詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アナスターシャ・アファナーシェヴァ「水際で」(たなかあきみつ訳)

2010-04-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
アナスターシャ・アファナーシェヴァ「水際で」(たなかあきみつ訳)(「ガニメデ」48、2010年04月01日発行)

 翻訳された詩というのは誰の作品になるのだろう。原文を書いたひとのものか。訳したひとのものか。つまり、誰の作品を読んだことになるのか。
 わからないまま、何の決定もせずに、私は、そのことばを読む。原文ではなく、そこに書かれている日本語を。そして、やっぱり、わけがわからなくなる。
 たなかあきみつ訳のアナスターシャ・アファナーシェヴァ「水際で」の前半。

水際で
物静かに物思いにひたれよう、
水際で佇みつつ、
砂と接触して、
空き缶空き瓶吸い殻の傍らで
水際で
あれこれすべて思い浮かべられよう。

 「物思いにひたれよう」「思い浮かべられよう」という「日本語」は私にはとても不自然に感じられる。私は、いきなり、そのことばの前で、舌が回らなくなるのを感じる。私は音読をするわけではないが、一瞬、舌が混乱するのを感じてしまう。ろれつがまわらなくなる。「音」と「意味」が分離してしまう。いや、言えなかった「音」が、私を取り囲み、私はうろうろしてしまう。
 私は「音」を封印する。音読はしないが、意識して、「肉体」を封印する。「頭」だけで、考えはじめる。
 そうすると、「ひたることができるだろう」「思い浮かべられるだろう」ということばと、「ひたるだろう」「思い浮かべるだろう」ということばが、私には、同時に浮かんでくる。
 そして、「原文」がどうであれ、というのは、私が「原文」を書くと仮定して、あるいは「原文」を訳すとして、そのどちらであったにしろということなのだが、私は「ひたるだろう」「思い浮かべるだろう」と書いてしまうだろう、と思う。「だろう」という推量(?)は「できる」をどこかに含んでいる。わざわざ「できる」とは書かないだろうと思う。そして、その私の書かないことばを「わざわざ」書く人がいるということを思い、あ、このひとは「できる」ということ、そこに「可能」のニュアンスを書きたかったのだな、それがこのひとの「思想」だな、と思うのだが、こういうときなんだなあ、これって、誰の「思想」? アナスターシャ・アファナーシェヴァの「思想」? たなかあきみつの「思想」? それが気になる。
 「意味」を「音」にかえていくとき、動いたのは誰の「肉体」? それが気になる。

 実は、これは私の書きたいことの「前段」なのである。
 私は、そのあとの行に進んで、もっとつまずいてしまった。(でも、これは最初につまずいたために、つまり態勢を崩したまま読み進んだために、次のつまずきで、それを大きなつまずきと感じただけなのかもしれないけれど。)

きのう映画を見た、
沼のようにどろどろねばねばの
とはいえ沼のようにきれいな映画を。
わたしはあるショットを思い出す。チェス盤上に
ひろげた手。
なんともすごい思いつきだ。砂浜で佇んで
ごみだらけの砂浜で佇んで
水の先端で。

 「なんともすごい思いつきだ」。この「口語」。それは誰の「肉体」をとおってきたのか。アナスターシャ・アファナーシェヴか。たなかあきみつか。
 「口語」でない部分、「書きことば」の部分には、「頭」の制御(?)が働いている。そういう「書きことば」を読むときは、私は、「意味」をとおって、アナスターシャ・アファナーシェヴとたなかあきみつの「共通する頭」につながることができる。「頭」がつながって、アナスターシャ・アファナーシェヴ、たなかあきみつ、私が、「意味」を共有する。(それが「誤読」かもしれないが、まあ、私は、そんなふうに考える。)
 ことろが「口語」は「意味」であるより前に「肉体」である。それは「意味」のような「抽象」ではない。もっと具体的な、手触りというか、抵抗感のあるものだ。だから、それが誰のものであるかわからないと、私はちょっと不安になる。いま、誰の「肉体」と接しいてるのかな? ということが、気になる。
 特に。
 あ、これが問題なんだなあ。
 特に、その「肉体」と私の「肉体」がぴたっと重なって、そこに違和感をまったく感じないときに、それが私には気になる。私は誰の「肉体」に共感したのだろう。
 「なんともすごい思いつきだ」。この一文は、とてもよくわかるのだ。「わかる」とは何かと書きはじめると面倒だけれど、「意味」を通り越して、「声」で出てしまうのだ。自然に、つまり無意識のうちに「なんともすごい思いつきだ」と、私の「肉体」は声を出している。
 いや、これは、本来なら「問題」とは言えないことなのである。私はいつでも、「書きことば」が私の「肉体」のなかで自然に「声」になってしまう部分を中心にして、筆者に近づいて行く。そして、あ、この部分が好き、と書きはじめる。
 この詩でも、「なんともすごい思いつきだ」という一文がいちばん好きなのだが、それが好きだと書いてしまうと……。
 最初に書いた「ひたれよう」「思い浮かべられよう」ということばがくぐってきた「肉体」は誰のもの? それが気になるのだ。私の「肉体」のなかには、アナスターシャ・アファナーシェヴか、たなかあきみつか、そのどちらかと「一致」できないものがあるのだ。それが気になる。気になる部分がなければ、もっともっと、この作品が好きになれるのになあ、と思ってしまうのだ。

 この問題は、「頭」のいい人なら、たなかあきみつが訳を換えればすむ問題であると考えるかもしれない。あるいは、私がかってに読み替えればすむ問題であるというかもしれない。たとえば「ひたるだろう」「思い浮かべるだろう」と私が読み替えれば、この詩は、この詩は私にとってすばらしいものになる、と。
 でもねえ。そんな具合にはいかないのだ。
 そんなことをしてしまうと「音」が消えてしまう。ことばのなかから「音」が消えてしまう。
 この詩のなかの「音」は「なんともすごい思いつきだ」だけになってしまう。それは、まずいなあ、と思う。「ひたれよう」「思い浮かべられよう」という「音」、そのときの「舌のもつれ」と、それを超えて「なんともすごい思いつきだ」ということばの「音」のなかで「肉体」が一致するというのは、なんといえばいいのだろう、一種の「弁証法」のようであって、「不一致」があるからこそ「一致」がよろこびになるという、奇妙な関係にあるからだ。

 だから、やっぱり、ここでは「ひたれよう」「思い浮かべられよう」が、誰の音なのかわからない--とだけしか書くことができない。そう書くことで、たなかあきみつから、なんらかのヒントを引き出したいと思っている、と書いておくしかない。



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