詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日鳥章一『水辺の朝』

2010-06-23 00:00:00 | 詩集
日鳥章一『水辺の朝』(武蔵野書房、2010年05月10日発行)

 詩とは何だろうか。この問いを日鳥章一は、いつも自分自身に問いかけているのかもしれない。『水辺の朝』の巻頭の「朝になれば」は、白鳥の「生き方」を正確に書いたものなのだろう。

朝になれば
見なれない人々の間に
ぼくは立ちあがるだろう
あくまでも
昨日までのぼくは夢で
今日から始まるものも
確かに夢には違いないが

新しく
別の頁が生まれるだから
ぼくは大急ぎで
新しい言葉を
タイプライターのように
書きこまなくっちゃならない

イスにまつわる伝説で
今日の頁を埋めてやろうと思うのだ
明日は
樹の話を
あさっては
森の言葉を
草の汁で書いてやる

そふやって
僕の頁が
世界中の物事で
あふれてしまっても
朝がくれば
僕はつぎつぎに
言葉を見つけださなくっちゃならないだろう

 「世界」をことばでとらえ、そのことばを「僕の頁」に書きこむ。それが、日鳥にとっての詩である。
 書き出しの「朝になれば/見なれない人々の間に/ぼくは立ちあがるだろう」は、日鳥がどこか別の場所へ行ってしまって(たとえば、旅)、そこで「見なれない人々の間に」自分自身をみつけだし、そこから新しいことばを書く、というのではない。きのうも、きょうも、同じ場所にいる。けれど、それは「きのう」ではなく「今日」だから、それは違っていなくてはならない。
 この違いを日鳥は「新しい」ということばで書き表している。
 「新しい」世界--きのうとは違った「新しい」世界。そのための、「新しい言葉」。大切なのは「新しい」ということなのだ。

 日鳥の問題意識は非常に明確である。ゆるぎがない。

 でも、「新しい言葉」って何? 「イスにまつわる伝説」と日鳥は簡単に書いている。「伝説」は「新しい言葉」? 私にはむしろ「古い言葉」(すでに存在することば)に見える。「森の言葉」も「新しい」というよりは「古い」(なつかしい)ことばのように感じられてしまう。
 日鳥の問題意識と、現実が、ぴったり重なっているとは考えにくい。何かがずれているような、そんな感じがつきまとう。
 そして、

言葉を見つけださなくっちゃならないだろう

 という行のなかで、私は立ち止まってしまう。
 「新しい言葉」。「言葉をみつけださなくっちゃならない」。見つけ出せるものは、すでに存在しているものである。すでに存在しているものは「新しい」か。ふと、そういう気持ちに襲われるのである。

いつの日か
遠い国までいって
はるか昔の物語を
老いた声音(アルト)で
語りださなくてはならなくなるとしたら

 あ、「新しい」は、ほんとうに「新しい」ではなく、何かの都合(?)で「新しい」にかわってしまう。遠い国(たとえば、南アフリカ)では、はるか昔の物語(今昔物語)はたしかに「新しい」かもしれない。
 でも、そういうことじゃないんじゃない? 詩は、そういものじゃないんじゃない? 「いま」「ここ」にいて、「いま」「ここ」を「新しくすることば」のことじゃないのだろうか。ことばが「新しい」のではなく、「いま」「ここ」を新しくするためのことば--古いことばであっても、「いま」「ここ」を新しくすることができるのでは?

 日鳥の意識は意識として非常に明確にわかるけれど、わかるということと納得ができるということは少し違う。私は、日鳥の書いていることばに、疑問を持ってしまうのだ。書いていることはたしかにそのとおりだと思うけれど、なんだか「空想」にしか見えない。「現実」と「ことば」の関係を、まるで「夢」のように思い描いているように感じてしまうのだ。
 「現代詩」ではなく「ポエム」。「現代」から切り離された「別世界」という感じがしてしまう。ことばの美しさ、純粋さ、そしてそれが純粋なまま動いていくときの抵抗感のなさ……。

 「水炎」の書き出し。

明けると
見知らぬ世界で
私は確かに熱を帯びている
眠っているのか
日は彼方からめぐり
地に帰り
光は
私の眼の中を縦に貫いている
走っているのか
燃えつきた世界に
私は確かに居て
立ち止まり
風のように駆け
流れている
水の清澄に埋まっている

 めざめたとき、「見知らぬ世界」にいる--というのが、日鳥の「夢」かもしれない。そこは「見知らぬ」世界なので、いままで白鳥が知っていることばはすべて「新しい」ものにかわる。何を書こうが、それは「新しい」。
 眠っているのか、走っているのか、立ち止まり、駆け、埋まっている--というような「矛盾」が平気で成り立ってしまう世界だ。
 この「矛盾」を「矛盾」であると「肉体」が納得し、世界と向き合えば、ほんとうにことばが動きはじめるかもしれない。「新しい」世界ではなく、「矛盾」した世界。そこでは、いままでのことばが、いままでどおりには動いていかない。(だから、矛盾、という。)そこで、ひとつひとつ、ことばをほぐしていく、肉体で解体していけば、肉体そのものも解体し、必然的に「新しい世界」(新しいことば)になるしかないのだと思うけれど、日鳥は、そこで踏みとどまらず、「知っている言葉」(古い言葉)を加速させ、その加速のなかで、一種の酔いを感じているのではないかと思ってしまう。

私は影ではない
光ではない 水ではない
私は確かに地であり
揺れる火炎である

 この簡単過ぎる「断定」に、私は違和感を覚える。こんな簡単に、言えるのかな? と思ってしまう。

 「砂星」にも、こんな行がある。

煌びやかな首都に私を祭った砂の像があると
いう
そこに私は行って話したいものだ
そこに向って
まだ産まれない言葉で
まだ発音されない言葉で
夜を歌ってみたいのだ

 この「夢」はとてもよくわかる。わかるけれど、その「まだ産まれない言葉「「まだ発音されない言葉」がどんなものなのか、日鳥の表現からはつたわってこない。「夢」がからまわりしているのか、ことばがからまわりしているのか……。



 こうした作品とは別のものもある。「雨の日、僕は鳥を食べている」。

大雨が降っている夜
僕は片腹が空いて
通り沿いのファミリーレストランに入った

鶏の唐揚げとポテトフライ
ICE COFFEEを頼んだ
さっきまで
僕は何をしていたのだろう
別な空間に行っていた
気がするが
思い出せない

 日鳥は、「見知らぬ世界」にいるわけではない。知っている世界である。そこでは、「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」という知っているものが食べられる。飲むことができる。でも、その知っているはずの世界が、違和感とともにある。「さっき」までいた「世界」とつながってくれない。つながってくれないからこそ、つながることばを動かしてみるのだ。「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」で、「いま」「ここ」を確認し、「いま」「ここ」をしっかりつなぎとめようとする。こういうことばは、私には「古い」ではなく「新しく」感じられる。もしかすると、「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」の先にとんでもないものがあらわれてくるかもしれない、と感じる。「アイスコーヒー」ではなく「ICE COFFEE」という表記にこだわった日鳥の「肉体」--「肉眼」の欲望に、あ、なんだろう、とひきつけられる。
 でも、この作品。、その最終連。

水を飲む
変幻自在な水という存在が
羨ましくなる
透明な存在というものに
憧れてしまう

 ということばで終わってしまう。「変幻自在」「透明」といわれても、私にはよくわからない。日鳥の「肉体」が見えない。
 「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」と「変幻自在・透明な水」との間にあるもの、なぜ、白鳥が、「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」「ICE COFFEE」を食べたのに(食べたから?)、「水」に最終的にこだわるのか、それを「古い」ことばでいいから、ていねいに書いてもらいたい。それを読みたい。「鶏の唐揚げ」「ポテトフライ」がからかった。油の質が悪くて、げんなりした。「ICE COFFEE」も、油のしつこさを忘れるには物足りなかった--というようなことでも、具体的に書いてもらえた方が、いま、そこにいる日鳥という存在が、今まで以上に、くっきり見えてくるのではないのだろうか。
 「新しい」とは、そういう「見え方」であり、詩とは、そういう「見え方」を「新しくする」ことばの運動ではないだろうか。ことばが「新しい」のではなく、「運動」が新しくないといけないのではないだろうか。

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コメント (2)
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