を維持する。ね、涙が出るでしょ? 泣けるでしょ? はい、私は人間よりも機械の味方。そして、このシーンを思い出すたび、泣いていました。テープレコーダーの回転が遅くなるように、歌の点のが落ちて、音程がだんだん低くなる。それでも必死で歌う。けなげでしょ? かわいいでしょ? 抱きしめたくなりません?
 だから、私は、きょう見たシーンは見なかったことにします。HALが自分で、自分のために歌っている――そう思い続けることにします。
 それに、あ、このシーン、なんという短さ。私は、このシーンが30分以上あると思っていたけれど、実際は3 分もないかも。でも、やっぱり、30分のままにしておこう。このシーンが一番はらはらどきどきするんだもの。
 どっちが勝つか分かっているけれど、どっちが勝つ?とやっぱり思うからね。この不安、どきどきは30分は感じたいようなあ。



 それにしてもねえ。変な映画。映像なし(暗いスクリーン)に音楽で始まり、クレジットが終わってしまっても、まだまだ「美しく青きドナウ」が流れ続ける。映画は、映像ではなく、音楽? そんなことを思ってしまうくらい、音楽にどっぷり寄りかかった映画なんだねえ。「はったり」の3乗くらいの映画で、「はったり」もここまでやってしまうと、「はったり」を超越してしまうということかな。
 芸術って、はったりなんだなあ。
 大好きだなあ。


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八木幹夫「籐椅子に座る人」、大橋政人「老犬たちの後ろから」

2010-04-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「籐椅子に座る人」、大橋政人「老犬たちの後ろから」(「交野が原」68、2010年04月10日発行)

 八木幹夫「籐椅子に座る人」は静かな響きに満ちている。

いつだったのだろう
どこだったのだろう
ふかくねむって
めがさめた
うみのおとがした
むすめたちは
ねむっている
つきのひかりがカーテンのすきまから
さしこんで
まどぎわの籐椅子に
あのひとがすわっている
こどもからはなれ
おんなからはなれ
ひとりのおんなからはなれ
そこにいる
(ああ いまこえをかけてはいけない)
よるのうみ
つきのひかり

 ひらがなの効果かもしれない。ことばが「意味」にならずに、音としてただよう。それこそ静かな海の音のように聞こえてくる。近いのか。遠いのか。はっきりわからないのは、その音につつまれてしまうからだ。
 そういう「意味」になる前の、純粋な響きのようにして、「あのひと」が座っている。「こどもからはなれ」つまり母であることから離れ、「おっとからはなれ」つまり妻であることから離れ、 だが、

ひとりのおんなからはなれ

 これはなんだろう。「おんな」から離れたとき、「あのひと」は何になるのだろう。「母」とか「妻」とかという言い換えがきかない。「意味」が消える。「意味」を見失う。「意味」を見失うのだけれど、その見失った「意味」のなかで、ふいにことばにならないものと出会う。ことばになる前のものと出会う。
 だからこそ、「こえをかけてはいけない」。
 「意味」はひらがなの「音」に帰っただけではなく、その「音」の向こうにまで帰っていってしまった。そして、そこで誘っている。
 何を?

よるのうみ
つきのひかり

 ただ、そこにそうしてあるものへと誘っている。ことばを捨て、ただ、見つめる。そして、放心して、世界と一体になる。「あのひと」といっしょに、八木自身も、「よるのうみ」になり、「つきのひかり」になる。



 大橋政人「老犬たちの後ろから」は気持ちがいい。

この辺の犬たちは
みな、かなりの老犬ばかりだ

佐竹さんちのメリーは
目がまっ城に濁ってきたし
稲田さんちのララちゃんは
突然、横倒しに倒れるし
脳梗塞からカムバックした
石井さんちのゴンちゃんは
浮くが如くに
ゆらゆらゆらゆら歩いていく

夕方
そろって散歩に出るが
みんな恐る恐る歩いているので
人間だけでもう一回
歩き直す人もいる

 犬が夕方散歩する。老犬なのでゆっくりしか歩けない。それに辛抱強く、人間がつきあっている。その「ゆっくり」が愛というものだが、それを味わいながら犬もまた歩いている。体の調子が悪いからゆったりしているだけではないのだ。そんなふうに「ゆっくり」と歩くこと自体がうれしいのだ。
 そのあとが、とてもおかしくて、とても楽しい。気持ちのいい「味」がある。
 そんなふうに「ゆっくり」歩いていたのでは、人間の「散歩」(運動)にはならない。だから、ひとりで、つまり犬は家においておいて、もう一度歩き直す。
 これって、人間の「わがまま」?
 わからないなあ。けれど、ねえ。それが「わがまま」かなにかよくわからないけれど、その「欲望」は、犬といっしょに歩いたために生まれてきたものだ。歩かなければなんとも感じないのかもしれないが、なまじ、ゆっくり歩いているために、歩くことにめざめてしまうのだ。「歩く」「歩ける」という喜びがある、ということに気づいてしまって、歩いているのだ。
 そう思うと、それはあるいは「老犬」が教えてくれた何か大切なもののようにも思えてくるのだ。
 きっと、ひとりで歩きながら、そのひとは「あ、うちのメリーも、ほんとうはこんなふうにして歩きたいんだよなあ」なんて、思っている。「よし、メリーの分まで歩くぞ」なんて、思いながら歩く。
 「人間だけで」歩き直しているようにみえて、実際は、犬と歩き直している。家に帰って、「ねえ、メリー、稲田さんちの角を曲がって山の方へ歩いていくとスミレが咲いていたよ。去年は、見たよね。あしたはそこまで行ってみようか」なんて、語りかけるのかもしれない。
 「人間だけ」とはいいながら、いつもいつも、いっしょなのだ。




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