詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガブリエル・アクセル監督「バベットの晩餐会」(2)(★★★★★)

2010-06-05 18:24:32 | 午前十時の映画祭
監督 ガブリエル・アクセル 出演 ステファーヌ・オードラン、ジャン・フィリップ・ラフォン、グドマール・ヴィーヴェソン、ヤール・キューレ、ハンネ・ステンスゴー


 5月25日の感想の補足。「午前十時の映画祭」の「みんなの声」に疑問を書いたのだが、どうも反応が違う方向に動いてしまう。

 5月25日に書いた疑問は、以下の通り。

 記憶していたシーンが2か所、欠落している。その2か所はもしかすると、私がでっち上げたものかもしれない。
 一つはバベットが野原でハーブ(と思う)を探し、摘み取るシーン。それを入れると近所の老人に配っているお粥(?)が格段においしくなるのだ。もう一つは、バベットが留守の間、姉妹がお粥を作る。これがまずい。口に含んだ老人がまずいと顔をしかめる。それを見て姉妹が「どうして?」と顔を見合わせる。その顔を見合わせるシーンがない。

 私が「お粥」といい加減に書いた部分に反応が返ってきて、肝心のハーブを摘むシーン、姉妹が顔を見合わせるシーンについての反応がない。やっぱり、私の勘違い?
 私がこのシーンにこだわるのは、理由がある。
 この映画は、一種のグルメ映画で、豪華なフランス料理に視線が集中してしまいがちなのだが、バベットがこの村に紹介したのは(持ち込んだのは)豪華料理だけではない。
 いつもみんなが食べている「お粥(ビールパン?)」も工夫次第でおいしくなる。野原に生えているハーブを加えるだけで味が変わる。そういうことを描いている重要なシーンである。ビールパンにどのハーブなら合うのか。ハーブを摘みながら、匂いを嗅ぎ、それを加えた時の味を想像する――そういうことをバベットはしていると思う。
 そしてその工夫が思いがけない効果を生む。ビールパンがおいしくなるだけではない。おいしくなることで何かを省略できる。それは例えばビールの量かもしれない。その結果、つかうお金が節約できる。野原のハーブはただ。ビールはいくらかお金が必要。
 そういうことが積み重なって、姉妹が金銭を勘定するシーンにつながる。
 貧乏な姉妹。バベットに給料は払えない。給料を払わなくても、食べる人数が増えれば食費がかさむはずである。ところが、逆に、
 「バベットが来てから、経済的に余裕が出てきた」
 姉妹が驚くシーンがあるが、その背景には、そういう「事実」があるのだと思う。そして、その「事実」の裏付けとなるのがハーブを摘むシーン、野原でハーブを探すシーンだと思う。

 料理には材料に金をかけるものがある。晩餐会の豪華なフランス料理のように。一方で、工夫で味をよくするものもある。(この工夫はもちろん豪華料理にも生かされている。)「バベットの晩餐会」は、このことを描いていると私は思う。
 そこが単なるグルメ映画ではない。
 そう感じて、私はこの映画を「傑作」と評価するのだけれど・・・。

 グルメだけを描くなら、映画の前半に、若い姉妹のせつない恋愛がえんえんと描かれるのも奇妙ということになるが、この映画をグルメ映画ではなく、人間の生き方の映画としてみると違ってくる。
 質素であっても、工夫して、信念をもって生きる。その生き方が、やがて人生そのものの味を完全に味わうための下地になる。ただ豪快に遊び、放蕩すれば人生が楽しいわけではない。質素、堅実に、自分の信念に従って生きたものが、最良の料理・神の祝福を受ける、神の祝福を存分に味わうことができる。
 そういうことを語る映画だと思う。

 そう思うからこそ、私が見たはずのシーンは幻なのかなあ、それとも今回の上映にあたってカットされたのかなあ、と気になるのである。



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小林Y節子『B・Bに乗って』

2010-06-05 00:00:00 | 詩集
小林Y節子『B・Bに乗って』(思潮社、2010年05月25日発行)

 小林Y節子『B・Bに乗って』を30ページほど読み、苦しくなって、先へ進めなくなった。この詩集のことばを読むには、かなり訓練がいる。助走がいる。私は誰の詩を読むときでも、助走なしに読む。訓練なしに読む。いきなり「ライブ」に飛びこむ感じである。そうすると、やっぱりついていけないことばがというものがある。
 私は以前、ゴンサロ・ルバルカバのピアノを聴きにいったことがある。CDで彼の音が超スピードなのは知っていた。耳をならしていかないときっとついていけない、と思って、繰り返しCDを聴いて、「予習」していったのだが、やっぱりついていけなかった。それが楽しくて、笑いだしてしまったけれど……。
 そういうことが、小林Y節子『B・Bに乗って』にも起きる。
 そういうことが、と書いたけれど、ゴンサロ・ルバルカバのピアノの場合とは違って、私は小林の詩を読んだ記憶がないので、ほんとうは事情がかなり違う。「予習」というものが、私には、ない。できない。(できなかった。)そのために、そこで展開されることばのスピード、ことばの次元についていけず、あ、苦しい。きょうは、ここまで、と思ってしまったのだ。

 冒頭の詩「足ばやに陽が落ちて」。書き出し。

     ラジカルな指が廻した
   ルーレットはゆるやかに止まり
    クロスする生の文字盤の上

 私は、日常的にこういうことばをつかわない。こういうことばを聞かない。知らないことばは何一つないが、こういうふうに組み合わされてことばがつかわれる瞬間に立ち会ったことがない。
 小林の詩には、ふつうの暮らしのなかではであわないことばの組み合わせ方がある。特別な組み合わせ方をすることで、何か、特別な世界を見ようとしている。
 それは、なんだろう。

  電源はオフにして 耳をすませて
  集中させて 雲の流れより早く
  風を感じた頃の感覚を皮ふで見ている

 ここには、聴覚(耳をすませて)、触覚(皮ふ)、視覚(見ている)が交錯している。そして、わけがわからなくなっている。そして、わけがわからなくなるほどに交錯したものを、もう一度、ていねいにひとつひとつ、聴覚、触覚、視覚に分解し、「径路」をつくり、組み立て直し、わかりやすくするという「操作」がおこなわれている。
 たぶん、小林がことばでやろうとしているのは、世界の渾沌を、渾沌であると理解した上で、それぞれの存在を特定し、それからその存在と存在のあいだに「径路」をつくり、その「径路」によって世界を「構造化」するということなのだろう。
 そして、渾沌とした世界のそれぞれの「存在」を、小林自身のことばで再定義する--再定義することで、渾沌から、あるいは「流通言語」から切り離すとき、小林は、ふつうとはちょっと違ったことばをつかう。
 「ラジカルな」指、「クロスする」「生の文字盤」。それは「ルーレット」という、これまた「非日常」(私にとっては、だけれど)という場で出会い、出会うことで、そこに「径路」らしきものが見える。
 この「径路」--と仮に呼ぶのだけれど、それは、やっぱり「日常」とは違う。ふつうの「目」では見えない「径路」である。
 いちばん特徴的なのが「ラジカルな/指」というときの「径路」である。「指」が「ラジカル」であるとは、どういうこと?「ラジカル」ではない指は、たとえばルーレットを廻すとき、どんなふうに動く? 「ラジカルな」指は、どう動く? これが、私にはわからない。私の「目(肉眼)」には、その違いが見えない。
 見えないけれども--たぶん、ここが重要。(いちいち念おししないと、私のことばは動いてくれない。--私は、どうしても「ライブ」でしか感想が書けない。)
 私の目は(想像力のことだが)、「ラジカルな」指と「ラジカルではない」指の違いを見ることはできないが、それを「ことば」としては、はっきり違うものととらえてしまう。小林は、目には違いが見えないが、「ことば」そのものとしてならはっきり違うことがわかるものをつかって、何かを書こうとしている。
 それは、どうしたって、目にみえないものになる。

 で、目に見えないものって、何?

 「ラジカルな」ということばである。「指」に「ラジカルな」というこことばをくっつける何かである。その何かを、ふつうは「意識」と呼ぶと思う。
 小林は、意識の「径路」をことばによって定着させ、そうすることで世界をとらえなおそうとしているのである。小林が書いてるのは、ふつう私たちが「現実」と読んでいる世界ではなく、「意識」の世界なのだ。
 小林という意識から見た(意識で再構築した)世界なのだ。

 意識で再構築されない世界というのは存在しない--というのは(小林なら、絶対、そういうだろうけれど)、まあ、それはそのとおりなのだが……。ここに書かれていることが、そういうものである、と明確に意識しないと、ちょっと息ができない。
 小林は、意識の径路、そして意識径路がつくりだす構造を明らかにする、世界を意識構造として再構築しようとしている--そう私は私に言い聞かせながら、詩集読む。

何気ないそぶりで側に居る
距離は確実に近づいて見えて
常に深い闇の色を広げ 待ち伏せる
                 (「不確実な距離」)

 「距離」(隔たりと置き換えると、わかりやすいかも……)は接近すると、それと反比例するように、「距離(隔たり)」を構成しているものの「深さ」が、同時に深さをさらにおし広げるものがくっきりと見えてくる。(広げ、広さが深さのなかで「クロスする」--交差する、ということが「「闇の色を広げ」の「広げ」にこめられている。)
 この、あくまでも「意識」の奥へ分け入り、「意識」を純粋化して、そうすることで世界を透明化する。(見えるようにする--透明が見えるというのは矛盾だけれど。これは「渾沌」「不透明」に対しての「透明」だね、と私はここでも、私自身に対して念おししてしまう)。
 この「透明化」への「意識」が強烈なので、小林のことばは、ついつい、世界の不透明さと出会い、そこで、一種の闘いをはじめる。
 そのとき、そのことばが詩になる。
 そういことなんだろうなあ……。

うなだれていた時の針が
憑かれたように刻みはじめる
                (「うなだれていた時の針が」)

 何かきっぱりとした「意識」、だらしないものを許さないような強靱な意識があって、それが「時」という抽象的なもの、人間の感覚を超越したものさえも、「うなだれていた」ととらえてしまう。
 あ、つらい。
 私は、ここでほんとうにつらくなってしまったのだ。

 私はとってもだらしがない。ダリの描いた時計のように、だらりとだらけて休んでいたら楽だろうなあ、と思ってしまう人間である。
 小林のことばは、それこそ何かに「憑かれたように」、明晰に明晰に明晰に……という具合に動いていくのだけれど、私は、ちょっと休憩。あ、永遠に、休憩ということになるかもしれないなあ、と思いながら、永遠に休憩になってしまわないうちに、考えたことだけは書いておこうとは思い、やっとここまで書いた。



天秤座の夜
小林 Y節子
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(アマゾン・コムの詩集の紹介は、とても遅い。私が感想を書くころは、たいていリンクがない。後日、検索して、小林Y節子『B・Bに乗って』を探してみてください。)
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