相生葉留実『舟にのる』(2)(ワニ・プロダクション、2010年03月23日発行)
相生葉留実の「肉体感覚」(肉体認識)は独特である。ひとを愛するということは、自分が自分ではなくなってもかまわないと覚悟し、他者と接することだが、そのとき「他者」というものは厳然として存在する。その「厳然」の感じが、相生の場合、私にはかなり違って見える。違って感じられる。何かしら、最初からつながりあっている。しかも、強固につながっている。「他者」がいても、それは常に「一体感覚」をもって存在している。そういう感じがとても強いのである。
「ある思い」。この詩もまた相生の「誕生」に関する詩なのかもしれない。
夫である漁師は大漁を願って船出した
妊婦にはゆっくりと陣痛がはじまる
漁師は網をひきつづける いつまでも
ここには「漁師」(夫)と「妊婦」(妻)が登場する。ふたりは「夫婦」だから「一体」でいいのだろうけれど、その「一体」感覚が、とてもどっしりしている。船出すれば、ふたりのあいだの距離はひろがるのだが、そこにはふたりが離れているという感じがしない。「陣痛」の感覚、それと網を引くときの手応え、そのふたりの「肉体」のなかの充実した力の動きが重なり合っている。
「ひとを愛するということは、自分が自分ではなくなってもかまわないと覚悟し、他者と接すること」と私は最初に書いたが、相生の場合、それは「覚悟」というような、一種、それまでの自分をふりきってしまうような感じではなく、「いまのまま」の「自然」そのものなのだ。相生は、うまれついて、ひとを愛するようにできているのだ。「覚悟」などしなくても、「他者」と一体になれるのだ。なってしまうのだ。それも、「外見」ではなく、「内部」、「肉体の見えない部分」、いや「部分」というより、やはり「力」なんだろうなあ。「肉体」のなかで動いているものそのものが「一体」になる。
きのう読んだ「受胎期」の「卵子」「精子」。それは、「外部」というか、形があるとといわなければならないものなのだろうけれど、まあ、セックスをしているふたりにとっては「肉体の見えない部分、見えない力」だね。それが出会ったとき、そしてそこから「いのち」が誕生したとき、その「力」は「卵子」「精子」のなくしてしまう。極論を書いてしまうと、男のペニスから「卵子」が発射され、それが女の子宮の「精子」の海で出会ったということもありうるのである。それは「肉体の内部」のできごとなので、そとからはわからない。外からわからないことは、人間がかってに想像しただけのことである。かってにことばにしただけのことである。はっきりしているのは、「卵子」と「精子」が出会い、「いのち」になり、それは「形あるもの」として「外」へ飛び出してくる。誕生してくる。それだけである。その誕生のための、肉体の内部の「力」の運動は、どっちがどっちでも「対等」なのである。「卵子」と「精子」は対等だから、「卵子が精子に会う」と「精子が卵子に会う」とも言い換えうる。主語は言い換え可能である。だからこそ、「受胎期」は「母」から聞いた話が基本になっているのに、「私」は「精子」なのだ。
この「ある思い」では、相生の描いている「力」は、人間のセックスのときの、卵子と精子の出会いとは違って、ちゃんと肉眼で見える。いや、遠い海と室内とに分かれているから、これはこれで肉眼では見えない、ということかもしれないけれど、その「力」は側に存在しなくても呼応し合う。離れていても呼応する「力」。それくらい、相生の「他者との一体感」(この場合は夫婦だけれど)、それは強いのだ。
産婆はつとめて
まじめな顔を装う
いつものことだがなぜか笑みをうかべてしまう
網を曳く手つきで
赤ん坊を母親からひきずりだしはなす
こともは一生の間で二回親ばなれをする
分娩室の窓から外をのぞく産婆
病院の中庭ではコスモスが満開だ
海の上では妊婦の夫が
陸で生きている
二人のひと
妻と
今生まれたばかりの
小さな者との
はなれた距離を
船板に腰かけながら
うっとりと考えている
妻の腰骨や骨盤 その上にのっかっていた赤ん坊
赤ん坊は自分のようにも思われてくる
尻の下では波が体をもちあげる
海の中では今さかんに産卵を繰り返す魚らが
数かぎりなく泳ぎまわっている
夫が、遠い海の上で「妻と/今生まれたばかりの/小さな者との/はなれた距離を」「うっとりと考えている」。あ、びっくりする。「はなれた距離」。「はなれた」とことばのなかにある「はなれない」状態の、その「力」。それが「はなれた」あとは、どうなるのだろう。独自に生きながら、それでもつながっている。「一体」(胎内の中で生きている)ときの力。そこから分離したあとの力。
うっとり
相生は、そう書いているが、それはたしかに「うっとり」と考えるしかないものだろう。この考えるは、思考する、というよりも、思考を放棄して、ぼんやりするというのに近い。思考することを放棄しながら、思考ではたどりつけないものに思いをはせている。一種の放心。それが「うっとり」。
この「うっとり」は夫の「うっとり」なのだが、同時に「妻」の「うっとり」でもある。妻もまた、「今生まれたばかりの/小さな者」との「わかれた距離」を「うっとり」とながめている。その「はなれた距離」を愛している。
はなれている。「一体」ではない。だから、愛する。その愛の中で「一体」が生まれる。
このあとが、また、すばらしいなあ。
妻の腰骨や骨盤 その上にのっかっていた赤ん坊
赤ん坊は自分のようにも思われてくる
このとき、それは単に「思われてくる」を超えている。そういうふうに思いながら、夫は「赤ん坊」になっている。「赤ん坊」と「一体」になっている。それは「思い」として「一体」というのではない。「愛の中での一体」ではない。「肉体」として「一体」になっている。「赤ん坊」の「肉体」を体験している。
すごい。
どきどきしてしまう。
私は相生を知らないし、当然、その母(ここで描かれている妻)も父(漁師の夫)も知らさないが、なんだか、妊婦と漁師のあいだから生まれた「赤ん坊」になったような気持ちになる。その「赤ん坊」になった私を、漁師が「それは私だ」と海の上で大声を挙げてよろこんでいる。そんな情景が浮かんでくる。(詩では、「うっとりと考えている」「思われてくる」と静かに書かれているのだけれど……)
相生は、漁師の夫、妻、赤ん坊の「三位一体」を描いているのだが、その感覚があまりにも深いところから生まれてきているので、その感覚の中に飲み込まれ、ここに書かれているのは相生の両親のことでも、相生のことでもなく、私(谷内)のことだ、と錯覚してしまう感じになる。
こんなことは、「誤読」を通り越していることなのだけれど、いいなあ、「誤読」と知りつつ、とても幸せな気持ちになる。
私は、きょうの「日記」を愛の定義で書きはじめたのだけれど、ね、ばかばかしいねえ。そんな定義なんて。そんな定義を相生は必要としていない。相生は、生まれながらに、愛そのものなのだ。
出会ったひととだけ「三位一体」の世界へ動いていくのではなく、生きていること自体が「三位一体」である。世界が存在すること自体が「三位一体」なのだ。
尻の下では波が体をもちあげる
海の中では今さかんに産卵を繰り返す魚らが
数かぎりなく泳ぎまわっている
漁師の夫は「赤ん坊」になるだけではない。海そのものにもなる。(母にも、妊婦にもなる、ということだ。)世界は、「いのち」を産みながら、膨張している。ひろがっている。豊かにふくらんでいる。その豊かなふくらみが漁師の尻を持ち上げる。持ち上げられながら、持ち上げられることを実感するとき、そのときこそ、漁師は海になっている。海になって、漁師を持ち上げている。
生きる、とは、こういうことなんだなあ。
*
アマゾンでは検索しても、まだ相生の詩集は登録されていない。
ワニ・プロダクションの住所、発行人は
301-0837 茨城県竜ヶ崎市根町71
仲山清
売り切れにならないうちに、ぜひ、ご講読下さい。