小島数子「ささやかな面目」(「庭園詞華集2010」2010年04月02日発行)
書くことは、「私」が「私」から抜け出し、「私」ではなくってしまうことだ。「私」ではなくなることを繰りかえしながら「私」は「私」でありつづける。なんども「他者」になってしまうことを繰り返し、「私」そのものの「輪郭」のようなものが拡大していく。広々としたものになる。--そういうことが北川朱実のことばの運動、北川の思想だとすると、小島数子のことばは、ずいぶん運動の仕方が違っている。
「ささやかな面目」の書き出し。
「現実」と「私」の、ずれ。ぴったり重なり合わない。そのときの印象からことばが動きはじめるのは、北川も、小島も同じである。(と、私は思う。)
北川は「さら地」と「さら地の前の家の記憶」とのずれから出発した。「思い出せない」ということろから、書くことについて考えはじめ、「他人」になることで、新しいいのちに生まれ変わる。
小島は、「他人」になることを拒む。拒絶する。
「現実」の「ずれ」は「具体的」な「ずれ」ではなく、きわめて抽象的である。「ひそやかな揺さぶり」「変容」「厚み」ということばが具体的に何をさしているか、まったくわからない。私にはわからないが、小島には、たぶんわかりすぎている。筆者は、自分自身にとってわかりすぎていることなど、書かない。書く必要がない。北川のことばを借りて言えば、すでに「字」にしてしまって、しっかり肉体に「記憶」されてしまっているからである。
北川のように「さら地」というような具体的なものをことばにしない。そのことにも「他人」というか「他者」というか、自分以外を拒絶する姿勢を感じることができるが、この出発点の違いが、ことばの運動にも影響してくる。
「揺さぶり」「変容」「厚み」ということばから出発した小島は、
ということばから、ことばの運動をさらに進める。「足裏」。そのきわめて「肉体的」なもの。「足裏」の「うながし」という、「肉体」の所有者にしかわからない感覚。個人的な、内部の感覚。--小島は、「私」を捨てて「私」を出て行くのではなく、「私」の内部へ内部へと掘り進むのである。
「肉体」というのものは不思議なもので、それが「肉体」であるかぎり、私たちは他者の「肉体」であっても、その「肉体」の感じることを感じてしまう。道端に誰かが倒れてうずくまっている。そのひとは「痛い」とも「苦しい」とも言わない。ことばがない。けれども、私たちは「声(ことば)」を聞いてしまう。そのひとは「痛い」「苦しい」と言っている。いや、痛すぎて、苦しすぎて、「痛い」も「苦しい」もいうことすらできない。そういうことに「肉体」は共鳴してしまうのだ。
「肉体」を掘り進んだ小島は、そこではじめて「他者」に会う。
「根」と呼ばれているのもは、「足裏」である。「根」の欲望にうながされて、木や草花は歌う。そして、「足裏」が「根」と共鳴するとき、小島の「肉体」はどんなふうに変化するか。
「肉体」そのものの力を取り戻すのである。
現実に違和を感じ、動けなくなって、それでもことばを動かしながら、「他者」にふれあい、深呼吸して、生まれ変わる--という運動として考えれば、北川も小島も同じだが、ことばを動かしていくベクトルの方向が違う。北川は自分からでて「他者」そのものに直接向かう。小島は自分の「肉体」の内部を掘り進み、「他者」と触れ合えるものを探し出す。
小島は、自分の「肉体」のなかの記憶をことばでつかみなおす。そして、それを忘れないために書く。「追憶がはぜる音」--そういう抽象、現実の抽象と拮抗できる抽象が「肉体」の奥にみつかるまで、「肉体」を掘り下げる。そういう奥深い場所まで。
それは「足裏」というような「部位」ではなく、「たたずむ」という動きの場である。「肉体」の運動の「場」--というところまで。
書くことは、「私」が「私」から抜け出し、「私」ではなくってしまうことだ。「私」ではなくなることを繰りかえしながら「私」は「私」でありつづける。なんども「他者」になってしまうことを繰り返し、「私」そのものの「輪郭」のようなものが拡大していく。広々としたものになる。--そういうことが北川朱実のことばの運動、北川の思想だとすると、小島数子のことばは、ずいぶん運動の仕方が違っている。
「ささやかな面目」の書き出し。
現実が
ひそやかな揺さぶりを感じて
そこから進み
変容する
厚みを増そうとする
歩きたいという足裏にうながされ
連れの屈託と共に行き
風に吹かれ
木とその根が伴奏し
草花とその根が歌う曲を聞くと
肩がつやめき
小さな笑みがひらめいた
「現実」と「私」の、ずれ。ぴったり重なり合わない。そのときの印象からことばが動きはじめるのは、北川も、小島も同じである。(と、私は思う。)
北川は「さら地」と「さら地の前の家の記憶」とのずれから出発した。「思い出せない」ということろから、書くことについて考えはじめ、「他人」になることで、新しいいのちに生まれ変わる。
小島は、「他人」になることを拒む。拒絶する。
「現実」の「ずれ」は「具体的」な「ずれ」ではなく、きわめて抽象的である。「ひそやかな揺さぶり」「変容」「厚み」ということばが具体的に何をさしているか、まったくわからない。私にはわからないが、小島には、たぶんわかりすぎている。筆者は、自分自身にとってわかりすぎていることなど、書かない。書く必要がない。北川のことばを借りて言えば、すでに「字」にしてしまって、しっかり肉体に「記憶」されてしまっているからである。
北川のように「さら地」というような具体的なものをことばにしない。そのことにも「他人」というか「他者」というか、自分以外を拒絶する姿勢を感じることができるが、この出発点の違いが、ことばの運動にも影響してくる。
「揺さぶり」「変容」「厚み」ということばから出発した小島は、
歩きたいという足裏にうながされ
ということばから、ことばの運動をさらに進める。「足裏」。そのきわめて「肉体的」なもの。「足裏」の「うながし」という、「肉体」の所有者にしかわからない感覚。個人的な、内部の感覚。--小島は、「私」を捨てて「私」を出て行くのではなく、「私」の内部へ内部へと掘り進むのである。
「肉体」というのものは不思議なもので、それが「肉体」であるかぎり、私たちは他者の「肉体」であっても、その「肉体」の感じることを感じてしまう。道端に誰かが倒れてうずくまっている。そのひとは「痛い」とも「苦しい」とも言わない。ことばがない。けれども、私たちは「声(ことば)」を聞いてしまう。そのひとは「痛い」「苦しい」と言っている。いや、痛すぎて、苦しすぎて、「痛い」も「苦しい」もいうことすらできない。そういうことに「肉体」は共鳴してしまうのだ。
「肉体」を掘り進んだ小島は、そこではじめて「他者」に会う。
木とその根が伴奏し
草花とその根が歌う
「根」と呼ばれているのもは、「足裏」である。「根」の欲望にうながされて、木や草花は歌う。そして、「足裏」が「根」と共鳴するとき、小島の「肉体」はどんなふうに変化するか。
肩がつやめき
小さな笑みがひらめいた
「肉体」そのものの力を取り戻すのである。
現実に違和を感じ、動けなくなって、それでもことばを動かしながら、「他者」にふれあい、深呼吸して、生まれ変わる--という運動として考えれば、北川も小島も同じだが、ことばを動かしていくベクトルの方向が違う。北川は自分からでて「他者」そのものに直接向かう。小島は自分の「肉体」の内部を掘り進み、「他者」と触れ合えるものを探し出す。
現実が
退けられることなく
そこから進み
変容する
結果を出そうとする
鯉と鴨のいる池のほとりに
夕焼けのスカーフを首にまいてたたずみ
しずかに追憶がはぜる音を聞いた
小島は、自分の「肉体」のなかの記憶をことばでつかみなおす。そして、それを忘れないために書く。「追憶がはぜる音」--そういう抽象、現実の抽象と拮抗できる抽象が「肉体」の奥にみつかるまで、「肉体」を掘り下げる。そういう奥深い場所まで。
それは「足裏」というような「部位」ではなく、「たたずむ」という動きの場である。「肉体」の運動の「場」--というところまで。
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