詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡本勝人「ときには移動する風景の音になって…」

2010-04-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岡本勝人「ときには移動する風景の音になって…」(「ガニメデ」48、2010年04月01日発行)

 岡本勝人「ときには移動する風景の音になって…」は、きのう読んだ山路豊子の作品が「現実」を踏まえていたように、「現実」をしっかり踏まえている。

大阪と奈良のさかいには
生駒山、信貴山、竜田山、二上山、葛城山、金剛山と
たてにつらなる山々がある
近鉄南大阪線の当麻駅におりたつと
れんげ草の花畑のむこうに二上山がたたずんでいた
当麻寺は山ふところにいだかれているが
天台僧の源信はこのちかくに生まれている
比叡山の横川の恵心院にすみ
ダンテの『神曲』にくらべられる『往生要集』を著した
二上山の雄岳と雌岳の物語
雄岳の頂上には西をむいて大津皇子の墓がたっている
皇子の歌は万葉集に四首はいっていた
そこへは登ったことはないので
ほんとうは写真でみるばかりだ
彼岸の時期になると
ふたつのいただきのあいだに夕日が沈む音がする
おん。ばさらくしゃ。あらんじゃ。うん。そわか。

 岡本の詩は、しかし、山路の詩と大きく違ったところがある。山路の詩は「天満宮がある」「囲まれている」と「現在形」で書かれていた。岡本の詩は「山々がある」「たたずんでいた」と「現在形」と「過去形」がまじっている。そこが違う。



 実は、山路の詩は「現在形」で書かれている、とはいいながら「過去形」もあるにはあった。そのことについて補足しておく。きのう引用しなかった部分。

両手に乗るほどの木箱を足元において
古い布をごそごそしていたが
瀬戸焼緑釉の狛犬一対を取りだした

瞬間 私は絶滅した恐竜を思った

 「取りだした」「思った」は「過去形」。そして、その「過去形」は、実は句点「。」なのである。それまでの「天満宮がある」「囲まれている」という「事実」を「事実」としていったん、そこで「終わってしまう」ための句点「。」なのである。
 「事実」を句点「。」で終わってしまって、それでは、その次に何を「現在形」として動かしていくか。「思い」を動かしていくのだ。「想像」を動かしていくのだ。小惑星の衝突によって絶滅した恐竜、そしてその粉々になった骨が宇宙に散らばっていくという具合に想像を動かしていく。その散らばった骨について様々な思いをめぐらしている人々、そのいのちを思う。さらには飛躍して、陶器の狛犬が再び木箱から取り出されて風を見る日、人と目を合わせる日を思う。
 その「思い」は句点「。」によって「終わってしまった」ことがらを「過去」として、その上を歩き回る「いま」(現在形)なのである。
 山路の詩は、そういう構造でできていた。



 岡本のことばは、山路のことばのように、はっきりとした「現在形」と「過去形」の区別をもたない。なぜ、「山々がある」「山がたたずんでいた」と書き分けられなければならないのか、そのことが何も説明されない。岡本には「現在形」と「過去形」の区別が存在しないのだ。区別する意識は岡本にはないけれど、そこに無意識のうちに「過去形」と「現在形」があらわれてしまう。「ふたつ」の時制があらわれてしまう。
 この「ふたつ」、しかも無意識の「ふたつ」の存在が、岡本のことばを動かしているのだ。

ふたつのいただきのあいだに夕日が沈む音がする
おん。ばさらくしゃ。あらんじゃ。うん。そわか。

 ここに「ふたつ」ということばが書かれている。雄岳と雌岳という「ふたつ」。そして、その「あいだ」が岡本にとって、もっとも大事なもの、岡本の「思想」である。
 「現在形」と「過去形」。その「ふたつ」の時制の間。そこに何がある。その「境界線」はどこか。
 雄岳と雌岳なら、そのあいだのいちばん低いところを「境界線」と仮定することができるが、しかし、その境界線は単なる過程であり、雄岳の頂上の1メートル手前が「境界線」ではないなどとは、だれも断言はできない。
 「境界線」などというものは、単なる仮説であって、存在はしないのだ。
 それはまた「ふたつ」というものは存在しないというのに等しい。
 あるいは、それは「ふたつ」であることによって、はじめて「ひとつ」であるとも言い換えうるかもしれない。
 「現在形」「過去形」は、ことばの「ふたつ」の形であるけれど、それはことばの「動き」という「ひとつ」のなかに飲み込まれていく。ことばは「動く」。その「動き」があって、その「動き」によってはじめて「過去形」「現在形」というものが生まれるのであって、最初から「現在形」「過去形」というものが存在するわけではない。
 
 この、ことばの「運動」。それをなんと呼ぶべきなのか。
 岡本は「音」と呼んでいる。そして、その「音」には形がある。

おん。ばさらくしゃ。あらんじゃ。うん。そわか。

 ふいにあらわれる句点「。」それは、その「音」を「ひとつ」にしてしまう。「おん」は「おん」で「ひとつ」なのだ。文字に書くと2文字になるが、ほんとうは「ひとつ」。「ばさらくしゃ」も同じ。6文字つかわれているが、「ひとつ」。音楽で言えば「和音」のようなものだ。一瞬のうちに響きあう複数の「ひとつ」である。

 岡本にとっては、すべての存在がそうなのだ。「過去形」「現在形」という「ふたつ」が硬く結びついて、区別ができなくなって「ひとつ」であるように、たとえば先の引用にしたがって言えば、「源信」と「ダンテ」は「ふたつ」であることによって「ひとつ」。『往生要集』と『神曲』は「ふたつ」であることによって「ひとつ」。
 そのあいだには、実は、岡本がいる。
 あ、そうなのだ。
 「現在形」と「過去形」のあいだにも、実は岡本がいた。岡本が「境界線」となって動いていた。岡本が「現在形」で書けばその瞬間が「現在」。「過去形」で書けばその瞬間が「過去」。けれど、それは岡本の存在そのものであるから、区別なんて、そんざいしないのだ。
 「ふたつ」を結びつける、「ふたつ」を同時に存在させる--そのとき、岡本が「和音」になるのだ。

 詩は、先の引用のあと、どんどん動いていく。「日本」と「西洋」を動き回る。「日本」だけでもさまざまな「ふたつ」(向き合った存在)が描かれ、ことばは、そのあいだを動き回る。「西洋」でも同じ。ランボーもゴーギャンも登場する。複数になりながら、それはやはり「ひとつ」の「和音」になっていく。
 「一」篇の詩という「和音」に。

 それが岡本のことばの運動である。

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