詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フランソワ・トリュフォー監督「映画に愛をこめて アメリカの夜」(★★★★★)

2010-06-21 22:21:03 | 午前十時の映画祭

監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャクリーン・ビセット、ジャン・ピエール・オーモン、ヴァレンティナ・コルテーゼ、ジャン・シャンピオン

 いちばん好きなシーンはどれ、と聞かれたら、私は猫のシーンと答える。(私は、猫は大嫌いなのだけれど。)
 ジャクリーン・ビセットと義父との情事の翌朝。朝食の食べ残し(?)が残るトレーををジャクリーン・ビセットが部屋の外に出す。(そのとき、裸足の足が映るのだけれど--あ、トリュフォーの「足フェチ」が如実に出ていていいなあ、なんてうっとりしながらみつめていました。)猫が、皿の上のミルクをなめる。--そのシーン。
 最初に用意していた猫がうまく動いてくれない。で、何度もNG。急遽借りてきた猫で撮影をやりなおす。そして、うまくいく--と書いてしまうと単純なのだけれど、私が好きなのは、そのなかの一瞬、ピントがぼけるシーン。
 「あ、ピントがぼけた」
 という声も入っている。
 あ、映画だねえ。フランス映画だねえ。
 
 フランス映画といってもいろいろあるだろうけれど、私が思い浮かべるのはルノワール。ルノワールの映画を見ていて感じるのは、映画を計算ずくで撮っていないという感じがすること。余裕がある。俳優が勝手に演じているというと言い過ぎだろうけれど、役者が「役」を監督の意図とは無関係に(?)演じているような部分がある。ストーリーを逸脱しているようなものを感じる。「役」ではなく、役者そのものを見ている気分になるときがある。そして、その瞬間に、なんともいえず幸福な気分になる。「役」ではなく、スターを見た、スターに会ったという感じ……。
 それと「猫」となんの関係がある、といわれると困るけれど。
 まあ、ミルクをなめる猫を見ているのではなく、猫そのものを見ている、猫を見た、という感じがするのと、それにもまして、映画は、計画どおりのシーンを撮るのではなく、何かしらのハプニングを取り込んでいく、予想外のものを取り込んで行きながら豊かになる、という感じがとてもいいのだ。
 アメリカ映画(ハリウッド映画)には、こういう感じはないね。
 フランス映画には、役者が勝手なことをやって、変になっちゃった、このシーンうまく撮れなかったなあ、なんて悔しい思いが滲んでいるようなシーンがあって、それが人間臭くていい。猫のシーンもピントがあったままだったら、「ホンモノ」みたいでおもしろくない。あ、ピントが甘くなっちゃった。でも、そういうピンボケがあるから映画なんだなあと感じられる--といえばいいのか。
 
 で、その猫からちょっと映画っぽいことをちょっとつけくわえると……。

 この映画、「映画を撮っている」ことを映画にしている。役者はすべて、役者でありながら、役者を演じている。(トリュフォーは監督自身を演じている。)そして、そのなかに、ルノワールがそうしたかどうかはわからないけれど、「役者」そのものを取り込んでしまうシーンがある。
 ジャクリーン・ビセットは義父と恋愛してしまう女を演じているのだが、その彼女自身が「現実」で(といっても、これも映画だけれど)不倫(?)をする。落ち込んでいる役者を励ますために一夜のセックスをしてしまう。そして「現実」の夫にそれが発覚し、トラブルが起きる。そのとき、ジャクリーン・ビセットは「現実」の声をトリュフォー監督に訴える。その「現実」の「声」そのものを、監督は「映画」につかってしまう。台詞を書き換えてしまう。
 「映画」に「現実」を取り込み、女優そのものの「声」を「役」にしてしまう。
 いいなあ、この楽しさ。このおもしろさ。この無責任(?)さ。
 映画というのは、結局、ストーリーなんてどうでもいい。観客は「役者」そのものを見に来る。「役」をはみだして、スクリーンにあらわれてくる俳優そのものの「現実」を見に来る。「俳優そのものの現実」とは、つまり、「人間そのもの」でもあるね。「人間」がスクリーンにくっきりと定着したとき、その映画はおもしろくなる。「役」というのは俳優をスクリーンに引っ張りだすための「手段」にすぎない。
 
 タイトルは「アメリカの夜」だけれど、内容は、「フランスの昼(現実)」という感じだねえ。大好きです。この映画。
                          (午前十時の映画祭、19本目)


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うちのりみ「ぬけめなくまごついて、路地。」

2010-06-21 21:39:34 | 詩(雑誌・同人誌)
うちのりみ「ぬけめなくまごついて、路地。」(「SIGNATURE」2010年05月23日発行)

 うちのりみ「ぬけめなくまごついて、路地。」は、猫を見かけたときのことを書いているのだと思うが、視線が猫にぴったりくっついているがおもしろい。

子猫の弓なりに歩く背を追っていく
その背にしょわせたいものがある
わっしょい、わっしょい、
神輿の下からのぞく
お守り 万華鏡 黒髪のつやつばききや!
揺らすものがないのでやはりしょわせたい

 実際に神輿にであったのかどうかわからないが、猫の弓なりの背中とうちのの身体が融合していて、その体の奥から「わっしょい、わっしょい」が響いてくる。それはしかし、実際に神輿を背負った「重さ」--その「重さ」を感じている声ではなく、あくまで自分の「肉体」は解放されていて、他人の肉体の躍動を見ているときの、自分の肉体にあふれてくる喜びである。
 その、自分と他者との、重なり合う部分と重なり合わない部分の、気楽な思い入れのような感じが、のんき(ノーテンキ?)で楽しい。

ピンセットでつまんで調整
しょわせたい 小さなリュックを しょわせたい

 視線が猫にぴったりくっついて、そこから「小さなリュック」が自然に出てくる。「小さな」ということばに出会ったとき、きっとうちのの肉体も小さくなっている。「小さなリュック」を背負うときの、その軽さの喜び。それと一体になっている。
 うちのは意識しているかどうかわからないが、「調整」(ちょうせい)という音、その音楽と「しょわせたい」の響く具合のなかに、その喜びがあふれている。「小さな」という音のなかにも「ちょうせい」に含まれる音が響いている。



 鈴木綾女「銀河系肩こり」は俳句。おもしろいなあと感じた句がいくつかある。

外人の尻ワンダフル初詣

 外国人と神社(初詣)の出会いの「一期一会」が、「尻」と「ワンダフル」で軽くてにぎやかになった。なんとも、めでたい。中七がとにかく楽しい。

裂・破・透・縛ストッキングの花埃

 女の視線と男の視線が交錯する。と、感じるのは、私だけだろうか。「裂・破・透・縛」という漢字のなかにひそむ暴力の陶酔。暴力というのは、相手がいないと成立しないねえ、それはセックスに似ているねえ、と感じる。
 他者を求める視線がある。
 「尻ワンダフル」の句も、「外人」という強烈な「他者」ゆえの楽しさである。
 他者--異質なものと出会って、その力で鈴木自身の肉体を切り開いているのかもしれない。
 他者を書きながら、自己を書いてしまう。その相互性(?)というのだろうか、他者と自分との自然な交流・融合がいい。そして、たぶん、鈴木のことばの特徴は、「遠心・求心」という融合感覚だけではなく、そこから一歩進んで、「ビッグバン」のように、世界が爆発する喜びに楽々と変化するというところにある。

花の冷ふにゆと啼きしペニスかな

 笑えるねえ。「ふにゆと啼」く、か。いったい、鈴木の「耳」はどこにあるのかな? 目にあるのかな? 手にあるのかな? もしかしたら、口? 舌? あんまり書いてしまうとセクハラ? 「ふにゆ」という「啼き(声)」を聞いたのは「耳」でないことだけはたしかだけれど……。

人々を追い出しており心太

 この句も好きだけれど、ちょっと他の作品とは違う。いろんなことばを鈴木はもちあわせているようだ。



 山木礼子は短歌を書いている。

レッテルを(はりおりはりべりいまそかり)気にしているのは自分じゃないか

 「気にする」というときの「自己分裂」(鈴木の、他者との出会いをとおしての自己の解放とはちょっと違うね)がおもしろい。自分の中にある「他者」--それと出会い、それを「他者」のまま取り出してみる。
 ふーん、と思った。
 いいかげんな感想で申し訳ないが、ふーん、のあとことばを動かしていくほど、私は短歌のことをしらない。山木の作品も読んだことがない。
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八重洋一郎『白い声』

2010-06-21 00:00:00 | 詩集
八重洋一郎『白い声』(澪標、2010年06月30日発行)

 「暗礁(リーフ)」という作品が巻頭にある。その詩にいきなり引きこまれた。

島は蛇にかこまれている
脱皮した
脱肉した
脱魂した
白骨だけになって幾重にも幾重にもはしりくねっている
しら波

問いは消え
疑いは消え
答えさえも消えはてて けれどまた
始まりをくりかえす 暗い
暗い
潮鳴り

 とても抽象的な詩である。わかるのはリーフを描いているらしいこと。そのリーフは「幾重」にもなっている。そして、たぶん白い。それを八重は「蛇」のようだと感じている。蛇が島を囲んでいる。
 ただし、その蛇は生きてはいない。
 「脱皮」は蛇が成長するときの過程だが、それから先、「脱肉」というのは、何? 「脱魂」というのは、何? 「白骨」は死んだあとの状態だが、蛇が脱皮、脱肉、脱魂し、白骨化する--そこにはいったい何が働いているのか。何か蛇に死なせたのか。
 八重は、その「答え」を書かない。
 その問いは、もう八重のなかでくりかえされてきた。くりかえす必要がないのだ。答えもくりかえしてきた。八重のなかで「結論」はでている。決着はついている。ことばにする必要などないのだ。
 けれども。
 けれども、そのリーフをみるたびに、そのことばにならないことがくりかえされる。八重の「肉眼」のなかでくりかえされる。リーフは蛇。脱皮し、脱肉し(これは、肉を自ら脱ぐというより、剥ぎ取られ、かもしれない)、脱魂し(これも、魂を自ら捨て去りというより、激しく奪い取られ、かもしれない)、白骨化し(これもまた白骨化させられたのかもしれない)、そこに存在している。そのリーフを見るとき、八重には、脱皮の実際が見える、脱肉の実際が見える、脱魂の実際が見え、白骨の実体が見える。
 そのとき見えるもの、それはほんとうは語っても語っても語り尽くせないものかもしれない。その語り尽くせないものが、膨大なことばではなく、「脱皮」「脱肉」「脱魂」「白骨」という短いことばに結晶している。
 「脱肉」「脱魂」ということばはない。(ない、と思う。)
 それは、ことばにはならない。「流通言語」にはならない。ことばがあふれすぎて、そのことばの重さのために、ゆがんでしまったブラックホールのようでもある。
 「脱肉」「脱魂」ということばのなかへは、八重が見たもの、聞いたもののすべてが吸い込まれていく。そこからは何も出てこない。そして、何も出てこないのだけれど、その吸い込まれていくすべてのものを「肉眼」で見て、「肉耳」で聞いたことがある八重には、その「ブラックホール」にすべてが見え、すべてが聞こえる。
 「ブラックホール」と最終的な死である。けれど、それは死の瞬間、ビッグバンを起こす。始まりの一瞬でもある。
 ここにあるのは、究極の矛盾であり、究極の矛盾であるから、究極の真理でもある。こういう矛盾を、だれも正確には描写できない。わかっている。わかっているけれど、なんとか書きたい--そして、矛盾のまま書いてしまう。

 「幾重」「くりかえし」--そういうしかないことばのなかに、八重の「思想」「肉体」がある。何かが「消え」てしまっても、「くりかえす」という行為は消えない。残る。残さなければいけない。

 「樹霊(こだま)」も強いことばが動き回っている。

夜 深い闇の中をサァーサァーと音をたて 地の深くから
生きている思考が高く大幹(おおみき)をたどって枝々の先
何万枚の葉の先々までしみわたっていく

朝 重なる葉っぱは一枚一枚鏡となってめざめ 枝々に
何万という緑色の《眼》をゆらめかせ朝毎(あさごと)のざわめく
不安と意志と祈り

 「くりかえし」は「朝毎」の「毎」のなかにある。そして、その「くりかえし」があって、はじめて「何万枚」「何万」ということばがうまれて来る。「何万」という数を超越した数--それは「ブラックホール」である。数えられないことによって、「ひとつ」になってしまう何か--「ひとつ」であるけれど、その「ひとつ」は無数から成り立っているという意識。
 そこにのみ、「真理」はある。「くりかえ」される「無数」、「くりかえ」すことで凝縮して、「ひとつ」になる、「真理」という「ひとつ」になる。

 「月」も美しい。

金属の削りくずのような
繊い月
晨(あさ) おとついは左側斜めしたに彎っていたのに
昏(くれ) 今日は
右側
こんなにかすかなところまできっちりと 天体が
うごいているとは!

 「くりかえし」は、この作品では「晨昏」ということばのなかにある。それは毎日毎日やってくる。くりかえされる。そして、そのくりかえしが、天体を磨き上げる。くりかえされることによって、その月の細さ、その月の動きがはっきりと人間にわかるようになる。天体(真理)はくりかえされるから「こんなにかすかなところまではっきりと」人間に理解できるようになる。

 八重は、くりかえしだけが、何かをはっきりとらえることができると知っているのだ。くりかえされるもののなかにだけ「真理」があるということ知っているのだ。




しらはえ
八重 洋一郎
以文社

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