監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャクリーン・ビセット、ジャン・ピエール・オーモン、ヴァレンティナ・コルテーゼ、ジャン・シャンピオン
いちばん好きなシーンはどれ、と聞かれたら、私は猫のシーンと答える。(私は、猫は大嫌いなのだけれど。)
ジャクリーン・ビセットと義父との情事の翌朝。朝食の食べ残し(?)が残るトレーををジャクリーン・ビセットが部屋の外に出す。(そのとき、裸足の足が映るのだけれど--あ、トリュフォーの「足フェチ」が如実に出ていていいなあ、なんてうっとりしながらみつめていました。)猫が、皿の上のミルクをなめる。--そのシーン。
最初に用意していた猫がうまく動いてくれない。で、何度もNG。急遽借りてきた猫で撮影をやりなおす。そして、うまくいく--と書いてしまうと単純なのだけれど、私が好きなのは、そのなかの一瞬、ピントがぼけるシーン。
「あ、ピントがぼけた」
という声も入っている。
あ、映画だねえ。フランス映画だねえ。
フランス映画といってもいろいろあるだろうけれど、私が思い浮かべるのはルノワール。ルノワールの映画を見ていて感じるのは、映画を計算ずくで撮っていないという感じがすること。余裕がある。俳優が勝手に演じているというと言い過ぎだろうけれど、役者が「役」を監督の意図とは無関係に(?)演じているような部分がある。ストーリーを逸脱しているようなものを感じる。「役」ではなく、役者そのものを見ている気分になるときがある。そして、その瞬間に、なんともいえず幸福な気分になる。「役」ではなく、スターを見た、スターに会ったという感じ……。
それと「猫」となんの関係がある、といわれると困るけれど。
まあ、ミルクをなめる猫を見ているのではなく、猫そのものを見ている、猫を見た、という感じがするのと、それにもまして、映画は、計画どおりのシーンを撮るのではなく、何かしらのハプニングを取り込んでいく、予想外のものを取り込んで行きながら豊かになる、という感じがとてもいいのだ。
アメリカ映画(ハリウッド映画)には、こういう感じはないね。
フランス映画には、役者が勝手なことをやって、変になっちゃった、このシーンうまく撮れなかったなあ、なんて悔しい思いが滲んでいるようなシーンがあって、それが人間臭くていい。猫のシーンもピントがあったままだったら、「ホンモノ」みたいでおもしろくない。あ、ピントが甘くなっちゃった。でも、そういうピンボケがあるから映画なんだなあと感じられる--といえばいいのか。
で、その猫からちょっと映画っぽいことをちょっとつけくわえると……。
この映画、「映画を撮っている」ことを映画にしている。役者はすべて、役者でありながら、役者を演じている。(トリュフォーは監督自身を演じている。)そして、そのなかに、ルノワールがそうしたかどうかはわからないけれど、「役者」そのものを取り込んでしまうシーンがある。
ジャクリーン・ビセットは義父と恋愛してしまう女を演じているのだが、その彼女自身が「現実」で(といっても、これも映画だけれど)不倫(?)をする。落ち込んでいる役者を励ますために一夜のセックスをしてしまう。そして「現実」の夫にそれが発覚し、トラブルが起きる。そのとき、ジャクリーン・ビセットは「現実」の声をトリュフォー監督に訴える。その「現実」の「声」そのものを、監督は「映画」につかってしまう。台詞を書き換えてしまう。
「映画」に「現実」を取り込み、女優そのものの「声」を「役」にしてしまう。
いいなあ、この楽しさ。このおもしろさ。この無責任(?)さ。
映画というのは、結局、ストーリーなんてどうでもいい。観客は「役者」そのものを見に来る。「役」をはみだして、スクリーンにあらわれてくる俳優そのものの「現実」を見に来る。「俳優そのものの現実」とは、つまり、「人間そのもの」でもあるね。「人間」がスクリーンにくっきりと定着したとき、その映画はおもしろくなる。「役」というのは俳優をスクリーンに引っ張りだすための「手段」にすぎない。
タイトルは「アメリカの夜」だけれど、内容は、「フランスの昼(現実)」という感じだねえ。大好きです。この映画。
(午前十時の映画祭、19本目)
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