秋亜綺羅「ドリーム・オン」(「ココア共和国」2、2010年04月01日発行)
秋亜綺羅。この名前にびっくりした。40年ぶりに再会した。そして、秋亜綺羅のことばにも、40年ぶりに再会した。
こんなふうに久しぶりに出会ってしまうと、どう感想を書いていいかわからない。「いま」と「むかし」が交錯してしまう。「いま」書かれたことばを読んでいるのか、「いま」のなかに「むかし」のことばを読んでいるのか。
わからないまま感想を書くのが私の主義(?)だから、まあ、書きはじめよう。
「ドリーム・オン」というのは「小詩集」のタイトルにもなっている。「ドリーム・オン」ということばが繰り返され、その繰り返しのなかで、変わっていくものと変わっていかないものがある。それは、「むかし」の秋亜綺羅から、「いま」の秋亜綺羅へと生きてくる過程で繰り返されたことにつながるものがあるかもしれない。生きていくというのは反復だけれど、そのなかで変わっていくものと、変わっていかないものがある……。
「シッポがないのでシッポを切る」。これは現実には不可能である。「ない」ものは「切れない」。けれど、ことばでなら、想像力でなら「切る」ことができる。「シッポがないのでシッポを切る」は、正確(?)には、あるいは「流通言語」的には、
ということかもしれない。(まったく違うかもしれない。)
そして、そう考えたとき、では「シッポ」のあった「あなた」とは何? そのシッポであなたは何をしただろう。何ができただろう。いや、あなたではなく「シッポ」そのものも、あなたを超えて何かができたかもしれない。
そんなことが、ふと、思い浮かぶ。
秋亜綺羅は、そういうことは、くだくだと書いていないのだが、私はそういうことを感じてしまう。思い浮かべてしまう。つまり、「誤読」してしまう。
そして、思うのだ。
シッポのある人間。それは「人間」ではない。だから、その「人間」を「人間」を否定した存在であると考えることができるが、一方で、「人間」を超越した存在と仮定することもできる。シッポがあれば人間にできないことをできる。
あ、もしかしたら、私たちは、その可能性を捨ててしまって「人間」に安住していないだろうか。
ここでおこなわれていることは、ちょっと前に(かなり前に?)はやったことばで言えば、「脱構築」なのだ。「脱構築」と「再構築」なのだ。その繰り返しなのだ。
「いま」(そして、「いま」につながる「過去」)を解体してしまう。人間にはシッポがないという常識をいったん捨ててしまう。そうして、シッポがあると仮定して人間を再想像してみる。その再想像された存在を「いま」にあわせるためには人間は何をするか。シッポを切るという暴力を行使する。
人間は、いったい、何をしているのか。
ふいに、人間が、その行為の連続が、そのなかにひそむ「暴力」が見えてくる。
秋亜綺羅は、そういう「暴力」を明るみに出すために、「脱構築」をしている。
ないものを想像力で切っている間は、それが「暴力」であることが見えにくい。けれども、
とたんに、変になる。おそろしいことになる。
そして、それがおそろししいなら、存在しない「シッポ」を切るということもまたおそろしいことではないだろうか。人間はシッポがなくても人間である。だから、想像力でシッポを切ってしまって、「正しい」人間にしてしまう。
そのときの、「正しい」という「意識」のなかにある「暴力」。
みかけの「正しさ」というものを、ことばでどんなふうにして暴いていくか。想像力は、そのためにどんなふうにしなやかになれるか。秋亜綺羅は、「むかし」から、そういうことをやっていたと思う。秋亜綺羅のことばのなかの強靱な軽さは「正しさ」への怒りに満ちていた。そういう「若さ」をもっていた。
その「若さ」、その「若い美しさ」は、「いま」もかわらない。
「正しさ」のなかに「間違い」という「暴力」がひそんでいるなら、「間違い」のなかには「愛」という「やさしさ」が生きている。そして、それは反語でしか語れない。その反語が秋亜綺羅の「脱構築」。
うーん、40年前には、そんなことは、とても考えられず、ただ、あっ、かっこいい、なんて思って、ただひたすらコピーしていたんだけれど、私は。
秋亜綺羅。この名前にびっくりした。40年ぶりに再会した。そして、秋亜綺羅のことばにも、40年ぶりに再会した。
こんなふうに久しぶりに出会ってしまうと、どう感想を書いていいかわからない。「いま」と「むかし」が交錯してしまう。「いま」書かれたことばを読んでいるのか、「いま」のなかに「むかし」のことばを読んでいるのか。
わからないまま感想を書くのが私の主義(?)だから、まあ、書きはじめよう。
「ドリーム・オン」というのは「小詩集」のタイトルにもなっている。「ドリーム・オン」ということばが繰り返され、その繰り返しのなかで、変わっていくものと変わっていかないものがある。それは、「むかし」の秋亜綺羅から、「いま」の秋亜綺羅へと生きてくる過程で繰り返されたことにつながるものがあるかもしれない。生きていくというのは反復だけれど、そのなかで変わっていくものと、変わっていかないものがある……。
ドリーム・オン、ドリーム・オン
明日に至る病いを抱えてドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
ベッドに倒れて切符を切るドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
借りなんて返さなくていいドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはシッポがないのでシッポを切る
ドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはクチバシがないのでクチバシを切る
ドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはミズカキがないのでミズカキを切る
ドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはトサカがないのでトサカを切る
ドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはツバサがないのでツバサを切る
ドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
鳥には足がなくても飛べるので足を切る
ドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたは手がなくても歩ける手を切る
ドリーム・オン
「シッポがないのでシッポを切る」。これは現実には不可能である。「ない」ものは「切れない」。けれど、ことばでなら、想像力でなら「切る」ことができる。「シッポがないのでシッポを切る」は、正確(?)には、あるいは「流通言語」的には、
あなたにはシッポがないので、想像でシッポがあると仮定して、それからその想像のシッポを切る。そうすると、「いま」のあなたそのものになる。
ということかもしれない。(まったく違うかもしれない。)
そして、そう考えたとき、では「シッポ」のあった「あなた」とは何? そのシッポであなたは何をしただろう。何ができただろう。いや、あなたではなく「シッポ」そのものも、あなたを超えて何かができたかもしれない。
そんなことが、ふと、思い浮かぶ。
秋亜綺羅は、そういうことは、くだくだと書いていないのだが、私はそういうことを感じてしまう。思い浮かべてしまう。つまり、「誤読」してしまう。
そして、思うのだ。
シッポのある人間。それは「人間」ではない。だから、その「人間」を「人間」を否定した存在であると考えることができるが、一方で、「人間」を超越した存在と仮定することもできる。シッポがあれば人間にできないことをできる。
あ、もしかしたら、私たちは、その可能性を捨ててしまって「人間」に安住していないだろうか。
ここでおこなわれていることは、ちょっと前に(かなり前に?)はやったことばで言えば、「脱構築」なのだ。「脱構築」と「再構築」なのだ。その繰り返しなのだ。
「いま」(そして、「いま」につながる「過去」)を解体してしまう。人間にはシッポがないという常識をいったん捨ててしまう。そうして、シッポがあると仮定して人間を再想像してみる。その再想像された存在を「いま」にあわせるためには人間は何をするか。シッポを切るという暴力を行使する。
人間は、いったい、何をしているのか。
ふいに、人間が、その行為の連続が、そのなかにひそむ「暴力」が見えてくる。
秋亜綺羅は、そういう「暴力」を明るみに出すために、「脱構築」をしている。
ないものを想像力で切っている間は、それが「暴力」であることが見えにくい。けれども、
鳥には足がなくても飛べるので足を切る
あなたは手がなくても歩ける手を切る
とたんに、変になる。おそろしいことになる。
そして、それがおそろししいなら、存在しない「シッポ」を切るということもまたおそろしいことではないだろうか。人間はシッポがなくても人間である。だから、想像力でシッポを切ってしまって、「正しい」人間にしてしまう。
そのときの、「正しい」という「意識」のなかにある「暴力」。
みかけの「正しさ」というものを、ことばでどんなふうにして暴いていくか。想像力は、そのためにどんなふうにしなやかになれるか。秋亜綺羅は、「むかし」から、そういうことをやっていたと思う。秋亜綺羅のことばのなかの強靱な軽さは「正しさ」への怒りに満ちていた。そういう「若さ」をもっていた。
その「若さ」、その「若い美しさ」は、「いま」もかわらない。
ドリーム・オン、ドリーム・オン
眠るのに肉体はいらないから肉体を切る
ドリーム・オン
ドリーム・オン、ドリーム・オン
めくらには目がいらない目を切る
ツンボには耳はいらない耳を切る
オシに口はいらない口を切る
一年二年、ドリーム・オン
ひと昔ふた昔、ドリーム・オン
一秒二秒、ドリーム・オン
あしたあさって、ドリーム・オン
「正しさ」のなかに「間違い」という「暴力」がひそんでいるなら、「間違い」のなかには「愛」という「やさしさ」が生きている。そして、それは反語でしか語れない。その反語が秋亜綺羅の「脱構築」。
うーん、40年前には、そんなことは、とても考えられず、ただ、あっ、かっこいい、なんて思って、ただひたすらコピーしていたんだけれど、私は。
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