吉浦豊久「縁者」ほか(「ネット21」21、2010年05月10日発行)
吉浦豊久「縁者」は、ことばがゆったり歩く。どちらかというと「よそみ」しながら歩く。
これは書き出しの3行だが、「桜冷えの」がまず「よそみ」である。「桜冷え」であるかどうかは、これから先起きることと関係がない。「家人の寝静まった」も関係かないといえばない。関係がないのだけれど、そういう「背景」があると、そこから「におってくる」ものがある。それを「におわせる」ために「よそみ」がある。
「よそみ」は「本質」ではないが、「本質」を支える何かになるのだ。そういうことを吉浦は知っている。
で、つづき。
ずーっと「よそみ」だね。あるいは「よそみ」を装った「まっすぐ」というべきか。きっと大事なのは、その「ふたまた」の感覚なんだろうなあ。におわせ、同時にはずらかす。
それがどんな絵なのか、まあ、正確には書いてないけれど、こんなふうに書かれると、ワイセツな絵を想像してしまうね。「軸のヒモ」は「腰ヒモ」なんてね。
そして、その絵を「喰っている」のがシミ。「人間の歴史よりはるかに長く棲息している」と吉浦は書いているけれど、正確には「人間の歴史」ではなく、それを描いたひとの生涯、だろうね。
その絵に対する興味は、それこそ「人間の歴史」そのものだろうけれど、シミはシミでその「絵」ではなく、実は、その素材--しかも絵の紙ではなく(絹ではなく)、糊にこそ興味があって、糊を食べているつもりが紙(絹)、つまり絵を食べてしまっていて…………。
あれっ、ここでも、ほら「本質」(本道)と「わきみ」が奇妙に重なり合っているねえ。
そういうことが、なんだか、おもしろいねえ。
だからね、
なんていうのは、「わきみ」と「本質」が混同しているようなものであって、シミはエロ絵が好きだねえ。オレもその縁者なんだなあ、というのが、ほんとうは書かれてしかるべきことばなんだろうけれど、
そんなふうにストレートじゃおもしろくない、
ので、わざと「よそみ」ふうに書く、はぐらかして書く。
それが、この吉浦の詩だ。
ちょっと、岩佐なをに教えてやりたいような詩である。岩佐よりもしらばっくれている。そこに、不思議な乾いた印象がある。
*
岡本由美子「歪む」にも、こころを動かされた。
「心」と「肉体」(骨)の入り乱れ(融合)がおもしろい。そして、それが「声」に影響しているところがおもしろい。岡本は、「人間」を「心」「骨」「声」という具合に書き分けながら、それはどこかでつながって「ひとつ」のものとなっている。
その感じが、不思議な手触りでつたわってくる。
「歪むから端と端が重ならない」がいいなあ。何の端と端? はっきり言えないから書かない。それは「心」と「背骨」の端かもしれないし、「声」と「背骨」の端かもしれない。そんなものは、もともと違う存在だから重ならない--とは、しかし、岡本に対しては言えない。
なぜか。
ほら、岡本は「背骨」を「肉体」のものではなく、「心の背骨」と書いていた。それはどこかでつながっている。「声」ともつながっている。融合している。それにもし、端というものがあるなら、その端と端はつながっていいはずである。重なっていいはずである。
「流通言語」では書くことのできないものが、ここでは書かれようとしている。
吉浦豊久「縁者」は、ことばがゆったり歩く。どちらかというと「よそみ」しながら歩く。
桜冷えの
家人の寝静まった屋根裏に
隠れハシゴを伸ばし 忍んでゆく
これは書き出しの3行だが、「桜冷えの」がまず「よそみ」である。「桜冷え」であるかどうかは、これから先起きることと関係がない。「家人の寝静まった」も関係かないといえばない。関係がないのだけれど、そういう「背景」があると、そこから「におってくる」ものがある。それを「におわせる」ために「よそみ」がある。
「よそみ」は「本質」ではないが、「本質」を支える何かになるのだ。そういうことを吉浦は知っている。
で、つづき。
先日
九条油小路西入ル
東寺弘法市で購(あがな)ったボロ軸のヒモを解く
エロボクロでひさぐ辻君の腰ヒモを解く
腰巻にこぼれる局の 虫喰いが酷すぎる
襟元のホクロと思っていたのが 掻き消え
実は 古生代節足の紙魚(シミ)の仕業だった
いつの頃からか ヤマトシミに代って
セイヨウシミが巾を利かしてきて
あらゆる食物がある時代に
表具糊だけを食べて
人間の歴史よりもはるかに長く棲息しているシミに出会ったというのも
奇怪(きっかい)と言えば 奇怪
梁下の長櫃の 遊女の絹本の軸シモを解く
雲母色の紙魚が隠れていた
絹だから 衣魚と書くべきか
シミは 米や麸や糊のデンプン質を好むとか
落雁を鉱物としているオレもその縁者か
ずーっと「よそみ」だね。あるいは「よそみ」を装った「まっすぐ」というべきか。きっと大事なのは、その「ふたまた」の感覚なんだろうなあ。におわせ、同時にはずらかす。
それがどんな絵なのか、まあ、正確には書いてないけれど、こんなふうに書かれると、ワイセツな絵を想像してしまうね。「軸のヒモ」は「腰ヒモ」なんてね。
そして、その絵を「喰っている」のがシミ。「人間の歴史よりはるかに長く棲息している」と吉浦は書いているけれど、正確には「人間の歴史」ではなく、それを描いたひとの生涯、だろうね。
その絵に対する興味は、それこそ「人間の歴史」そのものだろうけれど、シミはシミでその「絵」ではなく、実は、その素材--しかも絵の紙ではなく(絹ではなく)、糊にこそ興味があって、糊を食べているつもりが紙(絹)、つまり絵を食べてしまっていて…………。
あれっ、ここでも、ほら「本質」(本道)と「わきみ」が奇妙に重なり合っているねえ。
そういうことが、なんだか、おもしろいねえ。
だからね、
シミは 米や麸や糊のデンプン質を好むとか
落雁を鉱物としているオレもその縁者か
なんていうのは、「わきみ」と「本質」が混同しているようなものであって、シミはエロ絵が好きだねえ。オレもその縁者なんだなあ、というのが、ほんとうは書かれてしかるべきことばなんだろうけれど、
そんなふうにストレートじゃおもしろくない、
ので、わざと「よそみ」ふうに書く、はぐらかして書く。
それが、この吉浦の詩だ。
ちょっと、岩佐なをに教えてやりたいような詩である。岩佐よりもしらばっくれている。そこに、不思議な乾いた印象がある。
*
岡本由美子「歪む」にも、こころを動かされた。
何時か知ら背負っている
荷が重いのか
心の背骨が歪んでくる
雲が懸かって見通せないから
声を模ることも出来ない
「心」と「肉体」(骨)の入り乱れ(融合)がおもしろい。そして、それが「声」に影響しているところがおもしろい。岡本は、「人間」を「心」「骨」「声」という具合に書き分けながら、それはどこかでつながって「ひとつ」のものとなっている。
その感じが、不思議な手触りでつたわってくる。
苛立って歪む
手を差し伸べてくれるのだけれど
頑な私は拒む
歪んでくる
歪んでくる
拒むからまた歪む
背負うのは私だ
強がってまた歪む
歪むから端と端が重ならない
荷の本然から遠ざかる
心が泡立って
歪んでゆく
歪んでゆく
「歪むから端と端が重ならない」がいいなあ。何の端と端? はっきり言えないから書かない。それは「心」と「背骨」の端かもしれないし、「声」と「背骨」の端かもしれない。そんなものは、もともと違う存在だから重ならない--とは、しかし、岡本に対しては言えない。
なぜか。
ほら、岡本は「背骨」を「肉体」のものではなく、「心の背骨」と書いていた。それはどこかでつながっている。「声」ともつながっている。融合している。それにもし、端というものがあるなら、その端と端はつながっていいはずである。重なっていいはずである。
「流通言語」では書くことのできないものが、ここでは書かれようとしている。
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