詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「語ろう午前の巌(その2)」

2010-04-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「語ろう午前の巌(その2)」(「ガニメデ」48、2010年04月01日発行)

 秋亜綺羅の軽さの対極にあるのは、誰の詩だろうか。私は、ふいに野村喜和夫のことばを思い出した。根拠があるわけではないが、なんとなく野村喜和夫を思い出した。
 そこで野村喜和夫「語ろう午前の巌(その2)」を読んでみることにした。

語ろう午前の巌、

というのも、ともかくち目を覚ましてしまった彼は、寝床のうえでいったん身を起こし、出ようか出まいか、ちょっとのあいだ考えてみた、たぶん何かの訪問セールスか、管理人か、新聞の集金人か、でなければ毎月訪れるガスの検針係の女か、そんなところだろう、セールスや集金人ならいつだって不在を装うことができたし、検針に来た女なら彼が寝ていようと起きていようとまた外出中であろうと、管理人から借りた合鍵でづかづかと入ってくるし、シンクの下にあるメーターをのぞき込むのが早いか、3秒かそこらで出ていってしまうわけだし、宅配ではなかった、宅配で何かが届くような生活はしていなかったのだから、また友人でもなかった、わざわざアパートまで訪れるような友人は彼にはいなかったのだから、

 この、句点「。」がなくて、読点「、」だけのことばを読んでいると、まあ、私のカンも悪くはないなあ、と思うのだ。
 秋亜綺羅と野村喜和夫の違いが明確に意識できていたわけではないのだが、まず、秋亜綺羅は、こういうだらだらというか、ずるずるとした「意識の流れ」くずれのことばを書かない。ことばとことばを明確に対比させる。ことばとことばを向き合わせ、向き合うときに生まれる力を利用して浮き上がる。磁石の同じ極を向き合わせると、反発して、持ちかた次第でちょっと浮き上がるような感じに。そのときの、向き合わせ(向き合い)には、きちんとした句点「。」が必要である。「ふたつ」というものが必要である。
 野村は、そういう「対」を必要としていない。というよりも、「対」を否定してことばが動く。「対」には「一」という明確な存在が必要だが、野村はその「一」を否定するようにことばを動かす。「一」に「一」が向き合うのではなく、「一」に「多」が向き合わせることで、「一」が「一」である根拠を否定し、「多」にのなかに、その存在を消してしまう。
 「セールスマン」は「管理人」に、「集金人」に、「検針係の女」に。そこでは「一」は否定されながら、それでも、ドアの外の誰かという「あいまいな一」が残される。それは何だろう。
 何かよくわからないけれど、少しだけ気がつくことがある。野村のことばは、その「あいまいな一」の「過去」へと動いていく。たとえば、この詩のドアの外の誰かが誰であるか考えるとき、そこには「彼」の「過去」が入ってくる。「セールス」「管理人」「集金人」「検針係の女」。それは、すべて「彼」が以前にあったことのある誰かである。そこには「未知の人」は含まれないのである。「いま」はひたすら「過去」によって証明される。証言される。複数の「過去」なのかに、「いま」という「一」がある。そういうふうに、野村のことばは動く。
 秋亜綺羅のことばは、そういうふうに「過去」を求めない。「過去」は常に「うそ」として語られるだけである。「うそ」によって「過去」を切り離し、切り離すことで「いま」を軽くし、ひたすら「未知」なものをつかみ、それをつかむことでことばが「過去」とは反対の方向へ動いていく。
 野村のことばは逆だ。ひたすら「過去」を求め、その「過去」によって「いま」を複数化してしまうことで、「いま」を「未知」なものにかえるのだ。わけのわからないもの、わからないから、そこではことばがどんなふうに動こうが勝手だ--という具合に動いていくのだ。

 野村のことばに「未知」なものはない。「未知」に触れることで、ことばが動いていくことはない。それは、ドアの外にいる人間が、「彼」の知らない(ほんとうなら「未知」であるはずの)人間の場合でも同じである。

そこに、うす暗い廊下に、俺の部屋のドアは外側に開くものだから、ちょうどそれに体半分ほど隠されたていの小肥りの男が立っているのさ、みるからに窮屈そうなその男の、それとなく差し出された手には黒字に金文字の警察手帳、といえばようするにあの、テレビのサスペンスドラマかなんかによく出てくる刑事の聞き込みらしいのだが、そいつの背後のアパートの入り口がぽっかりと白く、そのためにそいつを逆光の位置に仕立てあげていて、よく確かめられない容貌に眼鏡のふちだけがきらめき、まるで虚構じみてるじゃないか、

 「未知の」警官。一度も会ったことのない警官。けれど、その警官にむけて動くことばというのは、「過去」のことばなのだ。「テレビのサスペンスドラマ」という「過去」を持った「人間」なのだ。まったく知らない人間ではなく、知らないはずの人間さえ、どこかで知ってしまった「過去」をもっている。
 それは別なことばで言えば、野村のことばは常に「過去」からやってくるということである。知っていることばが、「いま」のわけのわからないものを描写するのだ。してしまうのだ。
 野村のことばの軽さは、そしてそんなふうに「過去」からやってくることばの「過去」というものが必ずしも「現実」ではないということだ。たまたま「警官」「サスペンスドラマ」が出てくるからいうのではないのだが、それは「虚構」なのだ。「現実」ではなく、「虚構」。
 これは、また、秋亜綺羅のことばと対照的である。秋亜綺羅の「過去」は「うそ」だが、その「うそ」は秋亜綺羅にとって「うそ」だけれど「虚構」ではない。野村の「過去」はたとえば「テレビドラマ」という「ほんとう」を土台にしているが、それは「うそ」である。野村の実際の「現実」、実生活とは関係のない「虚構」である。
 だから(というのは、飛躍があるかなあ)、最初に書いていた「セールス」「管理人」「集金人」「検針係の女」というのも、「虚構」なのだ。もちろん、野村はそういうひとたちと接したことはあるだろう。あるけれど、「セールス」「管理人」「集金人」「検針係の女」ということばを書くとき、野村自身が彼の知っている誰それを、そのことばにあてはめてはいない。野村の「過去」は「具体的な過去」ではないのだ。「過去」という「虚構」なのだ。
 そのために、とても軽い。

 あるいは、こんなふうに言いなおしてみることができるかもしれない。
 秋亜綺羅の「過去」は「うそ」ではあるけれど「虚構」ではない。秋亜綺羅自身の「過去」ではなくても、誰かの(読者)の「過去」という具体的なものを持っている。秋亜綺羅に妹がいなくても、読者には妹がいる。そういう「事実」が読者の側にあるから、秋亜綺羅のことばは「過去」へ沈み込んでいかない。いつも読者の「過去」(あるいは、「大衆の過去」といえばいいかもしれない)という「大地」を蹴って、空中へ飛び出すのである。落ちても沈まない「大地」があるから、秋亜綺羅は、その翼で空気をつかみ、飛翔するのである。
 一方、野村の「過去」は「うそ」ではないけれど「虚構」である。「セールス」「管理人」「集金人」「検針係の女」は実在するけれど、そのことばをしっかり支える「過去」ではない。そういう「運動」をするものの「しるし」である。「ことば」である。「ことば」にすぎないのである。そういうものは「大地」のように人間を支えてはくれない。まるで底無し沼のように人間をずるずると引きずり込む。そこから逃れるために、野村のことばは「軽い」という状態を生きるしかないのである。

 違う詩を読めば、また違うことを書くかもしれないが、きょうは、そういうことを考えてしまった。





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