詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ「マグダレーナ頌」

2010-04-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ「マグダレーナ頌」(「庭園詞華集2010」2010年04月02日発行)

 たなかあきみつ「マグダレーナ頌」は、感想が書きにくい。同時に発表されている他の2篇とに共通するのは、その詩の「形」である。1行の長さがそろえられていて、矩形をしている。そして、それぞれの1行は、私には、最初は1行ずつ「完結」することをめざして書かれているように思える。小説や何かの散文のように、ことばが次の行へつづいていくのではなく、1行ずつ、そこで終わる。終わらないでも、行の「わたり」がない--そういうものをめざしているように見える。

手長猿のようにひょいと振りむけば時間の舌端で錆びる
羊歯類と摘みとられたばかりのオランダイチゴの不穏よ
時間鋏の鋭角を鋭意しのぐには鮫をくりかえし呼びこむ
メビウスの包帯がもっともふさわしいのだがそれは刃先

 「ひょいと」「もっとも」。その語がこの作品に、あるいはその1行に、どういう役割を果たしているのかわからないことばがある。「鋭角を鋭意しのぐ」という、音楽的にとても読みづらいことばもある。それは、「意味」でも「音楽」でもなく、単に1行の長さをそろえるという「形」にだけ従事していることばである。「書きことば」である。「文字」である。
 これはいったい、どういうことなのだろう。
 わからないが、わからないという思いを超えて、「羊歯類と摘みとられたばかりのオランダイチゴの不穏よ」という1行の、その「不穏よ」という文字に、私はなせか惹かれてしまった。ここには、何かしら「不穏」なものがある。ひとが日常的につかうことば、「流通言語」とは違った不穏なものがある。
 「時間の舌端で錆びる」という魅惑的なことばがある一方、「時間鋏」というぎょっとする文字の結合もある。そのアンバランスが「不穏」をあおりたてる。「メビウスの包帯」に「刃先」が、不穏をなにか、限定的な「場」へ追い込んで行く。そういう感じに、なんだか、わくわくする。気持ちが昂るというのとは、少し違うのだけれど、「怖いもの見たさ」のような気持ちになる。
 すると、

の痕跡を斧消去しないヒレが(撞木が)血のマテリアで

 突然、行の冒頭に「の」が登場する。これは、前の行のつづきなのか。「刃先/の」なのか。1行の完結」が崩壊する。なぜ?
 わからない。
 「斧消去」というのも、わからない。そのあと、「ヒレ」が突然出てくるのもわからないし、「血のマテリア」というのも、わかからないのだが、そのわからなさを突き破って、「おの」「ひれ」「まてりあ」という音が不思議に響きあう。

かぎり《粥》《カミルレ》《ウムラウト》は寒気団の

 つづくこの行も、音が響きあう。1行の長さをそろえる、その結果としての矩形のなかで、この2行だけは、理由はわからないが、突然「音楽」をやってしまっている。それが音楽だから、次の行は「音」に関することばからはじまる。

耳もとで屈伸する吃音のレンズは灰青の川面を斜めに呼
吸した灰色が鉛色まであと一歩のところまで刻々変色し
ていくとしたら声帯のスラロームは外気と折り重なる未
使用の椅子だろうびんと背筋を伸ばし整髪鋏カシャカシ

 「耳」がことばを引き継ぎ、「吃音」がそれを強調したかと思うと、そのあとすぐに「灰青」「灰色」「鉛色」「変色」と、「目」がことばを引き継ぐ。それから「声帯」というもの、「口」がことばを引き継ぐ。
 「肉体」のなかで、ことばが「不穏に」動き回り、なにかをさがそうとしている。
 なんだろう。
 わからないね。
 感じるのは、たなかが、ことばを「いじめている」ということだ。無理をさせているということだ。その無理の先、無理を突き破ったところに、きっとなにかがあるのだ。

 そして、そのなにかは、「書きことば」と深いつながりがある。唐突だけれど、私は、そう感じてしまう。「話しことば」ではたどりつけないなにかがある。「書きことば」ならたどりつけて「話しことば」ではたどりつけないなにか--ということと、たなかが選んでいる矩形の詩の形はつながっている。
 「話しことば」は話す先から消えていく。ところが「書きことば」は常にそこに存在しつづける。そして、「目」は、その書き散らされた「文字」を、ばらばらのまま、読みとることができる。矩形の中で「時間」「舌」「錆びる」だの、「マテリア」「メビウス」「カミルレ」「ウムラウト」という文字が呼び掛け合っているのを見てしまう。目で、それらが呼び掛け合っているのを「聞いてしまう」。
 不穏。
 そのことばが、そのとき、ふいに納得できるものになる。胸に、すとんと落ちてくる。私は、この詩で、書かれたことばが、それぞれ「意味」を放棄して、(あるいは拒絶して)、かってに呼び掛け合っているのを「目」で聞いてしまったのだ。
 それは、まだ、はっきりと聞き取れる「声」になっていない。よく聞こえない、わけのわからない「音」が、「目」には見えない場所で、(たなかのことばを借りれば、「時間の舌端」で、ということになるかもしれないが)、鳴っている。目にみえないのに、その場所がある、と感じる。
 なにか、目と耳と(それから、耳で聞いたものを反復しようとする口も)、私の「肉体」が、私を捨てて、そういう「場」へ帰っていこうとしているのを感じる。何かが、そうすることを誘っている。
 不穏。

 ここにあるのは、不穏だ。そして、それは「書きことば」だけが突き進んでいくことのできる不穏だ。「書きことば」はそこに残るがゆえに、そこから自在にいつでも、どこへでも行けるのだ。書いているひと、読んでいるひとを、裏切って、自分の力で。
 その「書きことば」の「位置」をわかりやすくするために「矩形」が選ばれているのかもしれない。矩形の、あのあたり、このあたりに、あの「ことば」が書かれていた、と瞬時にわかるために……。
 わかって、それでどうなるというものではないかもしれないけれど、ぱっと目がたどりつければ、トランプの神経衰弱のように、なにかがわかったきもちにもなる。
 たなかの詩が、1篇が1ページにおさまる長さというのも、そういうことと関係しているかもしれない。



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