詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉浦豊久「縁者」ほか

2010-06-09 12:08:43 | 詩(雑誌・同人誌)
吉浦豊久「縁者」ほか(「ネット21」21、2010年05月10日発行)

 吉浦豊久「縁者」は、ことばがゆったり歩く。どちらかというと「よそみ」しながら歩く。

桜冷えの
家人の寝静まった屋根裏に
隠れハシゴを伸ばし 忍んでゆく

 これは書き出しの3行だが、「桜冷えの」がまず「よそみ」である。「桜冷え」であるかどうかは、これから先起きることと関係がない。「家人の寝静まった」も関係かないといえばない。関係がないのだけれど、そういう「背景」があると、そこから「におってくる」ものがある。それを「におわせる」ために「よそみ」がある。
 「よそみ」は「本質」ではないが、「本質」を支える何かになるのだ。そういうことを吉浦は知っている。
 で、つづき。

先日
九条油小路西入ル
東寺弘法市で購(あがな)ったボロ軸のヒモを解く
エロボクロでひさぐ辻君の腰ヒモを解く
腰巻にこぼれる局の 虫喰いが酷すぎる
襟元のホクロと思っていたのが 掻き消え
実は 古生代節足の紙魚(シミ)の仕業だった
いつの頃からか ヤマトシミに代って
セイヨウシミが巾を利かしてきて
あらゆる食物がある時代に
表具糊だけを食べて
人間の歴史よりもはるかに長く棲息しているシミに出会ったというのも
奇怪(きっかい)と言えば 奇怪

梁下の長櫃の 遊女の絹本の軸シモを解く
雲母色の紙魚が隠れていた
絹だから 衣魚と書くべきか

シミは 米や麸や糊のデンプン質を好むとか
落雁を鉱物としているオレもその縁者か

 ずーっと「よそみ」だね。あるいは「よそみ」を装った「まっすぐ」というべきか。きっと大事なのは、その「ふたまた」の感覚なんだろうなあ。におわせ、同時にはずらかす。
 それがどんな絵なのか、まあ、正確には書いてないけれど、こんなふうに書かれると、ワイセツな絵を想像してしまうね。「軸のヒモ」は「腰ヒモ」なんてね。
 そして、その絵を「喰っている」のがシミ。「人間の歴史よりはるかに長く棲息している」と吉浦は書いているけれど、正確には「人間の歴史」ではなく、それを描いたひとの生涯、だろうね。
 その絵に対する興味は、それこそ「人間の歴史」そのものだろうけれど、シミはシミでその「絵」ではなく、実は、その素材--しかも絵の紙ではなく(絹ではなく)、糊にこそ興味があって、糊を食べているつもりが紙(絹)、つまり絵を食べてしまっていて…………。
 あれっ、ここでも、ほら「本質」(本道)と「わきみ」が奇妙に重なり合っているねえ。
 そういうことが、なんだか、おもしろいねえ。
 だからね、

シミは 米や麸や糊のデンプン質を好むとか
落雁を鉱物としているオレもその縁者か

 なんていうのは、「わきみ」と「本質」が混同しているようなものであって、シミはエロ絵が好きだねえ。オレもその縁者なんだなあ、というのが、ほんとうは書かれてしかるべきことばなんだろうけれど、
 そんなふうにストレートじゃおもしろくない、
 ので、わざと「よそみ」ふうに書く、はぐらかして書く。
 それが、この吉浦の詩だ。

 ちょっと、岩佐なをに教えてやりたいような詩である。岩佐よりもしらばっくれている。そこに、不思議な乾いた印象がある。




 岡本由美子「歪む」にも、こころを動かされた。

何時か知ら背負っている
荷が重いのか
心の背骨が歪んでくる
雲が懸かって見通せないから
声を模ることも出来ない

 「心」と「肉体」(骨)の入り乱れ(融合)がおもしろい。そして、それが「声」に影響しているところがおもしろい。岡本は、「人間」を「心」「骨」「声」という具合に書き分けながら、それはどこかでつながって「ひとつ」のものとなっている。
 その感じが、不思議な手触りでつたわってくる。

苛立って歪む
手を差し伸べてくれるのだけれど
頑な私は拒む
歪んでくる
歪んでくる
拒むからまた歪む
背負うのは私だ
強がってまた歪む
歪むから端と端が重ならない
荷の本然から遠ざかる
心が泡立って
歪んでゆく
歪んでゆく

 「歪むから端と端が重ならない」がいいなあ。何の端と端? はっきり言えないから書かない。それは「心」と「背骨」の端かもしれないし、「声」と「背骨」の端かもしれない。そんなものは、もともと違う存在だから重ならない--とは、しかし、岡本に対しては言えない。
 なぜか。
 ほら、岡本は「背骨」を「肉体」のものではなく、「心の背骨」と書いていた。それはどこかでつながっている。「声」ともつながっている。融合している。それにもし、端というものがあるなら、その端と端はつながっていいはずである。重なっていいはずである。

 「流通言語」では書くことのできないものが、ここでは書かれようとしている。


或る男―吉浦豊久詩集 (1984年)
吉浦 豊久
風琳堂

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高柳誠『光うち震える岸へ』(1)

2010-06-09 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠の『光うち震える岸へ』は「旅」の詩集であるらしい。あるらしい、と書くのは、私はまだ複数の章(断片)で構成された詩集の00から10までしか読んでいないからである。全部読んでから感想を書けばいいのかもしれないが、何かが、「一気に読むな」と私に言っている。一気に読んではいけないことばなのである。
 「00」の部分。

旅に付随する浮遊感。日常から断ち切られたところに拡がる領域。それらは、ガラスの水槽を通したかのような、絶えずゆれうごく透明感と距離感をともなって漂っている。現実のただ中を漂っている。いわば、映画の浮遊感。見る側ではなく、自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。現実であることは疑いえないのに、現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱(おり)を剥がされて稀薄になり、それが独特の浮遊感を生み出して、次々とスクリーンの上の領域を移動してゆく原動力となるのだろう。

 旅の浮遊感。「自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。」そのことを書こうとしている。そして、実際に書いているのだが、読みながら不思議な気持ちになる。
 高柳は「旅の浮遊感」ではなく「旅に付随する浮遊感」と書いている。その「付随する」ということばが、この断片を読み終わったあと、奇妙にひっかかるのである。
 「付随する」。つきしたがう。従属する。それは「本質」ではない。ほんとうは「旅」なのである。テーマは「旅」でなければならないのである。それなのに、その「旅」はどこかにおいておかれていて、その「本質」ではないものを読まされている。読んでいる。そういう感じが、私を不安定にさせる。

 言いなおそう。
 「旅」というのは、高柳が書いているように「日常から断ち切られた」世界へゆくことである。そこは「日常」ではない。それはそうなのだが、そんなことは、普通はいちいち言わない。もっと簡単に「旅」を語ることができる。ふつうは、「○○へゆく」という。「旅」には「目的地」がある。その「目的地」がここには書かれていない。「旅」の「目的地」は「旅」の「本質」である。
 「付随する」ということは、そのことを明瞭に語っている。「旅」の「本質」は「目的地」である。「浮遊感」は、それに「付随する」ものである、と明確に語っている。
 明確にそう書いてあるにもかかわらず、ことばは、それを裏切って動いていく。「本質」についてはなにも書かず、「不随する」ものについてのみ書いている。そして、そのことばを読んでいると、その「付随する」ものこそが「旅」の「本質」だと思えてくる。
 どこへゆくか。「目的地」はどこか。それこそが「付随的」なものであって、「旅」の「本質」は、日常(現実)からの「浮遊感」にある。その「浮遊感」--「感じ」がどんなものであるかを明確にする--「感じ」としかいえないもの、あいまいなものを、ことばで辿ること、ことばで旅してゆくこと、それが「本質」である。

 いつのまにか、「不随」と「本質」が入れ代わっている。「不随」が「本質」であり、「本質」は「不随」である。
 あ、ことばが、混乱しそうである。この奇妙な入れ代わりを、ことばが重複しないように語りなおすことはむずかしい。
 「付随する」ものは「付随する」ものでは「ない」。「本質」は「本質」では「ない」。そう言い換えるところで止めておかなければいけないのかもしれない。「付随する」ものは「付随する」ものでは「ない」。したがって、それは「本質」である、と言い換えてしまうから、「付随する」ものが「本質」で「ある」という「矛盾」にいたってしまうのだろう。

現実のただ中を漂っている。いわば、映画の浮遊感。見る側ではなく、自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。

 高柳のことばをゆっくり読み直せば、そこに「現実」と「現実感のなさ」(ない)が、ぴったり寄り添っている。
 「入れ代わらず」に「寄り添う」。
 これが高柳のことばの運動の特徴かもしれない。
 「入れ代わり」のなかには、「一」という概念がある。「主語」(主役)は「一」であるという概念がある。「一体」になり、それを凌駕していく。あるいは、止揚していく。弁証法的にいってしまうといけないのかもしれないけれど……。どういえばいいのだろう。「本質」は「一」である、という概念があると思う。
 ところが、高柳は「一」をもとめていない。「一」ではないことをもとめて動いている。「寄り添う」ことで常に「複数」であろうとしている。その複数であることが、存在の「本質」であるとまで言えるのか(言おうとしているのか)、それはまだわからないのだけれど……。

 あ、また、私のことばがかってに暴走してしまった。高柳が書いていることから離れてしまったかもしれない。
 「寄り添う」。高柳のことばの運動は「入れ代わり」ではなく「寄り添う」。それを象徴しているのが、

現実感が身体の傍らから蒸発していって、

 この部分の「傍らから」である。身体そのものではなく、「傍ら」に意識が動いていく。ことばが動いていく。「本質」ではなく、「付随する」ものにことばが動いたように。そして、そのとき、また不思議なことがおきる。
 「身体」が「主語」ではなく、「傍ら」が「主語」になってしまう。「入れ代わる」ようにして、ことばが動いていく。どちらがどちらに「寄り添っている」のか、あいまいに、わからないまま。
 あいまい、わからない、とはいうものの、こそに書かれていることばは、どれも「正確」に見える。もっといえば、「正確」を通り越して、ちょうどどの強い眼鏡で何かを網膜に焼き付けられたかのような、見えないものを強引に見せられたような、一種の酔いを誘い込むような強さがある。

現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱(おり)を剥がされて希薄になり、それが独特の浮遊感を生み出して、次々とスクリーンの上の領域を移動してゆく原動力となるのだろう。

 「日常の澱」「原動力」。ね、そういものって、「見えない」ものでしょ? その「見えない」ものが、いま、ここに動いている。ことばによって動いている。
 と、書いて、またもとにもどってしまうのだけれど。
 「浮遊感」「付随する」。あ、これもまた、「見えない」ものだった。
 高柳は、その「見えない」ものを描くためにことばを動かしている。「見える」ものがあって、それを「描写」(写生)するのではなく、「見えない」ものがあって、それを「描写」(写生)する。
 どんなふうに?
 「距離感」を克明に描くことで。
 「身体」と「身体の傍ら」を意識する「距離感」、くっついている? はなれている?よくわからない「領域」にことばを動かすことで、その領域でことばがどんなふうに動けるかを確かめるように。




星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田

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(アマゾン・コムの商品がリンクされるのは、いつもとても遅い。特に詩集は遅い。古い作品を紹介しておく。)
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