監督 中島哲也 出演 松たか子、岡田将生、木村佳乃
台詞が多くてうんざりしてしまう。しかも、その台詞が全部説明である。もし、この映画、台詞がなかったとしたら(音がなかったとしたら)、それでもやっていることがわかるだろうか。
唯一おもしろかったのは、冒頭の、松たか子の話を無視しつづける中学生の描写。そこで松たか子はひとり淡々(?)と語るのだが、その台詞が聞いていられない。とてもつまらない。どうせなら、中学生の描写だけにして、松たか子の台詞を消してしまえばよかったのだ。ストーリーがわからなくなるとしたら、それは映像のとり方が悪い。小道具の携帯メールがあるのだから、そのアップで「犯人がわかった」「○○だ」というようなやりとりを映し出せばいいのだ。松たか子ではなく、こどもの反応で「告白」の内容を知らせれば、いくらかおもしろくなったかもしれない。松たか子の台詞は「牛乳にエイズに感染した血液を入れました」だけで充分だ。
たのシーンも同じ。本人に「告白」させても、ことばが浮いてしまって映像にならない。映画にならない。本人のことばは消して、他人の反応のなかに「告白」をまぎれこませてこそ映画である。
そうでないと、これは小説である。それも、自己中心的なモノローグに終始する、うんざりするような小説である。みんな自分のことしか考えていない。それが見え透いた感じで繰り返される小説である。
どこまでもどこまでも、透明な「真理」。「純粋」と紙一重の透明さ。その嘘くささ。あ、いやだなあ。
センチメンタル、透明なものを、いま、小説の読者はもとめているのかもしれないが、私はなんだかがっかりする。原作を読んでいないので、私の一方的な思い込みかもしれないが、文学(小説)はこんなふうに透明であってはいけない。
映画は、たとえ小説が、透明なセンチメンタルを描いているのだとしても、そこから離れて「不透明さ」で勝負してほしい。なんといっても、そこには「役者」という「不透明な肉体」があるのだから。「役者」の「肉体」が魅力的に見えなければ、映画ではない。あ、あんなふうに自分の肉体を動かしてみたい、自分の肉体で他人に影響を与えてみたい--という欲望を引き起こさない映像は、映画ではない。
もっと簡単にいうと、あ、あのシーン、あの役者の肉体--その行動を真似してみたい、そういう欲望を起こさない映像なんて、映画ではない。
あえて変な例でいうと、たとえば「ローマの休日」。オードリー・ヘップバーンが話しにうんざりして、ドレスの下で靴(ハイヒール)を脱ぐ。それが倒れて、足で靴を探す--そのときのシーン。そういうものを、私は真似してみたい。真似するとき、肉体の奥から、退屈と、それと相反するちょっと困ったという気分がまじって沸き上がってくる。そのときの「こころ」が楽しい。そのとき、ヘップバーンの台詞はないのだけれど、そのないはずの台詞が聞こえる。そういうシーンが楽しい。
「告白」には、そういうシーンがまったくない。台詞がないけれど台詞が聞こえるというシーンがない。逆に、聞きたくもない台詞が映像を押しつぶし、「ちゃんと聞かないと、こころの叫びが聞こえないぞ」と説教している監督の声が聞こえてくる。
やだね、この映画。
台詞が多くてうんざりしてしまう。しかも、その台詞が全部説明である。もし、この映画、台詞がなかったとしたら(音がなかったとしたら)、それでもやっていることがわかるだろうか。
唯一おもしろかったのは、冒頭の、松たか子の話を無視しつづける中学生の描写。そこで松たか子はひとり淡々(?)と語るのだが、その台詞が聞いていられない。とてもつまらない。どうせなら、中学生の描写だけにして、松たか子の台詞を消してしまえばよかったのだ。ストーリーがわからなくなるとしたら、それは映像のとり方が悪い。小道具の携帯メールがあるのだから、そのアップで「犯人がわかった」「○○だ」というようなやりとりを映し出せばいいのだ。松たか子ではなく、こどもの反応で「告白」の内容を知らせれば、いくらかおもしろくなったかもしれない。松たか子の台詞は「牛乳にエイズに感染した血液を入れました」だけで充分だ。
たのシーンも同じ。本人に「告白」させても、ことばが浮いてしまって映像にならない。映画にならない。本人のことばは消して、他人の反応のなかに「告白」をまぎれこませてこそ映画である。
そうでないと、これは小説である。それも、自己中心的なモノローグに終始する、うんざりするような小説である。みんな自分のことしか考えていない。それが見え透いた感じで繰り返される小説である。
どこまでもどこまでも、透明な「真理」。「純粋」と紙一重の透明さ。その嘘くささ。あ、いやだなあ。
センチメンタル、透明なものを、いま、小説の読者はもとめているのかもしれないが、私はなんだかがっかりする。原作を読んでいないので、私の一方的な思い込みかもしれないが、文学(小説)はこんなふうに透明であってはいけない。
映画は、たとえ小説が、透明なセンチメンタルを描いているのだとしても、そこから離れて「不透明さ」で勝負してほしい。なんといっても、そこには「役者」という「不透明な肉体」があるのだから。「役者」の「肉体」が魅力的に見えなければ、映画ではない。あ、あんなふうに自分の肉体を動かしてみたい、自分の肉体で他人に影響を与えてみたい--という欲望を引き起こさない映像は、映画ではない。
もっと簡単にいうと、あ、あのシーン、あの役者の肉体--その行動を真似してみたい、そういう欲望を起こさない映像なんて、映画ではない。
あえて変な例でいうと、たとえば「ローマの休日」。オードリー・ヘップバーンが話しにうんざりして、ドレスの下で靴(ハイヒール)を脱ぐ。それが倒れて、足で靴を探す--そのときのシーン。そういうものを、私は真似してみたい。真似するとき、肉体の奥から、退屈と、それと相反するちょっと困ったという気分がまじって沸き上がってくる。そのときの「こころ」が楽しい。そのとき、ヘップバーンの台詞はないのだけれど、そのないはずの台詞が聞こえる。そういうシーンが楽しい。
「告白」には、そういうシーンがまったくない。台詞がないけれど台詞が聞こえるというシーンがない。逆に、聞きたくもない台詞が映像を押しつぶし、「ちゃんと聞かないと、こころの叫びが聞こえないぞ」と説教している監督の声が聞こえてくる。
やだね、この映画。
嫌われ松子の一生 通常版 [DVD]アミューズソフトエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |