詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

君野隆久『(朝、廃区を、)』

2010-04-16 00:00:00 | 詩集
君野隆久『(朝、廃区を、)』(彼方社、2010年01月26日発行)

 君野隆久『(朝、廃区を、)』のことばは「物語」を内に秘めている。
「*解纜」の書き出し。

朝から南風が吹いて
建物から散ってゆく男たちの頬を
乱暴にしている
会話の糸口を避けると
測候所の側(そば)の
溝のひとすじの水が
ふるえて光っているのがみえる

 「物語」というと、ふつうは、登場人物のかかわりあいのなかから動きはじめるのだが、君野のことばは登場人物とはかかわるのを避けている。「会話の糸口を避けると」という1行が象徴的である。「南風が」「男たちの頬を/乱暴にしている」ということばのなかには、「男たち」が登場するが、そのことばの「主語」は「南風」である。「会話」を「避け」たことばは、どうしても人間以外のところへ動いていくのである。
 「ひとすじの水が/ふるえて光っているのがみえる」。この「みえる」が、ことばを動かす力である。「見る」という行為をとおして、君野は世界と向き合い、そこでことばを動かす。ことばは「ひと」とはかかわらず、「みえるもの」とかかわる。
 そして、

なめらかな波頭に
光のひびわれが走る
ものの輪郭はこんなにもはっきりしているのに
自分のいる場所はここではない、と
思っている

 「もの」がくっきりと見えれば見えるほど、君野にとって、「ここ」は自分とは関わりのないものになる。ことばは動くが、君野自身は、そのことばのなかに入っていくことができない。ことばが君野をおきざりにしてしまうのだ。
 だから、そこでの「物語」とは、まさに「もの」が語ることであり、人間が(君野が、ととらえるとおもしろくなる)、語ることではないのだ。
 「*炎天」の2、3連目。

(いま眼がみるのではなく、
ものが見る
雨の水面に浮かんだ
蛍光の輪郭を

いま耳が聞くのではなく
音が聴く
低いささめに紛(まぎ)れる
朝の秘話
を)

 「もの」が語るとは、「もの」が「見る」「聴く」という行為の主体になることである。(君野自身の行為は「みる」「きく」で表記されているが、「もの」の行為は「見る」「聴く」と漢字があてられている。)「もの」が「見て」「聴いて」、ととのえたことばが「物語」なのだ。そこでは、「私(君野)」は、追放された登場人物である。
 また、追放されるのは「私」だけではない。「もの・語り」をいきることばは、「もの」と結びつかないことばも追放する。そうして、その追放されたことばは「うた」になる。
 「*うた」の全行。

うつ
うた
うつ
うただ
断った、うちた
おれる
たい、たお
やかな
砂の
憂填(うてん)の

雨季と
藍と
打つ
しずく、ふる
える
しらき

きしみ
綺麗

 どの「もの・語り」から追放されたか、このことばだけではわからない。わからないけれど、そうやって追放されたことばが、互いに「聴き」あって、結びついている。「もの・語り」になってしまわない、別の存在があることを確認し合っている。ことばは「意味」をもっているだけではないのだ。意味もなく(「意味」もなく)、ことばは、そこに存在し、「もの・語り」が拒否していることばの運動をさぐりあうのである。

打つ
しずく、ふる
える

 この3行のなかには「打ち震える」ということばがしずくとなって、したたり、降っている。その隠れたことばは「うちた/おれ」てしまわずに、なにかが「折れた」ようなもののなかにある、願望をひきだし「うちた/おれ」「たい」という声になる。そういう声にならない声、ものの中にある不思議な響きと呼応して、「打」ち「ふる/え」ているのである。

 「耳の詩人」、「もの・語り」からこぼれたことばの声をきく「耳の詩人」となって、もっと作品の数を増やすと、とても魅力的な一冊ができると思う。


(朝、廃区を、)―君野隆久詩集
君野 隆久
彼方社

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コメント (2)
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