高柳誠『光うち震える岸へ』(2)(書肆山田、2010年05月30日発行)
高柳誠の文体は非常に堅牢である。あるいは緊密ということばの方が正確だろうか。乱れがない。そのために安心して読むことができる。知らないうちに、いま、ここから、ことばの世界へと引きこまれてしまう。
あるいは、そういう面倒なことばは避けて、文体が完成している、と言ってしまえばいいのかもしれない。
文体の完成、完成した文体--その定義はいろいろあるかもしれないが、私が思い描くのは、「私」と「対象」の距離である。「私」と「対象」の「距離」が一定であるとき、そこに「完成」を感じる。自分自身の確固とした基準をもって、その「ものさし」で対象を定義しなおす。そのとき、文体というものが浮かび上がってくる。
いま、わたしは、「距離」と書いたが、この「距離」はまた高柳のこの詩集の重要なテーマでもある。
それは、「絶えずゆれうごく透明感と距離感」ということばのなかにも出てくる。「距離」--隔たりを、「私」との隔たりを、高柳は何度もくりかえし描いている。
そのなかで、いちばん不思議なのは、次の部分である。
見る側ではなく、自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。
「見る側ではなく」と明確に書かれているが、この「浮遊感」は「見る側」を省略しては成り立たない感覚だと思う。高柳は、「見ている」のである。「映画の中の人物として登場」している自分を見ている。高柳自身は、いま、ここにいる。そして映画を見ているのに、その映画を未定いるはずの高柳がスクリーンにいる。
単に映画のなかに登場するだけでは、高柳の「浮遊感」(距離感)は生まれてこない。「浮遊」(距離)は、いま、ここにいる「私」と、いま、ここにいない「私」の「距離」なのである。いま、ここに私がいるのに、いま、ここにいない私を想定することは矛盾だが、その緊密にからみあった矛盾が、--その矛盾を浮かび上がらせる「文体」が詩なのである。
「対象」が詩ではない。「文体」が詩である。
あたりまえのことだが、このことは、やはり明確に書いておかなければならない。「文体」だけが詩である。何をではなく、「どうやって」書くか、その方法だけが詩である。
高柳は、見えないもの、「浮遊感」を見るために(見えるようにするために)、「距離」にこだわる。「私の身体」と「身体の傍ら」にあるものの「距離」にこだわる。
「身体の傍ら」というのは不思議なことばである。特に、
現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱を剥がされて希薄になり、それが独特の浮遊感を生み出して、次々とスクリーンの上の領域を移動してゆく原動力となるのだろう。
この「身体の傍ら」は、とても不思議である。
ここには「映画」の「見る」と「登場する」との関係が繰り替えされている。
「私の身体」というものが一方にあり、高柳は、あくまでそこから「距離」を見ている。その動かすことのできない「私」が一方に明確に存在し、そこから「傍ら」という「私」から離れたものを見ている。
そこには一種の「分離」がある。
「私の身体の傍ら」というものを「私」とは完全に独立したものと考えれば、それは「分離」ではないが、高柳は、「身体の傍ら」を「私」とは独立したものとは考えていない。「一体」のものとも考えていない。奇妙な形で、ぴったりと寄り添っているものと考えている。「接点」があるものと考えている。
それは、
現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱(おり)を剥がされて希薄になり、
の「その分」ということばのなかに記されている。「その」のということばのなかに書かれている。蒸発していったもの--それを、「その」ということばで私自身と関係あるものとして引き寄せる。「その」といえるのは、それを「私の身体」がはっきりと自覚しているからである。
それは「身体の傍らから」蒸発していったと書かれているが、それは「身体から」とほとんど同じ意味である。「自分自身の身体から」「現実感」が蒸発していった。それは、
自分の存在が日常の澱を剥がされて稀薄になり、
と同じことなのだ。自分の存在の日常の澱--それが身体の傍らにある「現実感」である。現実感とは「日常の澱」であり、その「日常の澱」は「自分の存在」とともにあるものである。
高柳がそれを「身体」にあるというよりも、「身体の傍ら」にあるものと感じているのは、高柳にとって「身体」とはあくまで「身体の内部」であるということかもしれない。別なことばでいえば、「肉体」というより、「精神」--それを高柳は「自分自身」と考えている。感じている。「私」の「本質」は「精神」である……。
ところが、そんなふうに簡単に割り切ることはできない。
きのう書いたことだが、この詩集(あるいは、この冒頭の詩だけかもしれないが、それはこれから先を読んでいかないとわからないが……)では、「本質」と「不随」が入れ代わる。「不随」が「本質」であり、「本質」は「不随」である。
高柳の「本質」は「精神」である、と私はいったん定義したが、この詩集のなかでは、その本質である精神が「不随」にかわり、「不随」である何かが高柳そのもの、「本質」になる--そういう逆転が起きる。
ことばというもの、あるいはことばを書くということと言い換えればいいのだろうか。ことばを書くということは、そのことばが、そのことばではなくなってしまうということである。そのことばが、いまあることばから違ってしまう、ということである。
書きながらことばが変質していく。書いてしまうと、ことばが違ったものとして、その向こう側へ行ってしまう。そうして、私が私ではなくなってしまう、ということが起きる。
そういうことが常に起きる。そして、そういう現象を、ていねいに再現したものが「文学」と呼ばれるもの、詩と呼ばれるものである。
「私」はいつも、いま、ここに存在する。しかし、ことばを動かしていくと、「私」は「私」ではなくなり、いま、ここも、いま、ここではなくなる。それはしかし、いつ、どこなのかと問われれば、いま、こことしかいいようがないのだが……。
つまりそれは、いま、ここを測る(定義づける)はずの「物差し」が変わってしまったということである。
と、書いてしまうと、またまた、同義反復の矛盾になるが……。
自分自身の正確な「物差し」にしたがい、「現実」と呼ばれているものをはかりなおす--そうすると、「現実」がいままでとは違ったものになって見えてくる。そして、そんなふうな「別な現実」を見ることができる人間に、ひとは生まれ変わる。そういうことをことばの運動として体験することが「文学」である。
というような、面倒なことを、高柳は、「論理(批評)」としてではなく、「旅行記」、しかも「浮遊感」の「旅行記」として書こうとしている。
あ、やっと、「出発点」にたどりついたかなあ……。と、ここまで書いてきて、思った。まだ「00」の部分にしか触れていないのに……。