詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

有働薫『幻影の足』

2010-06-04 00:00:00 | 詩集
有働薫『幻影の足』(思潮社、2010年05月25日発行)

 詩とは、特別なことばである。このことばが「好き」という思いがこもったことばの子とてある。有働薫『幻影の足』を読みながら、そう思った。「セレナード」。

雲は薄くまだあかるい
七夕の夜
何年ぶりか
小さな笹飾りを立てた

夜の九時
西の空の雲の切れ間に
溶け出しそうな四日月
闇の中にしばらくたたずんでいると
頭の真上に
ただひとつ

エストレリータ
みずいろの小さな星

 「エストレリータ」。イタリア語かな? よくわからないが、ラテン系のことばでは「リータ(イータ)」は「小さい(かわいい)」をあらわす接尾辞だ。「エストレリータ」自体は「小さな星」。
 でも、そう訳するだけでは、満足できない。
 それで「みずいろの」ということばを有働はつけくわえる。そこには過剰な「思い」がある。ことばを逸脱していく「思い」がある。
 「水色」自体には、「かわいい」(小さい)という「意味」はないのだが、「小さな星」と結びつくとき、「みずいろ」と書かれるとき、そこに「かわいい」が入ってくる。まだ「水色」というかたまった(?)色、明確な(?)色になる前の、「幼い(小さい)」「かわいい」が入ってくる。
 --というより、やはり、「水色」に有働は「かわいい」を過剰に注ぎ込んでいるというべきなのか。
 ここに詩がある。
 有働は「エストレリータ」ということばが「好き」。そのことばの中にある「イータ」が好き。同じように、「みずいろ」もとても好きなことばなのだ。
 このことばを書くとき、有働に、星がそのとき「みずいろ」に見えたのではなく、有働は、その星を「みずいろ」に見たかったのだ。

 そして、その「みずいろ」が有働の思いのこもったことばなのだと気がつくと、ほかのことばも一斉に「思い」をもちはじめる。
 「雲は薄くまだあかるい」も単なる夕方の空の描写ではない。有働が、ことばで、いま、ここにある雲を「薄く」「まだあかるい」にしているのだ。
 「闇の中にしばらくたたずんでいると」は、ほんとうは、有働自身が選んだ「ことば」のなかに佇んでいると、ということである。世界を有働の好きなことばで切り取って来ると、その最後のことばとして、頭の真上に、宇宙のてっぺんに星がやってくる。詩がやってくる。

エストレリータ
みずいろの小さな星

 あ、美しいなあ、と思う。



 「月の魚」という詩がある。この詩は、とてもとてもとても美しい。「月の沙漠」(加藤まさを)の1行が添えられているが、私が思い出すのは佐々木すぐるの曲の方である。透明で、どこまでもどこまでも響いていく。
 全行。

月の沙漠の砂の流れを
月の裏側の真闇にすむ魚が
泳いできて
わたしの垂らす釣り糸の
とがった針を
可愛い口で
飲み込んで

魚は痛さに
痙攣し
わたしの糸が痙攣する
わたしの魂が痙攣し

地球から来た
水の一滴
未曽有の愛に
失神する

月のくらやみの奥に眠っていた
目のない魚が
目を覚まし

針の刺さった可愛い喉で
つめたく重い
水を
飲んで死ぬ

残されて
青い地球の出を見上げている

 「ことば」を書くということは、ことばを書いた「もの」(ことばになった「対象」)になるということである。
 月の魚を書くとき、有働は月の魚になる。「可愛い口」と書くとき、有働の口もまた「かわい」くて小さなものになる。ことばは「釣り糸」のように対象と有働の魂を結びつける。一方が痙攣するなら、他方も痙攣する。つないでいる「糸」さえも痙攣する。
 痙攣する--つながれて、共振する、その震え。
 それが詩である。

 この詩の美しさは、魚が死んでしまうところにもある。死ぬことによって、いつまでも魂のなかで生きるのだ。死ななければ、魂のなかで生き続けることはできない。
 きっと詩は(ことばは)、ものを「殺し」、そしてそれを「魂」のなかで生かしつづけるためにある。「魂」のなかに取り込まなければならないもの、魂のなかでよみがえり、いつまでも魂のなかでいきつづけるものだからこそ、有働は、自分の好きなことばを選ぶ。自分の好きになれることばだけを、大切に選び、一篇の詩を書くのだ。






幻影の足
有働 薫
思潮社

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