詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林稔「髀肉之嘆(二)」、河江伊久「日向坂」

2010-06-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「髀肉之嘆(二)」、河江伊久「日向坂」(「ヒーメロス」14、2010年06月10日発行)

 小林稔「髀肉之嘆(二)」は私のように眼の悪い人間にはとても読みづらいことばである。私はいま体調が悪くて、めまい、吐き気がしていて、そういう神経には、なんともいえず、肉体の奥をかき混ぜるような「いらいら」感じを引き起こすとしかいいようのない文体である。

刃物の傷を記憶する円卓を、花々が織り込まれた絨毯の上にしつらえた、両腕の角度をそれぞれ違えた四脚の肘掛け椅子を向き合わせ、うしろの白い壁に倒れかけるように立つ黒い戸棚がある。

 これは何だろう。
 円卓のある部屋の描写のようである。円卓には刃物の傷跡がついている。そしてその円卓は花々を折り込んだ絨毯の上にある。(円卓の下には絨毯があり、その絨毯には花が織り込まれている。絨毯は花模様である。)そして、その円卓のまわりには椅子が四脚ある。四脚が向き合っている。椅子は肘掛け椅子で、それぞれの肘掛けの角度は違っている。さらに、その円卓、肘掛け椅子のうしろ、白い壁の前には黒い戸棚がある。
 そういう様子が描写されているのだと勝手に想像するが、こんな「悪文」は見たことがない。長々しい描写で読者を幻惑する外国文学の、できそこないの「訳文」である。
 と思いながら、ともかく読んで、いらいらし、そのいらいらしながら読んだことと、そこから、ふっと浮かんできた感想を書きたいと思いながら、ちょっと眼がつらい。ほかの詩を読んでみよう、と思って、
 河江伊久「日向坂」を読む。小林のことばにくらべるとかなり読みやすい。

 坂道には光が縦横に走りちらちらと小鳥のように舞う日もあるが、その日は雲が隙間なく空を覆って仄暗かった。
 坂の途中に古美術の看板を掲げた二階家があって、階段が触手のようにのびている。わたしの眼がそれを一段ずつ上り戸口に辿り着いた時、扉がわずかに開いて女の子が出てきた。

 かなり読みやすいとはいっても、これもまた奇妙な文体である。「光が縦横に走りちらちらと小鳥のように舞う」というのは、わかったようでわからない。だいたい「光が」「舞う」というのは、光単独ではありえないことである。木漏れ日だかと水の反射とか、なにかしら揺れ動くものが必要である。光は「直進」するものだからである。
 「わたしの眼がそれを一段ずつ上り戸口に辿り着いた時」というのも、私のような眼の悪い人間にはちょっと不可能なことである。そんなものを一段一段数えてのぼるようなことは眼が疲れてしまう。一気に、何段あるかも気にせずに、上までのぼってしまう。
 というようなことを考え、それをことばにした瞬間に、わかることがある。
 河江は「描写」などしていないのである。そこに書かれていることばは「描写」に見えるが、描写ではない。「対象」を必要としていない。ことばを動かし、そのことばによって、ことばにする前には存在しなかったものを存在させているのである。そして、それは「光」とか「階段」などという具体的存在ではなく、「縦横に走りちらちらと小鳥のように舞う」とか、「触手のようにのびている」という「印象」なのである。河江のこころに浮かぶ「印象」をことばにしたくて、そのためにむりやり「存在」(私たちが知っているもの)を利用して、ことばを動かしているのである。
 
 そして。

 小林のやっていることは、河江のやっていることを、さらに念入りにしたものである。小林が書きたいのは「円卓」とか「肘掛け椅子」ではなく、そういうものがそこにあると仮定した時に動く「印象」をことばにすることなのだ。
 ことばはある存在に対応している。その存在の「名前」がことばである。「円卓」ということばは「円卓」という存在があってはじめて「意味」をもつ。「円卓」ということば、その音によって(文字によって、かもしれない)、ひとが「円卓」を存在すると認識する時、そのことばは「意味」をもつ。ことばによって、存在が「共有」される。
 ことばは、基本的にそういうものである。
 でも、それだけでは、おもしろくない。存在とことばが完全に同等であるなら、ことばはいらない。ことばなしで、存在だけでものごとを考えればいい。
 ことばがあるかぎり、存在ではないもの、存在を超えるものを表現しなくては、ことばである必要性がない。
 たとえば、「印象」というもの。
 そんなものは、あるかないか、わからない。またあったとしても、私の「印象」とだれかの「印象」は同じとは限らない。たとえ「同じことば」であったとしても、だからといって「同じ印象」であるとは限らない。それが「存在」に対応することばと、「印象」に対応することばの違いである。
 そいう、わけのわからないもの--「流通言語」では語りきれない何かを、小林は書きたいのだ。河江は書きたいのだ。それは、まあ、ことばにはならないもの、ことばになりきっていないものである。単純な(純粋な?)、ことばの運動である。ことばはことばとして動いてしまう、そのときの動きである。
 小林の作品のつづき。

風を放った扉から盗み見られる頑丈な鋲を打ちつけた蓋のある宝石箱。銀製の写真立て。その硝子に付着する埃が主人の幼年を隠匿している。

 しまっていない扉の向こう側、扉の隙間から見える別の部屋の描写なのだろうけれど、「宝石箱」や「写真立て」という「存在」をめぐることば、その運動の中の「幼年を隠匿している」という部分。
 あ、ここに、小林がいる、と私は感じる。
 「隠匿」。ことばは何かをあらわすと同時に隠す。「円卓」ということばは「円卓」そのものをあらわす。けれども、それだけでは、たとえば「円卓」に「傷」があるということはわからない。「円卓」というとこばは、実は「円卓の傷」を隠している。そして、それに「傷」があると書けば、そのことばは「傷」を明確にするが、ではどんな傷? それも実は隠れれている。それをさらに「刃物の傷」と書けば、それはそれで「円卓」の細部が浮かび上がったようであるけれど、それはほんとう? ほんとうに「円卓」? 「円卓」の傷の細部にことばを動かしていく時、そこには何か、「隠匿」されたものがない? 「記憶」ということばも小林の詩にはでてくるが、ある記憶を語る時、そこにはかならず語られない記憶の部分がある。ことばはどんなに繰り出してみても、世界そのものにはおいつかない。
 世界とことばのずれ。
 それをこそ、小林は書いているのだ。

 あ、おもしろい、と思う。そうか、独特の世界ではなく、小林ワールドではなく、世界とことばのずれなのだ。河江も、世界というより、世界を描写するようにことばを動かしていく時、そこに必然的に生じてくる「ずれ」そのものに眼を向け、「ずれ」を明確にしようとしているのだ。
 ほんとうにおもしろい。おもしろいけれど、私のように眼が悪い人間には、こういうことばを読むのはかなりつらい。特に「散文」形式で書かれていると、厳しい肉体的な疲労が残る。まあ、これは個人的な事情であって、こんなことを感想に紛れ込ませてはいけないのかもしれないけれど……。
 個人的には、散文形式のものより、次の行分けの方が読みやすい。小林の「五 波止場」の1連目。

左右から腕を延ばす防波堤
隆起する海が砕け、飛沫をあげると
一冊の書物が色あせてゆく。
脳裏を滑ってくる海鳥のように
忘れられた記憶が旗をひるがえす。
穏やかな波に
睡りを奪われまいともがいて
    (谷内注・「もがいて」は原文は漢字。「足」ヘンに「宛」という文字)

 読みやすいけれど、やっぱり「散文形式」の方が、濃密でいいかなあ、とも思う。



 河江の作品については、少ししか触れることができなくて申し訳ない。
 河江の作品そのものについてではないのだけれど、私には、あるひとの作品が、それ自体ではなんのことかわからないのだけれど、別のひとの作品を読むと、突然、その魅力がわかる(ような)気がする時がある。
 今回、小林の作品だけを読んでいたら、たぶん、私は感想を書かなかった。河江のことばにふれて、突然、小林の作品が結晶化した。
 同じことは、稲川方人と平出隆の作品で起きる。私は、稲川の作品はまったくわからない。読めども読めども、ことばについていけない。けれど平出のことばを読んだ直後に稲川のことばを読むと、あ、天才、と感じる。平出にはきっと稲川は大天才に見えるだろうなあ、と感じる。
 河江は、どうなんだろう。小林のことばの動きが大天才のことばの運動にみえるだろ.うか。



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