詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーヴン・スピルバーグ監督「激突」(★★★★)

2010-04-27 19:42:25 | 午前十時の映画祭
監督 スティーヴン・スピルバーグ 出演 タンクローリー、デニス・ウィーバー

 ラストの、タンクローリーが崖を落ちていくシーンがとても好きだ。特に、その映像ではなく、その「音」が。タンクローリーの警笛(?)の音が、野獣の悲鳴のように聞こえる。それを聞いた瞬間、「悪役」であるはずのタンクローリーに同情してしまう。あわれを感じてしまう。大げさに言うと、涙が出てしまう。
 あ、この感覚、「2001年宇宙の旅」で、ハルがメモリーを外されながら「デイジー」を歌うのを聞いたときに感じる悲しさ、あわれみ、涙に似ている。
 私って、人間よりも機械が好きなのかな・・・。
 そして思うのだ。もしかして、私は主人公に恐怖にはらはらどきどきしていたんじゃなくて、タンクローリーの暴力にわくわくしていたんだなあ。恐怖の体験はいやだけれど、どこかで、何かを体験したことがある。けれど、暴力のわくわくは体験したことがないからなあ。
 映画って、自分では体験できないことを、映像と音楽で体験するのが醍醐味。主人公の恐怖は恐怖でいいけれど(?)、やっぱり、主人公を無慈悲に追いつめていく暴力――あ、すごいなあ。いいなあ。
 変? 危険?
 まあ、いいさ。危険な人間になってみたい。私は。
 映画感を出たとき、70年代のやくざ映画をみた観客が肩で風を切って歩いたように、私はもしかしたら、タンクローリーになっていたりしてさ。ママチャリで、いつもは歩道を恐る恐る走っているんだけど、車道のど真ん中を平気で走りながら、「どけどけ」ってわめいたりしてさ。「じゃますると、はねとばすぞ」なんて言ってみたいなあ。
 でも、野獣には悲しい死が待っているだけ。なんとわびしい現代!
 あ、私って、やっぱり危険?
 で、タンクローリーの「悲鳴」に激しく共感した私は、この映画に「けち」をつけたい部分がある。バクグラウンドの音が嫌い。不安をあおる音を狙っているのだろうけれど、耳障りなだけであるはらはらもわくわくもしない。あ、うるさいなあ、と思うだけである。音がない方がもっとおもしろいだろう。
 恐怖のはらはらにしろ、暴力のわくわくにしろ、それは「日常」と対比されると輝きを増すのだ。たとえば冒頭近くの「国勢調査」の「世帯主」に関する男の質問、回答者のやりとりのラジオの音。あるいはガソリンスタンドの毒蛇。タンクローリーに飼育ケージを壊され嘆く女性。――ストーリーと無関係なことがらが、特異なストーリーを浮き立たせる。強調する。だから、「音」もそういうものでなくてはならないのだ。
 いい例が思い浮かばないが、バックグラウンドがマーラーの交響曲のように甘ったるい音だったら、どうだろう。車が走る音、タイヤの音、エンジンの音もなく、流麗な音楽が響いていてら、あの、たたいても壊れないようなタンクローリーのフロントの顔は、もっと不気味になったのではないのか。もっと得体の知れないエネルギーをもった野獣になったのではないのか。


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水島英己「同じ空間で」

2010-04-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
水島英己「同じ空間で」(「すてむ」46、2010年03月25日発行)

 きのう読んだ松岡政則のことばが「肉体」の「正直」にゆさぶられながら動くことばだとすれば、水島英己「同じ空間で」のことばは、それとは逆に、「ことば」の「うそ」に引き剥がされながらことばが裸になっていく詩だと思う。

アレクサンドリアの
玉ねぐくさい部屋。
句読点が皺や浮腫の代わりに背中の文字になる。
アレクサンドリアの
排水の悪い部屋からあなたが出てくる。

 ここには、水島はいない。水島が肉眼で見たひとはいない。そこにあるのは、水島ではない人間が見た「ことば」である。カヴァフィスの「ことば」が水島のことばを引き剥がしているのだ。
 「玉ねぎくさい」が、水島をゆさぶる。水島のことばが裸にされて、それが「現実」になる。反応し、共振し、その震えだけが、「詩」なのである。
 言い方をかえよう。
 「玉ねぎくさい」なんて、きっと水島は知らない。「玉ねぎくさい部屋」なんて、水島は知らない。そして知らないからこそ、その「うそ」の向こうに、「ほんとう」を見てしまう。知らないことばだけが「ほんとう」を運んでくるのだ。
 このとき「ほんとう」を判断する物差しを水島はもたない。そして、その物差しがないことが「うそ」を「ほんとう」にするのだ。やってきてしまえば、それはすべてその主観に「ほんとう」になる。
 いや、やってくるのではない。実際には、水島が、その向こうへ行ってしまうのだ。行ってしまうといっても、水島の「肉体」がそこへいくのではない。ことばへの「あこがれ」が、その向こうへ行ってしまうのだ。
 こういう動きは、いいことか、悪いことか、私にはわからないが、そういう動きが必要だということはわかる。知らないもの、それまでの自分のことばがつかみとったことのないもの--それに対して純粋にあこがれるという力、その力が、いま、ここにないものをつかみとる。
 そのとき「うそ」が「ほんとう」にかわる。

 あこがれに「うそ」はないのだ。

ここに立たせておいてくれ、
朝焼けの二重の色、紫と青がまざりあっている空
立ち去ってゆく夜の背中
やって来る朝の名前
深い沈黙
「そうでなければならない」
欠けているものを何一つ満たしてはならない

 あこがれとは「欠けているもの」を知る力である。それはけっして「満たされない」。「満たしてはならない」というのは、だから「矛盾」である。「矛盾」だから、そこに詩がある。
 「満たされない」ということを承知で「満たしてはならない」という。そのとき、「みたされない」ということを、「正直」は「うそ」によって守るのである。それは隠蔽でありながら、同時に暴露である。その結びつきのなかに、水島のことばの「ほんとう」がある--と、私は書きたい。書いておきたい。




今帰仁(なきじん)で泣く
水島 英己
思潮社

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コメント (1)
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