竹田朔歩『鳥が啼くか π』(書肆山田、2010年04月05日発行)
井坂洋子が読んだ竹田朔歩『鳥が啼くか π』。そのなかの、高柳重信の「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」の句に寄せた詩。私も読んでみる。
竹田朔歩--井坂は「栞」で「彼女」と書いている。私は竹田を知らない。写真も見たことがない。それで(?)、私はずーっと竹田を男性だと思っていた。井坂の「彼女」という文字を読んだあとでも、男性だと思っている。
ことばにとって、女性・男性の区別などどうでもいいことなのかもしれないけれど、ちょっと気にかかる。
ことばと肉体、肉体をどう表現するか--という部分で、私は竹田のことばに女性を感じないのだ。私は古い人間で、女性はこう、男性はこう、という無意識に考えているのかもしれない。だから、「肉体感覚」も井坂とはまったく違っていて、そのために井坂が竹田の「身体性」について書いている部分に違和感を感じたのかもしれない。
(私が心底女性を感じるのは、映画監督のノーラ・エフロンである。彼女の人間描写には、私には絶対に見えないものがある。彼女の描写をとおして、あ、そういえばこういう人間、こういう肉体があった、とはじめて気がつくことがある。)
ちょっと余分なことを書いたかもしれない。でも、まあ、ついでに。
書き出しの「過ぎる道のり ちりぢりに破り」。この1行から、私が感じるのは、男性の「音楽」である。「過ぎる道のり」という突然の書き出し--突然の、というのは、そこには「肉体」があるはずなのに、「肉体」が登場する前に「過ぎる」という動詞、運動が登場し、直接「道のり」という抽象と結びつくからである。「道」は具体的に目の前に存在するが「道のり」というのは、いったん「頭」のなかで整理しないと生まれない。「肉体」を押し退けて、「頭」が最初に登場し、その「頭」のなかでことばが動く。そこからはじまる。こういう「文体」は、私には男性の文体に見えてしまう。
いや、女性もそういう文体を自在に生きるようになったのだ、と言われればそれまでだけれど、私の知っている女性は、そういう文体を生きていない。
そして、「ちりぢりに破り」。この「音」。ここには「い」の音がびっしりと隠されている。そして、その「い」はすずに「過ぎる道のり」のなかにもひそんでいる。「過ぎる道のり」のなかの「い」を引き継いで「ちりぢりに破り」という音楽がつづく。このつづき方というか、音楽の増幅の仕方も、私には女性という感じから遠い。それは直接的な肉体ではなくて、何か意識的な肉体である。
「天空に投函する夕暮れ」のなかにひそむ「う」も、意識に作用してくる音楽である。「明日も あさってもあるものか」の「あ」も同じ。ちょっととばして書いてしまうと「われが ふたつ 育つなり」の「つ」、「生きくれて さらに生き」の「生き」、「片腕を差し出し もぎたし」の「し」。随所に出てくる「音」の響きあいが、私には「肉体」でつかみ取ったものというより、何か「文献」からつかみとったもの、ことばになじむことによって、ことばがかってにつかみとっている音楽のように感じられるのだ。「意識に作用してくる」と書いたのは、そういうことである。竹田のことばを読むと、私のなかでは、「肉体」ではなく、何か「文献」のなかの「音」が響くのだ。こういうことは、男性のことばを読んだときにしきりに起きるが、女性のことばを読んだときには、私には、起きない。そういうことば、女性の書きことばを私は意識したことがなかった。
「わが恋も 蛹も」という乱調になると、もっと、「文献」というか、「ことばの密集した何か」を感じてしまう。
こんなふうに書いてしまうと、なんだか竹田のことばから「肉体」を感じていないような印象を与えてしまうかもしれない。
しかし、そんなことはなくて、私は、竹田のことばから「肉体」を感じる。(ただし、それは「女性の肉体」と限定できないものである。)
私が「肉体」を感じたのは、
この2行である。ここに、非常にくっきりと「肉体」を感じた。言い換えると、ことばを読むことで、私の肉体そのものが動いた。
「通過した断片を思いながら」。このとき、「肉体」は動いていない。動いているのは「頭」である。「頭」が「思っている」。動いているのは「頭」、あるいは「こころ」である。「頭」か「こころ」で思うのであって、「肉体」では「思わない」。そして、その「思い」を「肉体」として受け止めるために、「目」が動く。「目で追ってみる」。それから「足」が動く。「足で追ってみる」。
頭→目→足。
この順序だった動きの移動。
ここにも男性特有の融通のきかなさ(?)というか、なんというか、どうしようもない頑固さ(?)に似たものを感じ、その動き自体が「男性の肉体」を連想させる。
そして、問題の3連目。
この「ふたつ」ということばは、私には、まず「目」と「足」として立ち現れてくる。「わが身」という「肉体」はひとつである。ひとつであるけれど、それはあるときは「目」になり、あるときは「足」になる。ひとつの肉体なのに「目」だけを意識できる。「足」だけを意識できる。
こういう「分断(?)」の仕方こそ、「男性」の意識かもしれない。ここに「肉体」の分断をみているのは私だけであって、竹田はそうはみていないかもしれないが……。
ひとつながりの「目」と「足」さえも、「ふたつ」の「わが身」なら、切断されてしまった片腕(鬼籍に入ってしまった片腕)は、当然、「わが身」である。それはいまでも「頭」とつながっている。「頭」とつながっているかぎり、それは「生きている」。
死んでしまった(鬼籍に入ってしまった)が、「頭」で呼び戻すとき、それは「生きている」。
竹田の「肉体」は、いつも「頭」と結びつくことで「肉体」となっている。「わが身」になっている。「頭」と結びつかないときは、単なる「肉体」、「頭」と結びついて「わが身」になる--と言い換えた方がいいかもしれない。
そう読んできたあとで、最終連を読む。
「傍らのひと」。それは「肉体」的には、どういう存在だろう。「わが身」は「ひとつ」である。「傍らのひと」はもちろん「わが身」ではない。「わが身」ではありえない「肉体」である。
そういうひとと(肉体と)、「わが身」はどんなふうに生きることができるのか。どんなふうに「恋」することができるのか。(1連目に「恋」ということばがあった。)
失った片腕を「肉体」に呼び戻したときのように「頭」を経由するのだろうか。
そう思ったとき「かなし」みが、急にわいてくる。
さて、どうしよう。急いで「かなしくも なし」と言ってみる。そして、その「思い」に「失せよ」と命令してみる。
この「矛盾」。正確には「矛盾」ではないのかれもしれないけれど--うまく整理しきれないなにか。そういうものと向き合う形で「わが身」が、「ことば」(流通言語としての意味)を拒絶した「音楽」といっしょに、ただ、そこにある。
きのう書いた感想とつながっていないかもしれない。きょうの感想も、最初と終わりではつながっていないかもしれない。
とりとめもなく、私は、ただ、そんなふうに感じた。
*
竹田の作品と重なり合うか、ずれてしまうのか、たぶん重なるだろうと思って書くのだが……。
この句は「我が片腕」では「我は」であるところが、重くて、強い。「我は」に私はゆさぶられる。失ってしまった方の片腕、それこそが「われ」なのである。残された肉体、「頭」とつながっている片腕ではなく、「頭」から切り離された「片腕」、それが「われ」である。
その「われ」は「肉体」でつながってるのではなく、「頭」でつながっている。「頭」がつないでいる。
「頭」がむすびつけるとき、あらゆるものが「われ」になる。他者(傍らのひと)も、「頭」でむすびつけるとき、「わが身」になる。
この暴力性、ことばの暴力。それは、まあ、愛でもあるのだけれど。そういうものに、竹田はどこかで触れているかもしれない。
井坂洋子が読んだ竹田朔歩『鳥が啼くか π』。そのなかの、高柳重信の「友よ我は片腕すでに鬼となりぬ」の句に寄せた詩。私も読んでみる。
過ぎる道のり ちりぢりに破り
天空に投函する夕暮れ
明日も あさってもあるものか
わが恋も 蛹(さなぎ)
風干しをする
寄る辺ない未知は 隅田川を渡り
通過した断片を思いながら 目で追ってみる
足で追ってみる
「わが身」という
われが ふたつ 育つなり
生きくれて さらに生き
片腕を差し出し ●(も)ぎたし
傍らのひと 三々拍子 てんつく てん
急げ かなしくも あり
陥ちよ かなしくも なし
失せよ てんつく てんつく つづくなり
(谷内注・●は「手ヘン」に「宛」という漢字。以後は「も」で代用)
竹田朔歩--井坂は「栞」で「彼女」と書いている。私は竹田を知らない。写真も見たことがない。それで(?)、私はずーっと竹田を男性だと思っていた。井坂の「彼女」という文字を読んだあとでも、男性だと思っている。
ことばにとって、女性・男性の区別などどうでもいいことなのかもしれないけれど、ちょっと気にかかる。
ことばと肉体、肉体をどう表現するか--という部分で、私は竹田のことばに女性を感じないのだ。私は古い人間で、女性はこう、男性はこう、という無意識に考えているのかもしれない。だから、「肉体感覚」も井坂とはまったく違っていて、そのために井坂が竹田の「身体性」について書いている部分に違和感を感じたのかもしれない。
(私が心底女性を感じるのは、映画監督のノーラ・エフロンである。彼女の人間描写には、私には絶対に見えないものがある。彼女の描写をとおして、あ、そういえばこういう人間、こういう肉体があった、とはじめて気がつくことがある。)
ちょっと余分なことを書いたかもしれない。でも、まあ、ついでに。
書き出しの「過ぎる道のり ちりぢりに破り」。この1行から、私が感じるのは、男性の「音楽」である。「過ぎる道のり」という突然の書き出し--突然の、というのは、そこには「肉体」があるはずなのに、「肉体」が登場する前に「過ぎる」という動詞、運動が登場し、直接「道のり」という抽象と結びつくからである。「道」は具体的に目の前に存在するが「道のり」というのは、いったん「頭」のなかで整理しないと生まれない。「肉体」を押し退けて、「頭」が最初に登場し、その「頭」のなかでことばが動く。そこからはじまる。こういう「文体」は、私には男性の文体に見えてしまう。
いや、女性もそういう文体を自在に生きるようになったのだ、と言われればそれまでだけれど、私の知っている女性は、そういう文体を生きていない。
そして、「ちりぢりに破り」。この「音」。ここには「い」の音がびっしりと隠されている。そして、その「い」はすずに「過ぎる道のり」のなかにもひそんでいる。「過ぎる道のり」のなかの「い」を引き継いで「ちりぢりに破り」という音楽がつづく。このつづき方というか、音楽の増幅の仕方も、私には女性という感じから遠い。それは直接的な肉体ではなくて、何か意識的な肉体である。
「天空に投函する夕暮れ」のなかにひそむ「う」も、意識に作用してくる音楽である。「明日も あさってもあるものか」の「あ」も同じ。ちょっととばして書いてしまうと「われが ふたつ 育つなり」の「つ」、「生きくれて さらに生き」の「生き」、「片腕を差し出し もぎたし」の「し」。随所に出てくる「音」の響きあいが、私には「肉体」でつかみ取ったものというより、何か「文献」からつかみとったもの、ことばになじむことによって、ことばがかってにつかみとっている音楽のように感じられるのだ。「意識に作用してくる」と書いたのは、そういうことである。竹田のことばを読むと、私のなかでは、「肉体」ではなく、何か「文献」のなかの「音」が響くのだ。こういうことは、男性のことばを読んだときにしきりに起きるが、女性のことばを読んだときには、私には、起きない。そういうことば、女性の書きことばを私は意識したことがなかった。
「わが恋も 蛹も」という乱調になると、もっと、「文献」というか、「ことばの密集した何か」を感じてしまう。
こんなふうに書いてしまうと、なんだか竹田のことばから「肉体」を感じていないような印象を与えてしまうかもしれない。
しかし、そんなことはなくて、私は、竹田のことばから「肉体」を感じる。(ただし、それは「女性の肉体」と限定できないものである。)
私が「肉体」を感じたのは、
通過した断片を思いながら 目で追ってみる
足で追ってみる
この2行である。ここに、非常にくっきりと「肉体」を感じた。言い換えると、ことばを読むことで、私の肉体そのものが動いた。
「通過した断片を思いながら」。このとき、「肉体」は動いていない。動いているのは「頭」である。「頭」が「思っている」。動いているのは「頭」、あるいは「こころ」である。「頭」か「こころ」で思うのであって、「肉体」では「思わない」。そして、その「思い」を「肉体」として受け止めるために、「目」が動く。「目で追ってみる」。それから「足」が動く。「足で追ってみる」。
頭→目→足。
この順序だった動きの移動。
ここにも男性特有の融通のきかなさ(?)というか、なんというか、どうしようもない頑固さ(?)に似たものを感じ、その動き自体が「男性の肉体」を連想させる。
そして、問題の3連目。
「わが身」という
われが ふたつ 育つなり
生きくれて さらに生き
片腕を差し出し もぎたし
この「ふたつ」ということばは、私には、まず「目」と「足」として立ち現れてくる。「わが身」という「肉体」はひとつである。ひとつであるけれど、それはあるときは「目」になり、あるときは「足」になる。ひとつの肉体なのに「目」だけを意識できる。「足」だけを意識できる。
こういう「分断(?)」の仕方こそ、「男性」の意識かもしれない。ここに「肉体」の分断をみているのは私だけであって、竹田はそうはみていないかもしれないが……。
ひとつながりの「目」と「足」さえも、「ふたつ」の「わが身」なら、切断されてしまった片腕(鬼籍に入ってしまった片腕)は、当然、「わが身」である。それはいまでも「頭」とつながっている。「頭」とつながっているかぎり、それは「生きている」。
死んでしまった(鬼籍に入ってしまった)が、「頭」で呼び戻すとき、それは「生きている」。
竹田の「肉体」は、いつも「頭」と結びつくことで「肉体」となっている。「わが身」になっている。「頭」と結びつかないときは、単なる「肉体」、「頭」と結びついて「わが身」になる--と言い換えた方がいいかもしれない。
そう読んできたあとで、最終連を読む。
「傍らのひと」。それは「肉体」的には、どういう存在だろう。「わが身」は「ひとつ」である。「傍らのひと」はもちろん「わが身」ではない。「わが身」ではありえない「肉体」である。
そういうひとと(肉体と)、「わが身」はどんなふうに生きることができるのか。どんなふうに「恋」することができるのか。(1連目に「恋」ということばがあった。)
失った片腕を「肉体」に呼び戻したときのように「頭」を経由するのだろうか。
そう思ったとき「かなし」みが、急にわいてくる。
さて、どうしよう。急いで「かなしくも なし」と言ってみる。そして、その「思い」に「失せよ」と命令してみる。
この「矛盾」。正確には「矛盾」ではないのかれもしれないけれど--うまく整理しきれないなにか。そういうものと向き合う形で「わが身」が、「ことば」(流通言語としての意味)を拒絶した「音楽」といっしょに、ただ、そこにある。
きのう書いた感想とつながっていないかもしれない。きょうの感想も、最初と終わりではつながっていないかもしれない。
とりとめもなく、私は、ただ、そんなふうに感じた。
*
竹田の作品と重なり合うか、ずれてしまうのか、たぶん重なるだろうと思って書くのだが……。
友よ我は片腕すでに鬼となりぬ
この句は「我が片腕」では「我は」であるところが、重くて、強い。「我は」に私はゆさぶられる。失ってしまった方の片腕、それこそが「われ」なのである。残された肉体、「頭」とつながっている片腕ではなく、「頭」から切り離された「片腕」、それが「われ」である。
その「われ」は「肉体」でつながってるのではなく、「頭」でつながっている。「頭」がつないでいる。
「頭」がむすびつけるとき、あらゆるものが「われ」になる。他者(傍らのひと)も、「頭」でむすびつけるとき、「わが身」になる。
この暴力性、ことばの暴力。それは、まあ、愛でもあるのだけれど。そういうものに、竹田はどこかで触れているかもしれない。
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