詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督「ニュー・シネマ・パラダイス」(★★★★)

2010-06-16 10:20:01 | 午前十時の映画祭

監督 ジュゼッペ・トルナトーレ 出演 フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、サルヴァトーレ・カシオ、マリオ・レオナルディ、アニェーゼ・ナーノ

 
 ラストシーンのキスのラッシュが私は大好きだ。このシーンを見るためなら何度でもこの映画を見たい。
 キスシーンは、映画技師が牧師の検閲によってカットされたものを繋ぎ合わせたものだが、ここに映画への愛がこめられている。キスシーン、あるいは「アイ・ラブ・ユー」とつげるシーン(記憶のなかでは、「アイ・ラブ・ユー」という台詞が残っているのだが、今回見た映画では台詞はなかった。唇の動きでそれとわかるシーンがあるけれど……)は映画のクライマックスである。それを「わいせつ」という観念でカットしてしまう検閲の暴力--それに対しての抗議。まあ、映画の主人公はそういう面倒くさいことはいわずに、ただカットされたシーン、日の目を見ないのは残念という思いから1本につなぎあわせたのだろけれど。
 このシーンを見ながら、主人公は、映画技師の愛、人間そのものへの愛を知る。それは幼い自分に向けられた愛でもある。人が人を好きになる。そのとき人間はこんなに美しい。その美しい人間を映画技師はだれよりもたくさん知っている。いいなあ。性別も、年齢も超越して、ただ愛だけが輝く、その瞬間。
 いいなあ。
 この美しいシーンに匹敵するのは、主人公が青年時代に盗み撮り(?)する初恋の相手、エレーナの映像だ。8ミリフィルムのなかで振り向くエレーナ。その、モノクロなのに、モノクロを超越して、金髪、青い目という色も超越して、ただまぶしく輝く肌、視線。それが美しいのは、エレーナが美しいからではなく、青年が真剣に、純粋にエレーナを愛していたからだね。
 キスシーンのラッシュを見ながら、トトが思い出すのは、きっと、そのときの愛なのだ。そんな瞬間がトトにもあったのだ。
 あとは、付け足し。単なるストーリー。映画でなくても語れるものだ。
 強いて、もうひとつ好きなシーンをあげれば、フィリップ・ノワレが若いトトに最後に語りかけるシーンかなあ。「おまえとは、もう話したくない。私はおまえの噂話を聞きたい。」あ、これは、すごい。噂話は、相手が「有名」にならないと聞こえてこない。ひとの伝聞のなかで生きるくらいの人間になれ、と若いトトを励ましている。フィリップ・ノワレはもちろんトトに会いたい、会いたいけれど、それ以上にトトに、「いま」を越えて生きてもらいたいと願っている。トトの幸福を願っている。
 涙が出ますねえ。ひとの幸福を祈る。それより美しい愛があるとは思えない。愛しているからこそ、さらに幸福を祈る。そして、その祈りを、フィリップ・ノワレは生きる。
 最後に形見として「愛する瞬間、人間は輝く」と「キスシーン」を残す。美しいですねえ。 
                         (午前十時の映画祭、19本目)


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高柳誠『光うち震える岸へ』(8)

2010-06-16 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(7)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠の詩について、ことばについて、私はどこまで書いただろうか。どこまで書くべきだろうか。よくわからない。
 たとえば、私はきのう

 ことばの運動。運動することば。それが「人間の本質」であり、「詩」である。

 と書いたが、「運動」とは何か。どんな動きか。「運動」は便利なことばであって、「運動」だけでは何かを書いているようであって、何も書いていない。

肉体を、生まれた土地、生活する土地とは別の場所に置いてみること。そして、乗り物によってたえず移動させること。旅の本質は、そこにしかない。乗り物にゆられ続けるその振動によって、肉体と意識との癒着に少しずつ亀裂が入り、やがて、リンパ液のようなものが滲み出てくる。移動と振動のためにジクジク滲み出たリンパ液は、新たな関係を繋ぎとめる直前に、たえずそれを破壊してしまう。せっかく張ったかさぶたを、治りかけについ剥がしてしまうように。すると、その傷口に、旅の情景が見知らぬ己の過去のようにヒリヒリ染みこんでくるのだ。

 この「40」の部分には「移動」という「運動」が出てくる。そして、「旅」というものが土地から土地への「移動」であるこめに、目は自然に「移動」に向かうが、それでいいのか。
 もうひとつ、そこには「運動」がある。「振動」である。
 「移動」と「振動」。それは「本質」と「不随」の関係でいえば、どちらが「本質」であり、どちらが「不随」なのか。
 「41」には「川」が出てくる。そして、そこには次の表現がある。

都市の中心を貫いて流れてゆくこの川のように、私の川は流れているだろうか。

 「中心」ということばは「本質」に通じる。「中心」にあるものが「本質」、傍らにあるもの、あるいは表面にあるものは「不随」--「流通言語」の定義では、そう考えることができるかもしれない。
 しかし。
 実は、私は、この「41」でつまずいてしまった。何か、違う。

都市は必ず川を持っている。川こそが都市を生み出すための潜在的な原動力なのだ。川は流れる。人も物も流れる。そして、人やものが流れ着く場所にやがて市ができ、町ができる。都市は、己の内部にその原型として、川の流れをふくみもっているのだ。

 あ、これでは「流通言語」の定義による「都市」の生成の物語になってしまう。高柳の書いている「運動」は、そういう直線的(川は曲線的、というかもしれないが)だったろうか。AからBへと動いていくような「運動」に視点が向けられていただろうか。
 この詩集の最初に書かれていた印象的なことばは「浮遊感」であった。「旅」を描くのに、「浮遊感」から高柳は書きはじめていた。飛行機に乗って「移動」するのだけれど、そこで問題にされているのは「移動」そのものではなく、「移動」にともなうもの、「移動」に付随する「浮遊感」であった。
 そして、「本質」と「不随」は、高柳のことばのなかでは、一般に考えられているのとは逆に動くはずであった。

 「移動」は「本質」にみえて、実は「不随」。「不随」である「振動」こそが「本質」である--と、高柳のこれまでのことばなら動いていくはずである。その思いが、「41」を読んだ瞬間、どこからともなく甦ってきて、あ、「41」は何か違う。何かおかしい、とつまずいてしまったのだ。
 駆け足でページをめくった。(あ、私は、誰の詩の感想を書くときでも「ライブ」になってしまう。読む時間、書く時間が、目の都合でかぎられているので、その場その場で「結論」を設定せずに書くので、どうしてもそうならざるを得ないのだが……。)
 で、駆け足で読み進むと、「55」に「振動」に似たことばが出てきて、そこで私は立ち止まった。高柳のことばについて、考え直してみた。(読むのをやめて、書きはじめた、ということなんだけれど--おおげさだね。考え直した、というのは。)

光は波動として伝わる。音もまた、波動として伝わる。この世界を根底から支えているのは、実は波動かもしれない。波動こそ、世界の隠された本質、世界のすべてなのだ。

 光の「移動」、音の「移動」ではなく、その「移動」のエネルギーとしての(?--科学を知らないので、いいかげんなことを書いておく)「波動」。「波」というのは、同じ場所にあっての、「揺れ」だね。紐の両端をA、B、中央をCとするとき、その紐をゆらし「波」をつくる。そのとき、CはCの位置のまま、「波」を描く。「波」はAからBへ「移動」するが、Cの位置は同じ。揺れている。振動している。それが「波動」(と、私は思う)。
 「41」の「川」の描写には、「移動」は描かれていたが「振動」(波動)が描かれていなかった。それが、私に奇妙な感じをいだかせたのだ。
 でも、ここでは高柳は再び「波動(振動)」について書いている。そして、それを「本質」と呼んでいる。
 ちょっと安心する。
 あ、これが高柳のことばの世界なのだ、となつかしい世界にもどった感じがする。

たとえば、建物や橋やグラスが固有の振動数をもつことから明らかなように、一見波動と無関係に見える堅固な構造物も、己の波動性からは逃れられない。だから、ゆれうごくもの、振動するものを通して世界を見なければならない。いや、自らがゆれうごく主体、波動そのものとなってこそ、世界の本質は見えてくるにちがいない。

 「旅」--自分のくらしている「場」を離れ、別の「場」へ「移動」する。それは「移動」が目的ではない。「移動」することで、私そのものの「振動」を明確にする。自分がどのような「振動」で揺れているかを自覚するためなのだ。「波動」--「波」になるために、くらしの「場」を離れる。
 だから、もし、くらしの「場」を離れ、どれだけ「移動」しても、そこで自分自身が新しい「波動」になる、気づかなかった「波動」を自分自身の「肉体」の内部から引っ張りださないことには、それは「旅」をしたことにはならない。

 そうすると。
 というか、高柳がここに書いていることばが詩であるなら、それは高柳の新しい「波動」によってとらえなおされたものである。
 そして、そのことばがわかりにくいとしたら、それは「流通言語」とは別の「波動」によって動いているからである。
 詩はむずかしい。詩はわからない。--それは、そのことばが、「流通言語」とは違った「波動(振動)」で揺れているからである。

 脱線した。

 この「55」には、「波動」ということばのほかに、とても気になることばがある。「無関係」である。

一見波動と無関係に見える堅固な構造物も、己の波動性からは逃れられない。

 ここに出てくる「無関係」。「無関係」とは「本質」とは関係ない、という意味だろう。「本質」から離れている--遊離している、浮遊している……。私のことばは、そんなふうに勝手に動いていくが、「無関係」ということばには、何か、「波動」と同じように、高柳のことばの全体をつかむために必要なことがらが潜んでいる。
 で、大急ぎで引き返してみると。「50」に、とても興味深いことばがある。

抒情は、本質的に世界の側に立つものであって、第一義的には人間を必要としない。

 この「必要としない」が「無関係」に似ている。

抒情は、本質的に世界の側に立つものであって、第一義的には人間「とは無関係である」。

 と書き直しても、文章の「意味」はかわらない。
 読みとばしてきた部分に、踏みとどまって読まなければならないものがある。あすは、それを読み返そう。(つづけて書きたいが、きょうは、ここまで。あ、ほんとうに「ライブ」になってきたなあ。)




触感の解析学
高柳 誠
書肆山田

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