詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

紫圭子『閾、奥三河の花祭』

2010-06-08 00:00:00 | 詩集
紫圭子『閾、奥三河の花祭』(思潮社、2010年04月30日発行)

 紫圭子『閾、奥三河の花祭』はタイトルどおり、愛知県・奥三河のまつりを描いたものなのだろう。私は不勉強で、そのまつりについては何も知らない。何も知らないが、紫のことばから、「まつり」そのもののがかいま見える。

(お玉はかわいいのん
うしろの婆さまが背を撫でてくれる
背中のお玉は眠い眼を開けて婆さまの手を舐めている

(にゃんこもお玉はそれはそれはかわいいぞん
(たぬこもわんこもかわいいぞん
(鳥んぽもばんどりも 白山のてんとうさまの真ん前で舞っとるがね
(向こうとこっちを行き来できるながあい橋がおりてくるんだわ
(それはそれはかわいいぞん

橋もかわいい
いきものだから

 「橋」はふつうは「いきもの」とは言わないだろう。けれど、ここでは「いきもの」と呼ばれている。これが、この「まつり」の本質だろう。いま、ここに存在するすべてのものがいのちである。いのちでないものはない。
 ただし、その「橋」はふつうの「橋」ではない。
 「橋」は「向こう」(人間の世界ではない世界・異界)と「こっち」(人間の世界)を結ぶもの。それが、どこからか「おりてくる」。そのおりてきた「橋」が「いきもの」であり、「かわいい」。
 「かわいい」はなんだろう。ひとをひきつけるもの--そのエネルギーかもしれない。

(衣装箱もかわいいぞん
衣装箱が笑った
衣装箱が口を開けるとお玉の舞いの白い小袖がひらりひらりほほえんだ
(地下足袋もそれはそれはかわいいぞん
地下足袋はあわてて走り出した
黒い地下足袋赤い地下足袋 山の斜面を駆け抜けて
白山のてっぺんでぴたっと止まった

妹の力 姉の力に山が燃えて
ひとすじの橋が社にかかった

わたしくしの背にお玉がもぐりこんだ
お玉の舞いに
笛や太鼓は波打った
生まれ清まりの白い小袖は天と地につながった
ここは死者と生者の行き来する渦の結び目
白い橋はばんどりの飛び移る樹幹にはりめぐらした蜘蛛の糸橋のよう

 「まつり」は「お玉」と呼ばれるものに憑依され、躍り狂う。そのとき人間の肉体が踊るのではなく、音楽が踊る。「笛や太鼓は波打った」。主客がいれかわる。融合する。それが「まつり」。「天と地がつなが」り、融合する。そとこ、「死者と生者が行き来する」ための「橋」。「橋」という「場」としての「舞い」。
 それは「舞い」が「場」であるということでもある。人間の「行動」が「場」である、ということでもある。

 人間の「舞い」、「行動」が「場」であり、そこにいのちが行き来するなら、人間の「ことば」もまた「場」であり、そこにいのちが行き来する。--そのときの輝きが、詩である。
 紫は、そういう「場」、いのちが行き来する「場」としてのことばを、「まつり」を通して獲得しようとしている。

 ときどき、その「場」がとてもおもしろい。

水のみえる土地を
わたしはあるいた
黙って
水が
わたしをしめころしにくるときを喉の奥で待っていた
                   (「鬼ひめ」)

 「喉の奥」という「肉体」がいい。絞め殺しに来るのを待っているとき、「喉の奥」はすでに絞め殺されている。その予感に喜びがあふれている。殺されるのに幸福。--この矛盾は、絞め殺される瞬間こそ、そこで生と死が出会うからである。
 ひとは生きて死ぬのではない。
 ひとは生きて、死という他者と出会うことで、私から逸脱して他人になってしまう。うまれかわる。
 まつりは、そういう体験を共有する「場」である。「わたし」ひとりがそうなるのではなく、そこに集まってきたひとすべてが、「わたし」から逸脱し「他者」(他人)になる。そうなるために、集まってくるのである。

おまえは
うっとりと口を開けて
はじまりもおわりもない
海原をとおりぬける
                    (「鎮魂歌」)

 まつりには、「はじまりもおわりもない」。それは「時間」ではなく「場」であり、「場」に境界はない。なぜなら「場」は空間ではなく「時間」だからである。--と書くと、矛盾になるだろうか。寸前に「時間ではなく場である」と書き、いまは「空間ではなく時間である」と書く。--その矛盾。矛盾の結合。だが、その硬い結びつきがすべてなのだ。矛盾した形でしかいえないものがすべてなのだ。
 だから、次の行が気になる。

(あなたよーい 夫よーい 六十兆の体細胞よーい
                    (「閾」)

(尾の細胞の数って胴の細胞の数と比例するんだよね
(わたしという細胞は六十兆あるんだ
(わたしのなかの六十兆の人々、おはよう!
                 (「はらかずき、と、かげ、のすきまに緑萌え)

 「六十兆」って、誰が数えたんだろう。どうやって計算したんだろう。まあ、「言い伝え」かもしれない。(最新科学の言い伝え、かもしれない。)
 この「六十兆」という「思想」のなかには、私が矛盾でしたいえないものと書いたものが結晶しているのかもしれない。きっと、そうなのだと思う。思うけれど、同時に私は、つまずく。つまずいてもしまうのだ。
 あ、「橋もかわいい/いきものだから」と唐突に言ってしまったときの美しさがない。「頭」できれいに整理されすぎて、「かわいい」が消えてしまっている。
 「かわいい」はほんとうは「かわいい」ではない。(辞書に書かれている「かわいい」とは違う。)「かわいい」ではないのだけれど、「かわいい」ということばをつかうことで「かわいい」の「流通言語」の「意味」を破壊して、違ったものとしてつかってしまう。つかうことで「流通言語」から離れてしまう。そういう運動が「かわいい」にはあった。
 「六十兆」にも、数の概念を破壊し、自由に動いていこうとする「頭」の意図があるといえばあるのかもしれないけれど、私には違うように感じられて仕方がない。

 「かわいい」はわからない。わからないけれど「肉体」のなかにある、ことばにならないことばが「かわいい」でいいと言っている。
 「六十兆」もわからない。私は六十兆まで数えたことがない。1兆が60個(?)ある考えようにも、その「1兆」も数えたことがない。1000億が 600個でもだめ。 100億が6000個でもだめ。10億が6万個でも、だめ。もっと小さくいくつかにわければいいのかもしれない。1億が10個あつまったものが6万個、1億が 100個あつまったものが6000個……ああ、でも、だめだねえ。そんなもの、数えたことがない。
 「肉体」がどんどん遠くなる感じがする。
 「六十兆」といったとき、「頭」が、「頭のことば」が暴走していく感じがする。それは「かわいい」ではなく、私には、「怖い」という感じになってしまう。
 「かわいい」まんまがいいのだけれど、好きなのだけれど、かわいだけでことばを動かしていくのはむりなのかなあ。どこかで「頭」でことばを動かさないと、とんでもないことになるのかなあ。
 うーん。
 でも、とんでもないからこそ「まつり」にしてしまうのじゃないのかな、とも思う。「まつり」の「場」に吐き出してしまうのじゃないかなあ。「まつり」という「場」に何かを閉じ込め、もう一度、人間は「現実」にもどるんじゃないのかなあ。「現実」にひきかえすために、「現実」をリセットする(?)ために「まつり」があるんじゃないのかなあ。
 「頭」(六十兆まで簡単に言いきってしまうことば)でリセットしてもなあ……。






閾、奥三河の花祭
紫 圭子
思潮社

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