詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「ドリーム・オン」

2010-04-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 秋亜綺羅「ドリーム・オン」(「ココア共和国」2、2010年04月01日発行)

 秋亜綺羅。この名前にびっくりした。40年ぶりに再会した。そして、秋亜綺羅のことばにも、40年ぶりに再会した。
 こんなふうに久しぶりに出会ってしまうと、どう感想を書いていいかわからない。「いま」と「むかし」が交錯してしまう。「いま」書かれたことばを読んでいるのか、「いま」のなかに「むかし」のことばを読んでいるのか。
 わからないまま感想を書くのが私の主義(?)だから、まあ、書きはじめよう。
 「ドリーム・オン」というのは「小詩集」のタイトルにもなっている。「ドリーム・オン」ということばが繰り返され、その繰り返しのなかで、変わっていくものと変わっていかないものがある。それは、「むかし」の秋亜綺羅から、「いま」の秋亜綺羅へと生きてくる過程で繰り返されたことにつながるものがあるかもしれない。生きていくというのは反復だけれど、そのなかで変わっていくものと、変わっていかないものがある……。

ドリーム・オン、ドリーム・オン
明日に至る病いを抱えてドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
ベッドに倒れて切符を切るドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
借りなんて返さなくていいドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはシッポがないのでシッポを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはクチバシがないのでクチバシを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはミズカキがないのでミズカキを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはトサカがないのでトサカを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたにはツバサがないのでツバサを切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
鳥には足がなくても飛べるので足を切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
あなたは手がなくても歩ける手を切る
ドリーム・オン

 「シッポがないのでシッポを切る」。これは現実には不可能である。「ない」ものは「切れない」。けれど、ことばでなら、想像力でなら「切る」ことができる。「シッポがないのでシッポを切る」は、正確(?)には、あるいは「流通言語」的には、

あなたにはシッポがないので、想像でシッポがあると仮定して、それからその想像のシッポを切る。そうすると、「いま」のあなたそのものになる。

 ということかもしれない。(まったく違うかもしれない。)
 そして、そう考えたとき、では「シッポ」のあった「あなた」とは何? そのシッポであなたは何をしただろう。何ができただろう。いや、あなたではなく「シッポ」そのものも、あなたを超えて何かができたかもしれない。
 そんなことが、ふと、思い浮かぶ。
 秋亜綺羅は、そういうことは、くだくだと書いていないのだが、私はそういうことを感じてしまう。思い浮かべてしまう。つまり、「誤読」してしまう。
 そして、思うのだ。
 シッポのある人間。それは「人間」ではない。だから、その「人間」を「人間」を否定した存在であると考えることができるが、一方で、「人間」を超越した存在と仮定することもできる。シッポがあれば人間にできないことをできる。
 あ、もしかしたら、私たちは、その可能性を捨ててしまって「人間」に安住していないだろうか。

 ここでおこなわれていることは、ちょっと前に(かなり前に?)はやったことばで言えば、「脱構築」なのだ。「脱構築」と「再構築」なのだ。その繰り返しなのだ。
 「いま」(そして、「いま」につながる「過去」)を解体してしまう。人間にはシッポがないという常識をいったん捨ててしまう。そうして、シッポがあると仮定して人間を再想像してみる。その再想像された存在を「いま」にあわせるためには人間は何をするか。シッポを切るという暴力を行使する。
 人間は、いったい、何をしているのか。
 ふいに、人間が、その行為の連続が、そのなかにひそむ「暴力」が見えてくる。

 秋亜綺羅は、そういう「暴力」を明るみに出すために、「脱構築」をしている。

 ないものを想像力で切っている間は、それが「暴力」であることが見えにくい。けれども、

鳥には足がなくても飛べるので足を切る

あなたは手がなくても歩ける手を切る

 とたんに、変になる。おそろしいことになる。
 そして、それがおそろししいなら、存在しない「シッポ」を切るということもまたおそろしいことではないだろうか。人間はシッポがなくても人間である。だから、想像力でシッポを切ってしまって、「正しい」人間にしてしまう。
 そのときの、「正しい」という「意識」のなかにある「暴力」。

 みかけの「正しさ」というものを、ことばでどんなふうにして暴いていくか。想像力は、そのためにどんなふうにしなやかになれるか。秋亜綺羅は、「むかし」から、そういうことをやっていたと思う。秋亜綺羅のことばのなかの強靱な軽さは「正しさ」への怒りに満ちていた。そういう「若さ」をもっていた。
 その「若さ」、その「若い美しさ」は、「いま」もかわらない。

ドリーム・オン、ドリーム・オン
眠るのに肉体はいらないから肉体を切る
ドリーム・オン

ドリーム・オン、ドリーム・オン
めくらには目がいらない目を切る
ツンボには耳はいらない耳を切る
オシに口はいらない口を切る

一年二年、ドリーム・オン
ひと昔ふた昔、ドリーム・オン
一秒二秒、ドリーム・オン
あしたあさって、ドリーム・オン

 「正しさ」のなかに「間違い」という「暴力」がひそんでいるなら、「間違い」のなかには「愛」という「やさしさ」が生きている。そして、それは反語でしか語れない。その反語が秋亜綺羅の「脱構築」。
 うーん、40年前には、そんなことは、とても考えられず、ただ、あっ、かっこいい、なんて思って、ただひたすらコピーしていたんだけれど、私は。


ココア共和国 vol.2
秋 亜綺羅,響 まみ
あきは書館

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秋亜綺羅「あやつり人形」

2010-04-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 秋亜綺羅「あやつり人形」(「ココア共和国」2、2010年04月01日発行)

 秋亜綺羅のことばはいつでも軽快である。明るい。そして、気ままである。「矛盾」のようなものが、ことばにスピードを与えている。「現実」をふりきるスピードを。
 秋亜綺羅「あやつり人形」は小詩集「ドリーム・オン」のなかの1篇。その書き出し。

完璧な暗闇で目をつむると
水溶性の映画がやってくる
世界でいちばん明るい場所がそこにある

 「完璧な暗闇で目をつむる」。なんのために? ふつう、目をつむると何も見えない。暗闇となんのかわりもない。それでも目をつむる。なんのために? 「見る」という行為を自ら放棄して、「現実」を見ないためである。完璧な暗闇では、目を開けていたら「見えない」という状態があるのであって、それは「見る」の否定形「見ない」ではない。
 「見る」「見えない」「見ない」。その「見えない」と「見ない」とはまったく違ったことなのである。「見えない」は受動的な態度である。けれど「見ない」は能動的な態度である。
 秋亜綺羅のことばは、何かを受け入れる形で動くのではなく、自分の意思で動いていくのである。「いま」を受け入れるのではなく、「いま」を拒絶していくのである。そのために、ことばを動かす。それは別なことばでいえば「いま」を逃走する、ということかもしれない。逃走するためには、どうしたってスピードと軽さが必要である。秋亜綺羅のことばが軽いのは必然なのだ。
 「水溶性の映画がやってくる」の「やってくる」は受動的に感じられるかもしれないが、これはあくまで「目をつむる」という行為の先にあることがらである。それは「やってくる」というよりも、「呼び寄せる」ということに似ている。あるいは「選ぶ」ということに似ている。
 だから、「世界でいちばん明るい場所がそこにある」は、偶然、「そこ」にあるわけではなく、自分の意思で(秋亜綺羅の意思で)、選びとったものとして、そこにあるということだ。「そこ」は秋亜綺羅がすでに知っている「場所」なのである。

 そういう意味では、秋亜綺羅のことばは「いま」をふりきるだけではなく、「いま」より先にあるものをつかみ取る形で動いていく、と言い換えた方がいいかもしれない。
 人間は「大地」を蹴って、歩く。走る。けれど、秋亜綺羅のことばは「空気」をつかみながら飛ぶのである。
 軽いはずである。重くては飛べない。

マッチを擦って煙草に火をつけた
瞬きすれば使い捨てガスライターの時代が使い捨てられる

わたしの国の天井では電球から蛍光灯へと吊るし換えられた
わたしたちの命題は夜を暗闇に葬ることなのか

地震が起きて電源が失われる
わたしたちのあやつられる足はそのとき言語を失調する

 このことばには「闇」と「明かり」が交錯している。交錯しながら、その交錯のなかで、新しいことばを探しているのだ。最初から書きたいことばがあるのではなく、翼で空気をつかむように、ことばでことばをつかみ、飛翔しようとしている。
 それにしても、「地震」「震源」「電源」。「震」と「電」はなんと字が似ていることか。
 私たちは「完璧な暗闇」ではなく電気で強いられた明るさを生きているが、その電気が、たとえば地震によって失われたとき、私たちは突然、歩けなくなる。足元をすくわれる。そして、電気にあらつられたいることを知る。そんなことが漢字のなかで、ぱっと動いて、ぱっと消える。
 そして、「電気」というような、いまの現実の世界に絶対的に必要なものがでてきた瞬間に、そのぱっと動き、ぱっと消えるもののなかに、「現実」の「構造」がうかびあがりる。「現実」は「電気」に依存している。まるで、「電気」にあらつられているようではないか。
 ここまでくれば「あやつり人形」に通じることば、「あやつる」が出てくる。そして、ことばは、さらに動いていく。

人生なんて人形芝居
ひとがあやつり人形にすぎないならば

この足は思想が足かせ
こちらの足は装置が足かせ

 秋亜綺羅のことばでおもしろいのは、翼が空気をつかむようにして、ことばが先へ先へと手を伸ばしながら動くときに、そのつかみとることばが、「高踏的」なことばではなく、ひとがよく口にすることばであることだ。
 「人生なんて人形芝居」「ひとがあやつり人形ならば」。
 どこかで聞いたようなことば。歌謡曲のようなことば。むずかしいことばではなく、簡単すぎる(?)ことば。(「現実」をあやつっているのが「電気」というのも、まあ、ありきたり?の分析である。
 そのために、秋亜綺羅のことばの「飛翔」は高い高い上空を飛ぶというよりも、「日常」を飛ぶというよりも、軽く浮いて、その浮力を突っ走るという感じがする。飛んでしまえば、それは「芸術」というかっこつきのことばになってしまう。飛んでしまわず、軽く浮きながら、疾走する。
 このあたりの呼吸が、寺山修司の秘蔵っ子だった理由かもしれない。

少女はわたしにだけ唄う
あんたのこと好きじゃない

殺したいほど好きだけれど
ほんとは殺すほど好きじゃない

少女はわたしにだけ囁く
ねえ、あたしのそばにいてよ
あんたのそばに、いてあげるから

 「少女」は「女」は「おんな」であってはいけないし、「処女」であってもいけない。そういう「領域」のようなものを、秋亜綺羅は自然につかんでいる。




ココア共和国 vol.1
秋 亜綺羅
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