詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中島哲也監督「告白」(★)

2010-06-12 23:53:45 | 映画
監督 中島哲也 出演 松たか子、岡田将生、木村佳乃

 台詞が多くてうんざりしてしまう。しかも、その台詞が全部説明である。もし、この映画、台詞がなかったとしたら(音がなかったとしたら)、それでもやっていることがわかるだろうか。
 唯一おもしろかったのは、冒頭の、松たか子の話を無視しつづける中学生の描写。そこで松たか子はひとり淡々(?)と語るのだが、その台詞が聞いていられない。とてもつまらない。どうせなら、中学生の描写だけにして、松たか子の台詞を消してしまえばよかったのだ。ストーリーがわからなくなるとしたら、それは映像のとり方が悪い。小道具の携帯メールがあるのだから、そのアップで「犯人がわかった」「○○だ」というようなやりとりを映し出せばいいのだ。松たか子ではなく、こどもの反応で「告白」の内容を知らせれば、いくらかおもしろくなったかもしれない。松たか子の台詞は「牛乳にエイズに感染した血液を入れました」だけで充分だ。
 たのシーンも同じ。本人に「告白」させても、ことばが浮いてしまって映像にならない。映画にならない。本人のことばは消して、他人の反応のなかに「告白」をまぎれこませてこそ映画である。
 そうでないと、これは小説である。それも、自己中心的なモノローグに終始する、うんざりするような小説である。みんな自分のことしか考えていない。それが見え透いた感じで繰り返される小説である。
 どこまでもどこまでも、透明な「真理」。「純粋」と紙一重の透明さ。その嘘くささ。あ、いやだなあ。
 センチメンタル、透明なものを、いま、小説の読者はもとめているのかもしれないが、私はなんだかがっかりする。原作を読んでいないので、私の一方的な思い込みかもしれないが、文学(小説)はこんなふうに透明であってはいけない。
 映画は、たとえ小説が、透明なセンチメンタルを描いているのだとしても、そこから離れて「不透明さ」で勝負してほしい。なんといっても、そこには「役者」という「不透明な肉体」があるのだから。「役者」の「肉体」が魅力的に見えなければ、映画ではない。あ、あんなふうに自分の肉体を動かしてみたい、自分の肉体で他人に影響を与えてみたい--という欲望を引き起こさない映像は、映画ではない。
 もっと簡単にいうと、あ、あのシーン、あの役者の肉体--その行動を真似してみたい、そういう欲望を起こさない映像なんて、映画ではない。
 あえて変な例でいうと、たとえば「ローマの休日」。オードリー・ヘップバーンが話しにうんざりして、ドレスの下で靴(ハイヒール)を脱ぐ。それが倒れて、足で靴を探す--そのときのシーン。そういうものを、私は真似してみたい。真似するとき、肉体の奥から、退屈と、それと相反するちょっと困ったという気分がまじって沸き上がってくる。そのときの「こころ」が楽しい。そのとき、ヘップバーンの台詞はないのだけれど、そのないはずの台詞が聞こえる。そういうシーンが楽しい。
 「告白」には、そういうシーンがまったくない。台詞がないけれど台詞が聞こえるというシーンがない。逆に、聞きたくもない台詞が映像を押しつぶし、「ちゃんと聞かないと、こころの叫びが聞こえないぞ」と説教している監督の声が聞こえてくる。
 やだね、この映画。
 

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高柳誠『光うち震える岸へ』(4)

2010-06-12 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(4)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠のことばは「論理」を装う。「論理」のなかへもぐりこむように動く。そして、そのとき、「具体」は「抽象」化される。あるいは「固有」をはぎとられる。「論理」は「固有」のなかでは動かない。少なくとも、高柳のことばの運動では。
 作品に則していうと……。
 この詩集では、高柳(話者)は「旅」をしている。そこには、たとえばスペインが、あるいはバルセロナが、そしてガウディが感じられるけれども、具体的ではない。サグラダファミリアもグエル公園も「固有名詞」として出てこない。

 「固有名詞」をはぎとって、動いていく運動。--それは「固有」なものが「本質」だからだろうか。それとも「属性」だからだろうか。

 疑問は疑問のままにして、ただ高柳のことばを追ってみる。「13」の部分。

バスは、街角から日常という空間を取り込んだまま出発し、その目的地に到着する。心が着替えをする暇もなく、次の場所に移動してしまう。

 ここには「具体」は何も書かれていない。どの街角か、街の名前は記されない。バスの名前も記されない。そして「日常」が「日常」という抽象のままのことばで動いていく。「目的地」も「目的地」という「抽象」にすぎない。読者は、それぞれにかってに「固有」をあてはめて、自己流に高柳のことばを読むことができる。
 そして、その「自己流」が「抽象」を「具象」にかえる。
 私の書いていることは少し前後するが、たとえば、高柳が「曲線」と書く。「曲線」の運動、建築物について書くとき、それは「曲線」としか書かれていないにもかかわらず、私は「ガウディ」という「固有名詞」をそれに結びつけ、さらには私自身のガウディ体験(バルセロナ体験)を結びつけ、「抽象」を「具象」にかえてしまう。
 高柳が書いていることが「抽象」であるにもかかわらず、それを「具象」の運動を、整理したものとして感じてしまう。
 そういうことは、「13」の部分では、たとえば「心の着替え」の「着替え」ということばによっても起きる。「心の着替え」自体は非常に抽象的なことばなのに、日々の「着替え」の感覚が、それをとても生々しい「具体」的な匂いのあるもの、肌触りのあるもの、感覚にからみついたものとして感じさせる。
 「抽象」しか書かれていないのに、なぜか「具象」として感じ、また同時に「具象」が「抽象」をまとっているので、そこには「論理」が書かれている、と感じてしまう。

 高柳のことばは、いわば「抽象」と「具象」を行き来している。そこには「抽象」と「具象」が適度に混じり合っているということになる。どちらかに偏ってしまうのではなく、その両方をバランスよく行き来し、「抽象」でも「具象」でもない領域を動いていく。
 そういうことに重なり合うことを「15」で書いている。

その下には、伸び展げられた海岸線がどこまでも続き、それを消し去ろうと波が押し寄せる。海と陸との境界線は、自身を規定するのが耐えられないのか、いつも曖昧なまま、伸びたり縮んだりする。

 海と陸、その海岸線は「抽象」と「具象」の境界線である。そして、ここに書かれている海、陸は、具象であり、同時に抽象である。「固有名詞」ではないから。
 この海と陸に、高柳は、さらに驟雨をつけくわえ、世界を立体化する。

再び驟雨が襲い、すぐにやむ。雨は直ちに海水と交じり合うのだろうか。交じり合うことに、何のためらいもないのだろうか。

 「交じり合うことに、何のためらいもないのだろうか。」ということばは、「心が着替えをする」というときの「着替え」に似たものをもたらす。高柳が書いていることは抽象にもかかわらず、いや抽象だからこそといえばいいのか、読者の(私の、固有の)具象を誘い込む。
 抽象の負の圧力に具象が誘い込まれていくということかもしれない。
 私自身のためらった経験、あれやこれやが誘い込まれ、思い出される。
 そして、それはそのとき具体的であると同時に、何か、高柳のことばによって整理され、ととのえられているような感じになる。

 あ、こんなふうに、一見「論理的」にみえるような感じでことばを動かす必要はないのかもしれない。私は、私の感想を「論理的」に書く必要はないのかもしれない。高柳のことばが「論理的」なのだから、私は、ただ思いつくまま書けば、知らないうちに「論理」を獲得できるかもしれない。

 思いつくままに(いままでも、思いつくままではあるのだが、さらに思いつくままに)書いてみよう。
 「16」。

烈しい日差しと透明な空気に、にわかに陽炎(かげろう)が立ち、世界の像をゆらめかせる。世界がゆらめくと存在の基盤が共振して、影となって浮遊していく。実は、世界は影からできている。

 この「浮遊」は最初にでてきた「浮遊感」の「浮遊」である。「影」は「不随」するもの。そして、その「不随」であるはずのものが、「実は」「不随ではない」。
 「実は」--これが、もしかすると、高柳のキーワードかもしれない。「実は」という「論理」を隠して、高柳のことばを動いている。「実は」はどこにでも補える。あるいは、「実は」を補うと、高柳のことばはもっと読みやすくなる(わかりやすくなる)。
 つづく部分に「実は」を補いながら読んでみる。「実は」はテキストにはない。私が書き加えたものである。
 世界は……。

存在そのものよりも、「実は」その影によってできている。存在は、「実は」光によって発現する仮象でしかない。烈しい日差しにゆらめきだす現象でしかない。影の陰影のうちにこそ、「実は」世界の本質は隠されているのだ。 

 なんと多くの「実は」が隠れていることか。そしてそれは、「不随」と「本質」を繋ぎ合わせている。交じり合わせている。交じり合わせ、同時に「実は」で交じり合っているものを分離している。
 「実は」はふたつのものが出会い、結びつく「場」なのである。



廃墟の月時計/風の対位法
高柳 誠
書肆山田

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