高柳誠『光うち震える岸へ』(9)(書肆山田、2010年05月30日発行)
この「50」の部分がとても印象的なのは、ひとつには「人間」の「本質」を、私たちは(私は、と言いなおした方がいいのかもしれないが……)、ごくごく一般的に「精神・感情」と考える習慣があるからだろう。
「抒情」というのは気分(感情)の一種である。そういうものは人間が感じるもの。そして感じるということは人間の「本質」なのに、高柳は、ここでは「抒情」は「本質的に」「世界」のものであって、人間を必要としていない。つまり、人間と「無関係」に存在する、と書いている。
うーん。
私は何かを読み間違えている。きっと。
だから、読み直してみる。高柳は何を言っているのか。
高柳は、「抒情」を「感傷」と比較することで見つめなおしている。「50」。
「感傷」は「感情」と「もの」を結びつける。「感傷」は「もの」によって代弁された「感情」である。それに対して「抒情」は「感情」とは結びつかない。「抒情」は「もの」独自がつくりだすもの、「世界」が勝手につくりだすものであり、それを人間が感じている。その「感じ」は人間の「内」(己のうち、と高柳は書いている)にあるのではない。それは、最初から人間の「外」にあるのだ、と言っている。
あ、これは、例の「本質」と「不随」に関係してくることがらだね。ここから、高柳は、「抒情」は人間の「外」にあるから、それは「不随」のようにみえても、ほんとうは「本質」。それに対して人間の「うち」にあるもの、「感情」は、うちにあることによって「本質」に見えるけれども、実は「不随」と言いたくて、こういうことを書きはじめているのだな、と見当(?)がつく。
「感傷」は人間のうちにある感情がものに向かって動いていき、そしてものと結びつくから「本質」に見えて、実は「不随」したもの。
それに対して、「抒情」は人間のうちにある感情が動いてつくりだすものではなく、最初から「外」にある。だから、「本質」。
そういうふうに、高柳は言いたい。
で、最終的には、その「外」にある「抒情」(これは、「ものではない」もの、というくらいの意味だね、きっと)を人間はことばによってつかもうとするのだ……といいたいのだが、これはなかなかむずかしい「飛躍」(?)である。
その「むずかしい」ことを言おうとして、高柳は、とても不思議なことばを書いている。
「感傷」も「抒情」もことばによってあらわされるものだが、その「抒情」がことばになるまえの世界のありよう、人間とは「無関係」の世界のありようを、強引にことばにして、次のように言っている。「抒情」を定義しなおして、次のように言っている。
ややこしいが、これは「抒情」がことばになるまえの「抒情」の世界である。人間を超越した光の舞踏。人間以外の「もの」の、ものそれ自体による「舞踏」。
わからないよねえ。こんなこと、いわれたって。
だから、ちょっと、「前後」のことばを借りてみる。
ここに書かれている「舞踏」とは「波動」「振動」ではないだろうか。
強引に「誤読」(私の大好きな、誤読、ですが……)してみる。
「舞踏」の反対のことば、対極にあることばはなんだろうか。「移動」ではないだろうか。もし、そうであるなら、「舞踏」は「移動」の対極にある「波動・振動」と似通っている。
たしかに、そうなのだ。
「歩行」(歩く)は肉体の「移動」である。けれど「舞踏」は「移動」ではなく、同じ一点(まあ、多少は「場」としての「領域」はあるけれど)での「振動・波動」である。どこへも動かず、同じ場所での、「もの」そのものの震え、振動、波動--それが「舞踏」である。
「歩行(移動)」はAからBへという「場」の変化によってことばにすることができる。ところが「舞踏」はそういう変化では言い表すことはできない。そこにある「波動」としてあらわすことしかできない。
その「場」にあって、その「場」からは動かないけれど、その「場」では動いているもの--これを描写するのはむずかしいねえ。「AからBへ」というようには言えない。で、どうするかといえば(高柳のことばによれば)、同じ場所で動いている「もの」の動きそのものに触発された心の動きとして、ことばにするのだ。
えっ、何が違う?
「移動」は「AからBへ」という「肉体」の動きとして、ことばにできる。
「舞踏」は「肉体の動き」ではなく、「心の動き」として、ことばにできる。
しかも、その「心の動き」は「感傷」と違って、「肉体」うちにある感情が、肉体の外にある「もの」に向かっていく動きではなく、そとにある「もの」とは切り離されたまま(無関係なまま)、動くのである。
ただし、無関係とはいっても、実は関連がある。離れていても、同じように動くということがありうる。
どんなふうに?
「音楽」のように。和音のように。つまり、共振。
「抒情」とは「共振」なのだ。「世界」と「心」が共振するとき、「抒情」がある。「感傷」は、いわば、移動。乗り物に乗って、心がここではなくどこかへ行ってしまう。けれど「抒情」は「心」は「肉体」のなかにあって、世界と共振している。同じ震え。波動。その呼び掛け合い--それが「抒情」。
「心」は「肉体のうち」に存在したまま。だから、それは「感傷」よりも「本質」なのだ。何かがでて行ったあと、それでもそこに残りつづけている「本質」。
--と言ってしまうと、あ、これはまた「本質」と「不随」の問題をややこしくするのだけれど。
まあ、ことばが書き表すことができるのは、そんなふうな、矛盾でしかないのだから、ここはこう書いておくしかない。
で。
という切り返しのしたかは、かなりずるい切り返しであると自覚はしているのだけれど、で。
というしか、私には方法がなくて、そのままつづきを書いてしまうと。
で、ここに「光」が出てくる。これは、とても重要なことである。
高柳は、この「50」では、論理的にことばを辿ろうとすれば、とても面倒なことを書いている。ややこしいことを書いている。書かずにはいられないこと(思想)を書いている。そのややこしい部分は高柳には充分にわかっている。わかりきっている。わかりきっているけれど、高柳にも「流通言語」で「論理」として提出することはできない何かである。わかりきっていて、それでもことばにできないこと--これを私は「思想」と呼んでいるのだけれど、それがここに書かれていて、それをあらわすのに「光」ということばに頼っている。
『光うち震える岸へ』というのが、今回の高柳の詩集のタイトルだけれど、その「光」がここに書かれている。「震え」は「舞踏」という形で書かれている。「岸へ」というのは、「離れた」何かをあらわしているだろう。
「私」から離れは「場」にある「光の震え」。それと、共振するとき、「抒情」が、世界と私をひとつの「和音」にする。
そういう「夢」(あるいは願い)のようなものが、ここに書かれているのだ。
あ、そういう「和音」を高柳は書きたいのだなあ、と私は、ここで強く感じるのだ。
「55」へつながる、いや、つたわっていくものがここにある。
それは、次のようにいいかえることができるかもしれない。高柳のことばではなく、私の「誤読」したことばで書いておくと……。
世界でいちばん美しいのは「抒情」である。「抒情」は波動とてしつたわる。「もの」それぞれの「波動(振動)」と「心」の「波動(振動)」が共振し、「ことば」となって響くとき、世界の隠れた「音楽」があらわれる。世界のすべてが「抒情」としてあらわれる。「抒情」は「世界」と「私」の「共振」である。
抒情は、本質的に世界の側に立つものであって、第一義的には人間を必要としない。
この「50」の部分がとても印象的なのは、ひとつには「人間」の「本質」を、私たちは(私は、と言いなおした方がいいのかもしれないが……)、ごくごく一般的に「精神・感情」と考える習慣があるからだろう。
「抒情」というのは気分(感情)の一種である。そういうものは人間が感じるもの。そして感じるということは人間の「本質」なのに、高柳は、ここでは「抒情」は「本質的に」「世界」のものであって、人間を必要としていない。つまり、人間と「無関係」に存在する、と書いている。
うーん。
私は何かを読み間違えている。きっと。
だから、読み直してみる。高柳は何を言っているのか。
高柳は、「抒情」を「感傷」と比較することで見つめなおしている。「50」。
感傷は、人間の感情や情動にその対応物を求めるのに対して、抒情は、それを求めない。抒情は、誤解されているような、己のうちの感情を抒べることでは、決してない。抒情は、本質的に世界の側に立つものであって、第一義的には人間を必要としない。ものたちの、この世(人間が構成する世界)を超えた秩序の構築にともなう光そのもの、ものたちの自然のあり方そのものによる舞踏なのだ。その後に、そうした、ものの舞踏に触発されたときの心の動きそのものを、ことばによって探る行為がようやくやってくる。
「感傷」は「感情」と「もの」を結びつける。「感傷」は「もの」によって代弁された「感情」である。それに対して「抒情」は「感情」とは結びつかない。「抒情」は「もの」独自がつくりだすもの、「世界」が勝手につくりだすものであり、それを人間が感じている。その「感じ」は人間の「内」(己のうち、と高柳は書いている)にあるのではない。それは、最初から人間の「外」にあるのだ、と言っている。
あ、これは、例の「本質」と「不随」に関係してくることがらだね。ここから、高柳は、「抒情」は人間の「外」にあるから、それは「不随」のようにみえても、ほんとうは「本質」。それに対して人間の「うち」にあるもの、「感情」は、うちにあることによって「本質」に見えるけれども、実は「不随」と言いたくて、こういうことを書きはじめているのだな、と見当(?)がつく。
「感傷」は人間のうちにある感情がものに向かって動いていき、そしてものと結びつくから「本質」に見えて、実は「不随」したもの。
それに対して、「抒情」は人間のうちにある感情が動いてつくりだすものではなく、最初から「外」にある。だから、「本質」。
そういうふうに、高柳は言いたい。
で、最終的には、その「外」にある「抒情」(これは、「ものではない」もの、というくらいの意味だね、きっと)を人間はことばによってつかもうとするのだ……といいたいのだが、これはなかなかむずかしい「飛躍」(?)である。
その「むずかしい」ことを言おうとして、高柳は、とても不思議なことばを書いている。
「感傷」も「抒情」もことばによってあらわされるものだが、その「抒情」がことばになるまえの世界のありよう、人間とは「無関係」の世界のありようを、強引にことばにして、次のように言っている。「抒情」を定義しなおして、次のように言っている。
ものたちの、この世(人間が構成する世界)を超えた秩序の構築にともなう光そのもの、ものたちの自然のあり方そのものによる舞踏なのだ。
ややこしいが、これは「抒情」がことばになるまえの「抒情」の世界である。人間を超越した光の舞踏。人間以外の「もの」の、ものそれ自体による「舞踏」。
わからないよねえ。こんなこと、いわれたって。
だから、ちょっと、「前後」のことばを借りてみる。
ここに書かれている「舞踏」とは「波動」「振動」ではないだろうか。
強引に「誤読」(私の大好きな、誤読、ですが……)してみる。
「舞踏」の反対のことば、対極にあることばはなんだろうか。「移動」ではないだろうか。もし、そうであるなら、「舞踏」は「移動」の対極にある「波動・振動」と似通っている。
たしかに、そうなのだ。
「歩行」(歩く)は肉体の「移動」である。けれど「舞踏」は「移動」ではなく、同じ一点(まあ、多少は「場」としての「領域」はあるけれど)での「振動・波動」である。どこへも動かず、同じ場所での、「もの」そのものの震え、振動、波動--それが「舞踏」である。
「歩行(移動)」はAからBへという「場」の変化によってことばにすることができる。ところが「舞踏」はそういう変化では言い表すことはできない。そこにある「波動」としてあらわすことしかできない。
その「場」にあって、その「場」からは動かないけれど、その「場」では動いているもの--これを描写するのはむずかしいねえ。「AからBへ」というようには言えない。で、どうするかといえば(高柳のことばによれば)、同じ場所で動いている「もの」の動きそのものに触発された心の動きとして、ことばにするのだ。
えっ、何が違う?
「移動」は「AからBへ」という「肉体」の動きとして、ことばにできる。
「舞踏」は「肉体の動き」ではなく、「心の動き」として、ことばにできる。
しかも、その「心の動き」は「感傷」と違って、「肉体」うちにある感情が、肉体の外にある「もの」に向かっていく動きではなく、そとにある「もの」とは切り離されたまま(無関係なまま)、動くのである。
ただし、無関係とはいっても、実は関連がある。離れていても、同じように動くということがありうる。
どんなふうに?
「音楽」のように。和音のように。つまり、共振。
「抒情」とは「共振」なのだ。「世界」と「心」が共振するとき、「抒情」がある。「感傷」は、いわば、移動。乗り物に乗って、心がここではなくどこかへ行ってしまう。けれど「抒情」は「心」は「肉体」のなかにあって、世界と共振している。同じ震え。波動。その呼び掛け合い--それが「抒情」。
「心」は「肉体のうち」に存在したまま。だから、それは「感傷」よりも「本質」なのだ。何かがでて行ったあと、それでもそこに残りつづけている「本質」。
--と言ってしまうと、あ、これはまた「本質」と「不随」の問題をややこしくするのだけれど。
まあ、ことばが書き表すことができるのは、そんなふうな、矛盾でしかないのだから、ここはこう書いておくしかない。
で。
という切り返しのしたかは、かなりずるい切り返しであると自覚はしているのだけれど、で。
というしか、私には方法がなくて、そのままつづきを書いてしまうと。
で、ここに「光」が出てくる。これは、とても重要なことである。
高柳は、この「50」では、論理的にことばを辿ろうとすれば、とても面倒なことを書いている。ややこしいことを書いている。書かずにはいられないこと(思想)を書いている。そのややこしい部分は高柳には充分にわかっている。わかりきっている。わかりきっているけれど、高柳にも「流通言語」で「論理」として提出することはできない何かである。わかりきっていて、それでもことばにできないこと--これを私は「思想」と呼んでいるのだけれど、それがここに書かれていて、それをあらわすのに「光」ということばに頼っている。
『光うち震える岸へ』というのが、今回の高柳の詩集のタイトルだけれど、その「光」がここに書かれている。「震え」は「舞踏」という形で書かれている。「岸へ」というのは、「離れた」何かをあらわしているだろう。
「私」から離れは「場」にある「光の震え」。それと、共振するとき、「抒情」が、世界と私をひとつの「和音」にする。
そういう「夢」(あるいは願い)のようなものが、ここに書かれているのだ。
あ、そういう「和音」を高柳は書きたいのだなあ、と私は、ここで強く感じるのだ。
「55」へつながる、いや、つたわっていくものがここにある。
光は波動として伝わる。音もまた、波動として伝わる。この世界を根底から支えているのは、実は波動なのかもしれない。波動こそ、世界の隠された本質、世界のすべてなのだ。
それは、次のようにいいかえることができるかもしれない。高柳のことばではなく、私の「誤読」したことばで書いておくと……。
世界でいちばん美しいのは「抒情」である。「抒情」は波動とてしつたわる。「もの」それぞれの「波動(振動)」と「心」の「波動(振動)」が共振し、「ことば」となって響くとき、世界の隠れた「音楽」があらわれる。世界のすべてが「抒情」としてあらわれる。「抒情」は「世界」と「私」の「共振」である。
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