詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(124 )

2010-04-09 23:35:20 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩のおもしろさに、ふいに飛びこんでくる口語の響きがある。「ジュピーテル」の、釣りをする部分。カマスを狙っているのだが……。

淡紅色のみみずを入れておく桃の
ブリキのカンはヴィーナスにみえた
時々風草をつんで風の方向をさぐる
「なんだまた鮒の野郎か」

 「なんだまた鮒か」ではなく「鮒の野郎か」。その「野郎」のなかに、ふいに連れの男の過去が噴出してくる。それはみみずを「淡紅色」と描写したり、わざわざ空き缶を「桃の/ブリキのカン」と描写する感覚とは違っている。そのために、ことばが乱入してきたという印象がある。そして、その乱入によって、ことばの動きがいきいきとする。ことばは、ことばに出会うために存在している、そのために動いているということがわかって楽しくなる。
 最後の数行。

こんどもこのギリシャ人をさそって
またソバ屋でお礼の木杯を巧みに
あげようと思つて夕暮に
天使のまねをして翼をつけて
訪ねてみた
「端午の節句でヒロセという村へ
行かれました」
「それはどうも」

 男は留守だった。応対した女(たぶん)は、「(夫は)ヒロセという村へ/いかれました」と「敬語」をまじえてしゃべっている。その敬語につられて「それはどうも」と、なんともあいまいな反応をする西脇(たぶん)。
 このリズムと、前にでてきた「鮒の野郎か」の違い。落差。
 ことばは、それぞれ「過去」をもっている。そして、その「過去」は、「口語」でこそ、くっきりと出てくる。ヴィーナスやギリシャにも「過去」というものがあるが、そういう「土地」を離れたことばではなく、その「土地」に生きている人間の「過去」。「肉体」というものが、ふいにことばのなかに乱入してきて、「文語」を破壊する。
 その瞬間に、私はおもしろみを感じる。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房

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志賀直哉(6)

2010-04-09 11:14:54 | 志賀直哉
 「鬼」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)

 志賀直哉は短いことばが非常に印象に残る。たとえば、前回感想を書いた「菰野」。列車から見る風景。

遠い百姓家に咲いてゐる凌霄花(のうぜんかづら)が雲を漏れてさす陽を受け、遠いのに度強(どぎつ)く眼に映つた。

 「遠いのに度強(どぎつ)く眼に映つた。」がとても印象的だ。「遠い」は「雲を漏れてさす陽」と呼応している。その調和を「度強く」が破る。
 そういう呼吸とは、逆の文章も、ときどき非常にこころに残る。
 「鬼」は近所にいた「小鬼」のような少年(井上)を描いたものだが、その文章の最後に追加されたことばが、私はとても好きだ。

 井上は駆チク艦に乗つてゐて、艦長から此文章の載つてゐる雑誌を見せられ「お前の事だらう」と云はれて読んだと云ひ、私が新町に移つてから訪ねて来たが、前の井上と変り快活によく話し、如何にもなつかしさうな様子をしてゐた。その後何の便りもなく、どうしたかと思ひ、一年程してからかと思ふが奈良にいつた時、兄の食品店を訪ねたら船が沈んで戦死したといふ事だつた。

 「乗つてゐて……載つていゐる」「云はれて……云ひ」「どうしたかと思ひ、……からかと思ふが」という繰り返しが、ことばをゆったりとさせている。その、すこし間延びさえした感じが、ひとを思い出している気持ちにとてもあっている。あ、と叫んで、突然、強烈な印象で思い出すのではなく、ああ、という感じが伝わってくる。
 そして、そのリズムが、それに先立つ小説の本編の「小鬼」の快活な描写と美しい対比になっている。



志賀直哉はなぜ名文か―あじわいたい美しい日本語 (祥伝社新書)
山口 翼
祥伝社

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相生葉留実『舟にのる』(2)

2010-04-09 00:00:00 | 詩集
相生葉留実『舟にのる』(2)(ワニ・プロダクション、2010年03月23日発行)

 相生葉留実の「肉体感覚」(肉体認識)は独特である。ひとを愛するということは、自分が自分ではなくなってもかまわないと覚悟し、他者と接することだが、そのとき「他者」というものは厳然として存在する。その「厳然」の感じが、相生の場合、私にはかなり違って見える。違って感じられる。何かしら、最初からつながりあっている。しかも、強固につながっている。「他者」がいても、それは常に「一体感覚」をもって存在している。そういう感じがとても強いのである。
 「ある思い」。この詩もまた相生の「誕生」に関する詩なのかもしれない。

夫である漁師は大漁を願って船出した
妊婦にはゆっくりと陣痛がはじまる
漁師は網をひきつづける いつまでも

 ここには「漁師」(夫)と「妊婦」(妻)が登場する。ふたりは「夫婦」だから「一体」でいいのだろうけれど、その「一体」感覚が、とてもどっしりしている。船出すれば、ふたりのあいだの距離はひろがるのだが、そこにはふたりが離れているという感じがしない。「陣痛」の感覚、それと網を引くときの手応え、そのふたりの「肉体」のなかの充実した力の動きが重なり合っている。
 「ひとを愛するということは、自分が自分ではなくなってもかまわないと覚悟し、他者と接すること」と私は最初に書いたが、相生の場合、それは「覚悟」というような、一種、それまでの自分をふりきってしまうような感じではなく、「いまのまま」の「自然」そのものなのだ。相生は、うまれついて、ひとを愛するようにできているのだ。「覚悟」などしなくても、「他者」と一体になれるのだ。なってしまうのだ。それも、「外見」ではなく、「内部」、「肉体の見えない部分」、いや「部分」というより、やはり「力」なんだろうなあ。「肉体」のなかで動いているものそのものが「一体」になる。
 きのう読んだ「受胎期」の「卵子」「精子」。それは、「外部」というか、形があるとといわなければならないものなのだろうけれど、まあ、セックスをしているふたりにとっては「肉体の見えない部分、見えない力」だね。それが出会ったとき、そしてそこから「いのち」が誕生したとき、その「力」は「卵子」「精子」のなくしてしまう。極論を書いてしまうと、男のペニスから「卵子」が発射され、それが女の子宮の「精子」の海で出会ったということもありうるのである。それは「肉体の内部」のできごとなので、そとからはわからない。外からわからないことは、人間がかってに想像しただけのことである。かってにことばにしただけのことである。はっきりしているのは、「卵子」と「精子」が出会い、「いのち」になり、それは「形あるもの」として「外」へ飛び出してくる。誕生してくる。それだけである。その誕生のための、肉体の内部の「力」の運動は、どっちがどっちでも「対等」なのである。「卵子」と「精子」は対等だから、「卵子が精子に会う」と「精子が卵子に会う」とも言い換えうる。主語は言い換え可能である。だからこそ、「受胎期」は「母」から聞いた話が基本になっているのに、「私」は「精子」なのだ。
 この「ある思い」では、相生の描いている「力」は、人間のセックスのときの、卵子と精子の出会いとは違って、ちゃんと肉眼で見える。いや、遠い海と室内とに分かれているから、これはこれで肉眼では見えない、ということかもしれないけれど、その「力」は側に存在しなくても呼応し合う。離れていても呼応する「力」。それくらい、相生の「他者との一体感」(この場合は夫婦だけれど)、それは強いのだ。

産婆はつとめて
まじめな顔を装う
いつものことだがなぜか笑みをうかべてしまう
網を曳く手つきで
赤ん坊を母親からひきずりだしはなす
こともは一生の間で二回親ばなれをする
分娩室の窓から外をのぞく産婆
病院の中庭ではコスモスが満開だ
海の上では妊婦の夫が
陸で生きている
二人のひと
妻と
今生まれたばかりの
小さな者との
はなれた距離を
船板に腰かけながら
うっとりと考えている
妻の腰骨や骨盤 その上にのっかっていた赤ん坊
赤ん坊は自分のようにも思われてくる
尻の下では波が体をもちあげる
海の中では今さかんに産卵を繰り返す魚らが
数かぎりなく泳ぎまわっている

 夫が、遠い海の上で「妻と/今生まれたばかりの/小さな者との/はなれた距離を」「うっとりと考えている」。あ、びっくりする。「はなれた距離」。「はなれた」とことばのなかにある「はなれない」状態の、その「力」。それが「はなれた」あとは、どうなるのだろう。独自に生きながら、それでもつながっている。「一体」(胎内の中で生きている)ときの力。そこから分離したあとの力。
 
うっとり

 相生は、そう書いているが、それはたしかに「うっとり」と考えるしかないものだろう。この考えるは、思考する、というよりも、思考を放棄して、ぼんやりするというのに近い。思考することを放棄しながら、思考ではたどりつけないものに思いをはせている。一種の放心。それが「うっとり」。
 この「うっとり」は夫の「うっとり」なのだが、同時に「妻」の「うっとり」でもある。妻もまた、「今生まれたばかりの/小さな者」との「わかれた距離」を「うっとり」とながめている。その「はなれた距離」を愛している。
 はなれている。「一体」ではない。だから、愛する。その愛の中で「一体」が生まれる。
 このあとが、また、すばらしいなあ。

妻の腰骨や骨盤 その上にのっかっていた赤ん坊
赤ん坊は自分のようにも思われてくる

 このとき、それは単に「思われてくる」を超えている。そういうふうに思いながら、夫は「赤ん坊」になっている。「赤ん坊」と「一体」になっている。それは「思い」として「一体」というのではない。「愛の中での一体」ではない。「肉体」として「一体」になっている。「赤ん坊」の「肉体」を体験している。
 すごい。
 どきどきしてしまう。
 私は相生を知らないし、当然、その母(ここで描かれている妻)も父(漁師の夫)も知らさないが、なんだか、妊婦と漁師のあいだから生まれた「赤ん坊」になったような気持ちになる。その「赤ん坊」になった私を、漁師が「それは私だ」と海の上で大声を挙げてよろこんでいる。そんな情景が浮かんでくる。(詩では、「うっとりと考えている」「思われてくる」と静かに書かれているのだけれど……)

 相生は、漁師の夫、妻、赤ん坊の「三位一体」を描いているのだが、その感覚があまりにも深いところから生まれてきているので、その感覚の中に飲み込まれ、ここに書かれているのは相生の両親のことでも、相生のことでもなく、私(谷内)のことだ、と錯覚してしまう感じになる。
 こんなことは、「誤読」を通り越していることなのだけれど、いいなあ、「誤読」と知りつつ、とても幸せな気持ちになる。
 私は、きょうの「日記」を愛の定義で書きはじめたのだけれど、ね、ばかばかしいねえ。そんな定義なんて。そんな定義を相生は必要としていない。相生は、生まれながらに、愛そのものなのだ。
 出会ったひととだけ「三位一体」の世界へ動いていくのではなく、生きていること自体が「三位一体」である。世界が存在すること自体が「三位一体」なのだ。

尻の下では波が体をもちあげる
海の中では今さかんに産卵を繰り返す魚らが
数かぎりなく泳ぎまわっている

 漁師の夫は「赤ん坊」になるだけではない。海そのものにもなる。(母にも、妊婦にもなる、ということだ。)世界は、「いのち」を産みながら、膨張している。ひろがっている。豊かにふくらんでいる。その豊かなふくらみが漁師の尻を持ち上げる。持ち上げられながら、持ち上げられることを実感するとき、そのときこそ、漁師は海になっている。海になって、漁師を持ち上げている。

 生きる、とは、こういうことなんだなあ。

*

 アマゾンでは検索しても、まだ相生の詩集は登録されていない。
 ワニ・プロダクションの住所、発行人は

    301-0837 茨城県竜ヶ崎市根町71
    仲山清

 売り切れにならないうちに、ぜひ、ご講読下さい。


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