詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロブ・マーシャル監督「NINE」(★★)

2010-04-02 21:18:07 | 映画

監督 ロブ・マーシャル 出演 ダニエル・デイ=ルイス、マリオン・コティヤール、ペネロペ・クルス、ジュディ・デンチ、ケイト・ハドソン、ニコール・キッドマン

 この映画はフェリーニの「8 1/2」に着想を得たものだ。その昔、「オール・ザット・ジャズ」がやはりフェリーニの「8 1/2」を下敷きにしていた。そのあと、舞台の芝居で同じ様なことが試みられ、今度は、そのミュージカルを映画にしている。私は舞台の「8 1/2」を見ていないので、それを吹っ飛ばして判断すると、フェリーニの原作が一番おもしろく、ついで「オール・ ザット・ジャズ」、最下位が「NINE」という順序になる。
 映画がおもしろければ、それがミュージカル(舞台)になり、そのミュージカル(舞台)がおもしろければもう一度ミュージカル映画になり、それもおもしろい--などということは、まあ、ないなあ。
 ふつうの映画文法とミュージカルの文法は違うのだ。
 何が一番違うか。映画では一瞬のアップで何かを伝えられる。1秒、あるいはそれより短いシーンでも、映画はとても有効である。けれど、ミュージカルは、そういう一瞬が許されない。音楽は1秒の音楽というのは、まあ、あるかもしれないが、ミュージカルの音楽で1秒の長さの曲というのは、まず、存在しない。そこが違う。
 監督が温泉へ逃げていく。それを女優が追ってくる。フェリーニの作品ではクラウディア・カルディナーレが演じていたと思うけれど(昔の記憶なので、よくわからないが、たしか、スパの従業員の制服、看護婦のような白い制服を着ていたと思うのだけれど)、彼女が監督の視界をさっとよぎっていく。そのときの、いろっぽく、いたずらっぽい目の輝きと、鳥が羽を後ろに畳んだような体の動かし方--それは一瞬であるが、とても印象的である。そういう一瞬の輝きを、ミュージカルは本質的に表現できない。ミュージカルの基礎である音楽は何分間か連続しなければならない。音楽は「持続」なのだ。その「持続」する精神は、映画の「カット」とは相いれない。
 そこが違う。その違いをきちんと踏まえないと、なんとも奇妙なことが起きてしまう。
 監督は、女優からさまざまなインスピレーションを得て、映画をつくっている。インスピレーションというのは、一瞬のうちにやってきて、一瞬のうちに去っていく。この映画では女優たちが歌を歌う。その歌は、まあ、長い。そうすると、監督が女優(歌)から何かインスピレーションを受けたとしても、その瞬間に、画面が何かに切り替わるという具合にはいかない。歌はそのままで、場面だけ違ったものにするという手法もあるけれど、歌が終わるまで歌はつづいている。その「持続」がどうもまだるっこしいのである。
 あれ、この映画、映画に行き詰まった監督の苦悩を描いたもの? それとも、個性的な女優の存在を描いたもの? どっちか、わからなくなる。もちろん個性的な女優だからこそ監督にインスピレーションを与えることができるのだが、その女優の何かが、1曲の間まるごと存在してしまうという「時間」の長さに、私は耐えられない。
 この映画には、女優が何分間も持続的に自己主張してしまうというシーンはそぐわないのだ。歌をまるごと1曲歌ってしまうような自己主張をされたら、インスピレーションの輝きは疲れ切って、うんざりしてしまう。まあ、この映画は、ある意味では女優の存在のあつかましさ(?)に疲れ切って映画がつくれなくなる監督--というふうにとらえられないこともないけれど、うーん、重っ苦しい。解放感がない。

 音楽の利点は、「アマデウス」のモーツァルトのことばを借りれば、ふつうの芝居では20分も出演者が舞台でしゃべりつづければ観客はあきてしまう。けれど歌なら、それができる。「フィガロの結婚」で主演者が次々に登場し台詞歌で歌う。二重唱になり、三重唱になり、四重唱になる。それでも、観客は混乱しない。逆に、楽しくなる。持続と複合が音楽では可能であり、持続の複合の中で輝くものがあるということになる。
 「NINE」は、あいにく、そういうことを楽しむ映画ではない。音楽(歌、ことばのある曲)で何かを主張するということとは、相いれないのだ。

 舞台は、舞台でまた別の文法がある。舞台は映画と違って出演者の表情のアップとか、画面の瞬時の切り換えというものがない。そこでは役者はずーっと肉体をさらしている。舞台の上では「持続」が基本なのである。映画では、たとえば監督と女優が話しているとき、それぞれのアップでも成立する。舞台では、しゃべっていないときでも、役者はかならず観客に姿を見せていなければならない。1シーンは、舞台では、かならず長さをもった時間とともにある。「持続」している。
 それが基本であるからこそ、歌が許されるのだ。感情の持続。重いの高ぶり。それを、その人が好きなだけ(?)、持続して歌うことができる。メロディーを繰り返し繰り返し繰り返すことで、観客のこころのなかにも「役」のこころが乗り移るまで、その歌を歌いつづけることが許されている。

 映画は、そういう「持続」のかわりに、逆の「断片化」(切断)というものを基本にしている。登場人物の「まわり」をそのままとらえるのではなく、常に一部を切り取って、そこにすべてを語らせる。
 フェリーニの苦悩、映画ができないという苦悩は、現実の切断と、その断片を組み合わせて「いま」「ここ」にない世界を「連続」という幻の中に実現することだけれど、その苦悩の中へ、女優たちが「連続」を持ち込み、その「連続」で自己主張してしまうと、もう、何がなんだか、というものになってしまう。
 映画のテーマは、何がなんだかわからなくなって……ということだから、それはそれでいい、という見方もあるかもしれないけれど。

 あ、マストロヤンニがなつかしい、フェリーニの映画をもう一度見てみたいという気持ちになる映画だった。


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廿楽順治「残言 他」

2010-04-02 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「残言 他」(「八景」1、2010年02月24日発行)

 廿楽順治の詩の魅力は「語り口」が安定していることである。「声」を自分のものにしていることである。「八景」創刊号には「残言 他」というタイトルでたくさんの詩が集められている。短くて、引用しやすいものの感想を書いておく。(「残言」のように、末尾がそろえられ、書き出しがふぞろいの、山のような形の詩は、引用がめんどうくさい。はい、私は、とてもずぼらです。)
 「もんじ屋」はタイトルからも「もんじゃ焼き」(お好み焼き?)を想像してしまう。書かれていることも「もんじゃ焼き」を連想させる。

男か女かもわからない。足がやわらかく煮えて、ももいろに。いやあん、ぱぴぷぺぽ。どうしてこの手はきれいにならないの。ふぁふぁになったり、まあまになったり、なにやら軟化にいそがしい。どれも火をとおさなきゃ売れねえしろものだな。しけっているお店のひとたち。こうみえても昔はさむらいの子だったのさ。し、のたまわく。ぱぴぷぺぽ。

 もんじゃ焼きを焼きながら、焼けるのを待って、焼ける先から(?)食べながら、あれこれ話している。そのときの話というのは、気心がしれているから、とんでもない具合に飛躍する。そして、そういう会話の特徴は、飛躍するとき、いちいち説明しない。
 たとえば、もんじゃ焼きのなかのイカの足。熱で色が変わる。
 「お、このぷりっとしたももいろ、あれみたいだな」
 「いやあん」
 こういうときの、「あれ」。それを、だれも「ことば」にしない。「あれ」でわからない人と話しているわけではないのだから。
 だからこそ、わかっていて、はぐらかしたりする。
 「いやあん、って、おまえ、何か勘違いしてねえか? 何思い出してるんだ?」
 こういう意地悪(?)が、人間関係を親密にする。「あれ」がますます「あれ」になる。「あれ」につながる「過去」が「いま」としてあらわれてくる。
 --と、ここまで書いてきて、やっと、私は私の書きたいことがわかる。

 廿楽のことばは「過去」をもっている。そして、その「過去」を説明せずに、直接ほうりだす。それは、一瞬、何のことかわからない。けれど、その一瞬わからないということが、逆に「わかる」ということへと変化していく。そこにおもしろさがある。
 言いなおすと……。
 「お、このぷりっとしたももいろ、あれみたいだな」
 この、「あれ」は「頭」で考えると、何かまったくわからない。「あれ」というのは、先行することばがあってはじめて意味を持つものだが、「あれ」に先行することばがない。論理を「頭」で積み重ね、証明しようにも、証明のしようがない。だから、それは「わからない」としかいいようがない。
 ところが、実際の「場」で、そのことばがひとりの人間の口から発せられるとき、そのことばは「肉体」の響きをもってしまう。口調の積み重ねのなかに、その「肉体」といっしょにすごしてきた「時間」、つまり「過去」がふわっと浮いて出てくる。
 そういうものを「肉体」はわかってしまう。「過去」の共通の「時間」が、聞き手の「肉体」のなかによみがえってくる。「頭」ではなく、「肉体」で、「過去」を共有するのである。
 「わかる」というのは、あることがらを「共有」することである。その「共有」を廿楽は「頭」のことばではなく、「肉体」のことばで実現する。「肉体」がことばを「共有」する瞬間を、きちんと書くことができる。

 もちろん、私の書いていることは「誤解」かもしれない。
 「いやあん、って、おまえ、何か勘違いしてねえか? 何思い出してるんだ? おれは何もいってないよ」
 そういわれれば、そのとおりである。
 でもね、人間の「やりとり」というのは、そういう意地悪やはぐらかしを積み重ねて、ゆったりとしていくもんだね。
 「ぱぴぷぺぽ」も同じだね。
 「やりとり」の最中に、つっこまれて、瞬間的にぱっとごまかす。

 廿楽は、「やりとり」を詩にしている、と言い換えることができるかもしれない。
 「やりとり」の定義はいろいろあるだろうけれど、私が「やりとり」ということばで考えるのは、そこに常に「他者」が存在すること。「概念」ではなく、「肉体」をもって、そこに存在することを前提とする。そこでは、厳密な「頭」のことばの運動とは別に、相手の反応を見ながらの「アドリブ」が入り込む。「空気」が入り込む。「空気」の変化が入り込む。
 廿楽は、人と人とのあいだの「空気」を描いている、とも言い換えることができるだろうとも思う。
 読者は、廿楽のことばではなく、そのことばの「場」の「空気」を読むのである。そのとき「ことば」は「こと」の「場」である。「こと」というのは「言」ではなく、「できごと」の「こと」。廿楽は「できごと」の「こと」と「場」の「空気」を描いている。




すみだがわ
廿楽 順治
思潮社

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