監督 スタンリー・キューブリック 出演 ケア・ダレー、ゲイリー・ロックウッド、ダグラス・レイン(HAL)
「午前十時の映画祭」9 本目。
これは、史上最大のはったり映画かもしれない。そして、映画は映像と音楽だということを完璧に証明する傑作である。
きのう(4 月1 日)に感想を書いた「NINE」はミュージカルであるにもかかわらず、音楽が映画を壊してしまっていた。それとは逆に、この映画は音楽の力を最大限に生かしている。
オープニングや宇宙船が宇宙を旅するシーンはほとんどが「モンタージュ」である。動画ではなく「写真」である。動かない。動きも、物が動くというよりも、カメラが近づいていくというような感じ。アクションではない。動いていても、狭い宇宙船内の空間を動くだけで、いまはやりの激しい動きの映画の対極にある。
この「不動」の「写真」が「音楽」によって動いてしまう。音楽、音の連続した動きが時間をつくりだし、動いていない写真に命をあたえる。
もし、この映画から音楽を取ってしまったら、この映画は30分も必要ないかもしれない。30分の映画が音楽の力で160 分になり、そしてそれが不自然ではない。こんな「はったり」ができるのが映画の力なのだ。
「特撮」といっても、ほとんどが止まっている模型をカメラが接近していくことで動いているように見せかけるという、とてもシンプルなやりかたである。50センチの模型も大きなスクリーンに映せば50メートルを超す宇宙船になる。この「はったり」をクラシックの力で「本物」にかえる。偽物の模型を、本物のクラシックが巨大な実物に変えてしまう。完璧としか、言いようがない。
後半のクライマックスだって、いいかげんだよなあ。宇宙の裂け目(亀裂?)を超スピードで移動する。そのとき見える光景。光の流れ。それって、本当? 分からないけれど、音楽が「本物」に変えてしまう。音楽の連続性が、いま、スクリーンにあるものが現実と連続したもの、本物、というのである。一瞬、そういうのではなく、鳴り響きつづける「時間」で、何度も何度も繰り返し、そう言い続け、「うそ」かもしれないものを「本物」に変えてしまう。観客に、受け入れさせてしまう。
完璧な「はったり」、「はったり」の極地だね。
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30年ぶりくらいのHALとの再会で気づいたことが1 点。
HALが記憶ユニットを外されながら「デイジー」の歌を歌う。私はこのシーンが一番好きだが、あれは、HALが自分の記憶を維持するために必死になって歌を歌っているのではなかった。勘違いだった。でも・・・。私は勘違いのままにしておきたい。HALには対抗手段がない。メモリーを外されるにまかせるしかない。このままでは死んでしまう。だから、最初に覚えた歌を必死に歌うことで、自分の記憶、機能を維持する。ね、涙が出るでしょ? 泣けるでしょ? はい、私は人間よりも機械の味方。そして、このシーンを思い出すたび、泣いていました。テープレコーダーの回転が遅くなるように、歌の点のが落ちて、音程がだんだん低くなる。それでも必死で歌う。けなげでしょ? かわいいでしょ? 抱きしめたくなりません?
だから、私は、きょう見たシーンは見なかったことにします。HALが自分で、自分のために歌っている――そう思い続けることにします。
それに、あ、このシーン、なんという短さ。私は、このシーンが30分以上あると思っていたけれど、実際は3 分もないかも。でも、やっぱり、30分のままにしておこう。このシーンが一番はらはらどきどきするんだもの。
どっちが勝つか分かっているけれど、どっちが勝つ?とやっぱり思うからね。この不安、どきどきは30分は感じたいようなあ。
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それにしてもねえ。変な映画。映像なし(暗いスクリーン)に音楽で始まり、クレジットが終わってしまっても、まだまだ「美しく青きドナウ」が流れ続ける。映画は、映像ではなく、音楽? そんなことを思ってしまうくらい、音楽にどっぷり寄りかかった映画なんだねえ。「はったり」の3乗くらいの映画で、「はったり」もここまでやってしまうと、「はったり」を超越してしまうということかな。
芸術って、はったりなんだなあ。
大好きだなあ。
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