監督 ロブ・マーシャル 出演 ダニエル・デイ=ルイス、マリオン・コティヤール、ペネロペ・クルス、ジュディ・デンチ、ケイト・ハドソン、ニコール・キッドマン
この映画はフェリーニの「8 1/2」に着想を得たものだ。その昔、「オール・ザット・ジャズ」がやはりフェリーニの「8 1/2」を下敷きにしていた。そのあと、舞台の芝居で同じ様なことが試みられ、今度は、そのミュージカルを映画にしている。私は舞台の「8 1/2」を見ていないので、それを吹っ飛ばして判断すると、フェリーニの原作が一番おもしろく、ついで「オール・ ザット・ジャズ」、最下位が「NINE」という順序になる。
映画がおもしろければ、それがミュージカル(舞台)になり、そのミュージカル(舞台)がおもしろければもう一度ミュージカル映画になり、それもおもしろい--などということは、まあ、ないなあ。
ふつうの映画文法とミュージカルの文法は違うのだ。
何が一番違うか。映画では一瞬のアップで何かを伝えられる。1秒、あるいはそれより短いシーンでも、映画はとても有効である。けれど、ミュージカルは、そういう一瞬が許されない。音楽は1秒の音楽というのは、まあ、あるかもしれないが、ミュージカルの音楽で1秒の長さの曲というのは、まず、存在しない。そこが違う。
監督が温泉へ逃げていく。それを女優が追ってくる。フェリーニの作品ではクラウディア・カルディナーレが演じていたと思うけれど(昔の記憶なので、よくわからないが、たしか、スパの従業員の制服、看護婦のような白い制服を着ていたと思うのだけれど)、彼女が監督の視界をさっとよぎっていく。そのときの、いろっぽく、いたずらっぽい目の輝きと、鳥が羽を後ろに畳んだような体の動かし方--それは一瞬であるが、とても印象的である。そういう一瞬の輝きを、ミュージカルは本質的に表現できない。ミュージカルの基礎である音楽は何分間か連続しなければならない。音楽は「持続」なのだ。その「持続」する精神は、映画の「カット」とは相いれない。
そこが違う。その違いをきちんと踏まえないと、なんとも奇妙なことが起きてしまう。
監督は、女優からさまざまなインスピレーションを得て、映画をつくっている。インスピレーションというのは、一瞬のうちにやってきて、一瞬のうちに去っていく。この映画では女優たちが歌を歌う。その歌は、まあ、長い。そうすると、監督が女優(歌)から何かインスピレーションを受けたとしても、その瞬間に、画面が何かに切り替わるという具合にはいかない。歌はそのままで、場面だけ違ったものにするという手法もあるけれど、歌が終わるまで歌はつづいている。その「持続」がどうもまだるっこしいのである。
あれ、この映画、映画に行き詰まった監督の苦悩を描いたもの? それとも、個性的な女優の存在を描いたもの? どっちか、わからなくなる。もちろん個性的な女優だからこそ監督にインスピレーションを与えることができるのだが、その女優の何かが、1曲の間まるごと存在してしまうという「時間」の長さに、私は耐えられない。
この映画には、女優が何分間も持続的に自己主張してしまうというシーンはそぐわないのだ。歌をまるごと1曲歌ってしまうような自己主張をされたら、インスピレーションの輝きは疲れ切って、うんざりしてしまう。まあ、この映画は、ある意味では女優の存在のあつかましさ(?)に疲れ切って映画がつくれなくなる監督--というふうにとらえられないこともないけれど、うーん、重っ苦しい。解放感がない。
音楽の利点は、「アマデウス」のモーツァルトのことばを借りれば、ふつうの芝居では20分も出演者が舞台でしゃべりつづければ観客はあきてしまう。けれど歌なら、それができる。「フィガロの結婚」で主演者が次々に登場し台詞歌で歌う。二重唱になり、三重唱になり、四重唱になる。それでも、観客は混乱しない。逆に、楽しくなる。持続と複合が音楽では可能であり、持続の複合の中で輝くものがあるということになる。
「NINE」は、あいにく、そういうことを楽しむ映画ではない。音楽(歌、ことばのある曲)で何かを主張するということとは、相いれないのだ。
舞台は、舞台でまた別の文法がある。舞台は映画と違って出演者の表情のアップとか、画面の瞬時の切り換えというものがない。そこでは役者はずーっと肉体をさらしている。舞台の上では「持続」が基本なのである。映画では、たとえば監督と女優が話しているとき、それぞれのアップでも成立する。舞台では、しゃべっていないときでも、役者はかならず観客に姿を見せていなければならない。1シーンは、舞台では、かならず長さをもった時間とともにある。「持続」している。
それが基本であるからこそ、歌が許されるのだ。感情の持続。重いの高ぶり。それを、その人が好きなだけ(?)、持続して歌うことができる。メロディーを繰り返し繰り返し繰り返すことで、観客のこころのなかにも「役」のこころが乗り移るまで、その歌を歌いつづけることが許されている。
映画は、そういう「持続」のかわりに、逆の「断片化」(切断)というものを基本にしている。登場人物の「まわり」をそのままとらえるのではなく、常に一部を切り取って、そこにすべてを語らせる。
フェリーニの苦悩、映画ができないという苦悩は、現実の切断と、その断片を組み合わせて「いま」「ここ」にない世界を「連続」という幻の中に実現することだけれど、その苦悩の中へ、女優たちが「連続」を持ち込み、その「連続」で自己主張してしまうと、もう、何がなんだか、というものになってしまう。
映画のテーマは、何がなんだかわからなくなって……ということだから、それはそれでいい、という見方もあるかもしれないけれど。
あ、マストロヤンニがなつかしい、フェリーニの映画をもう一度見てみたいという気持ちになる映画だった。
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