詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウディ・アレン監督「ウディ・アレンの夢と犯罪」(★★★)

2010-04-06 23:21:54 | 映画

監督・脚本 ウディ・アレン 出演 ユアン・マクレガー、コリン・ファレル、ヘイリー・アトウェル、サリー・ホーキンス、トム・ウィルキンソン

 殺人を犯したあと、ユアン・マクレガーとコリン・ファレルの兄弟の対応ががらりと変わる。兄ユアン・マクレガーは何もなかったかのよう。冷徹になる。弟コリン・ファレルはウツ状態になる。そのふたりのやりとりの、「リアル」さがおかしいのはおかしいのだが、うーん、笑えないねえ。
 なぜだろう。
 きっとふたりの「役」が「労働者」だからだろうなあ。ユアン・マクレガーは、父の経営するレストランを手伝いながら、ビジネス投資で金をもうけようと思っている。コリン・ファレルは自動車整備工場で働きながらギャンブルから抜け出せないでいる。あ、リアルだなあ。
 ふたりが暮らしている「家庭」が、またまたリアルだなあ。母の兄(ユアン・マクレガーとコリン・ファレルにとっては叔父)は整形美容の医師で大成功。父はレストランをなんとか経営しているが、妻から兄の自慢話ばかり聞かされ、ぜんぜん尊敬されていない。兄弟も父への軽蔑のことばを聞きつづけているので、父を尊敬していない。ふたりにとって尊敬に値するのは叔父、あこがれの対象は叔父。あ、こういう姿もなんだか身につまされるねえ。
 で、笑えないんです。
 自分の身の回りにいないような金持ち階級が、こういう問題で悩む、リアルな会話をするなら、それはおかしいんだと思う。
 たとえば、前作の「それでも恋するバルセロナ」の画家のやりとり。ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスがスカーレット・ヨハンソンの前で痴話喧嘩をする。ペネロペ・クルスがスペイン語でまくし立てると、そのたびに状況が不利になるハビエル・バルデムは、「英語で言え。スカーレット・ヨハンソンにわからないじゃないか」と口を封じる。ハビエル・バルデムはスカーレット・ヨハンソンに知られたくないことは、スペイン語でしゃべるんだけれど。ね、この男のいいかげんさ。首尾一貫しない姿勢。それは、まあ、私の個人的事情(そして、たぶん多くの観客の事情)とはかけ離れているかは、「ことばのやりと」(おしゃべり)として愉快だ。
 でもねえ。これが身近な問題となると、ちょっとねえ。「笑い」の対象にするのは、ちょっとやめてくれないかなあ、という気持ちになる。
 そのせいなんだろうなあ。あ、このせりふ、おもしろいじゃないか、と何度も思ったけれど、それを具体的にはぜんぜん思い出せない。「それでも恋するバルセロナ」なら、「英語で話せ」を覚えているからねえ。

 あ、悪口ばかり書いているのに★3個なのは……。
 ユアン・マクレガーとコリン・ファレルの演技がおもしろい。冷徹な一方、焼き餅をやくユアン・マクレガー、愛されているのに愛に見向きもせずにだんだん弱虫になっていくコリン・ファレル。まったく逆の人間なのに、なぜか、二人一緒にいると、あ、兄弟だなあ、と思ってしまう。ウディ・アレンの演出の力かな?
 そして。ロンドンの風景が、イギリス映画のように美しかったのもいいなあ。アメリカ映画にはない街の色合いだね。



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岩佐なを「わざ」

2010-04-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「わざ」(「交野が原」68、2010年04月10日発行)

 困ったなあ、と思うときがある。詩を読んでいて、あ、困ったなあ、と。たとえば、岩佐なを「わざ」。困ったなあ。気持ち悪くない。だめだよ岩佐さん、もっと気持ち悪い詩を書いてくれないと。私は、岩佐の詩は気持ち悪い、なんでこんなに気持ちが悪いのに読んでしまうのか、ということを怒りながら書くのが大好きなのだ。岩佐の詩をいいなんていう奴がいるなんて、世の中間違っている、と書きたいのだ。でも、書けないじゃないか、こんな詩では……。

 あいかわらず、ずるくて--ことばの動きが狡賢くって、それが気持ち悪いといえば言えるのかもしれないけれど……。(あ、私が、気持ちが悪くないと感じるのは、一番に森鴎外、次が魯迅なんですが。--こう書けば、いくらか「気持ち悪い」を定義死したことになるかなあ。)

 あ、話がずれてしまった。書き出し。

「危なっかしい」の
「っかしい」のあたりをたくみにしのいで
真剣白刃の上を渡ってゆく

 「っかしい」って、どのあたり? 言えないね。岩佐自身、言おうとしていない。けれど、なんとなく「わかる」。それは「っかしい」だけではわからなく、「のあたり」があるから、わかってしまう。「っかしい」なんてものはほんとうはなくて、「危ない」の周辺の、その「あたり」が「危ない」ではなくて「っかしい」なのだ。そして、それは「しのいでゆく」というやり過ごしかたが最適の「場」である。それは「克服する」とか「解決する」とかではなく、身をかわして、それが身をこわしてしまわないようにこらえるという感じかなあ。こういう感じ、誰もが体験して「肉体」の記憶としてもっているものだと思う。それを、岩佐は明確なことばではなく、その「あたり」を徘徊することばで書き留めてゆく。そこに「肉体」が出てくる。
 そして、そのとき、あらわれてくる「肉体」が、以前は、とても気持ちが悪かった。ところが、最近は、なんだかあまり気持ちが悪くない。
 「しのいで」から「真剣白刃の上を渡ってゆく」という行の展開にみられるように、ことばが、岩佐自身の「肉体」だけではなく、「日本語」の「肉体」を踏まえるからかもしれない。「しのぐ」は「しのぎ」、刀の刃と刃を支える部分の境目のようなところ(そのあたり)をさしていると思うけれど、ね、ここで「あたり」がででくるでしょ? このあたりの(と、私は岩佐のまねをしてみる)、すりかえというか、ずらしというか、そこがそれこそ「たくみ」でしょ?
 岩佐の「肉体」だけが問題なら「気持ち悪い」ですむのだけれど、それが「日本語」の「肉体」と重なってしまうと、うーん、気持ち悪いと言えない。言ってもいいのかもしれないけれど、私は、なんだか抵抗を感じる。岩佐の「肉体」そのものを「気持ち悪い」ということは私にとって何の問題もないけれど、「日本語」の「肉体」が「気持ち悪い」と言ってしまうと、私には、書くためのことばがなくなってしまう。
 それでは、困る。

莚に坐って
黒猫に
あまりの心地よさで
白猫になっちゃう素手の美技を
ほどこしてやる
「にゃにゃにゃにゃむにい」
「そうだろう、そうだろう」

 この部分は、私には、まったく個人的な理由で「気持ちが悪い」。ここでは岩佐の「肉体」が問題なのではなく、「猫」が問題である。私はカタカナが苦手であるのと同じように、猫が苦手で、それだけで「気持ちが悪い」。猫と会話する、猫とことばが通じるとなれば、もう、だめ。
 なんてことは、詩自体とは、何の関係もなくて、その気持ち悪いはずのことがらが、

「にゃにゃにゃにゃむにい」
「そうだろう、そうだろう」

 こういう「日本語」になってしまうと、「気持ち悪い」のに「気持ち悪い」といえなくなる。あ、おもしろい、と私の意に反することばが出てきてしまう。
 これは困る。非常に困る。

おろ?振り向けば
猫猫駄犬野良捨犬土鳩
みんな並んで待っていな、順番、順番。
素手のわざ、指のわざだ。
(ゆっくり生きのびろ)
順番、順番、
快楽も極楽行きも。
ほうら、手技。
けっして手抜きではないのだよ。

 「順番、順番。」というような「口語」を出しておいて、最後は「手技」に「手抜き」。あ、字が似ている。突然の、「文語」。書きことば。そして「書く」ということで浮き上がってくる「日本語」の「肉体」。
 まいるね。
 困ったね。ほんとうに、困った。

 岩佐の詩なんか大嫌い、といいたいのに、また今回も言えない。欲求不満がたまって、いらいらしてしまうよ。



しましまの
岩佐 なを
思潮社

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