高柳誠『光うち震える岸へ』(3)(書肆山田、2010年05月30日発行)
高柳誠『光うち震える岸へ』の世界にはまりこんでしまったみたいだ。先へ進めない。私の感想はたぶん感想というより、誰かのことばを読むことによっての、きりのない思いめぐらしのようなものだと思う。書けば書くほど、対象から離れていく。高柳誠『光うち震える岸へ』について書けば書くほど、その世界とは関係がなくなってしまうような気もするが、誘い込まれるようにして書いてしまう。
「01」は旅の浮遊感の分析(?)のつづきである。
非常に「論理的」に書かれている、分析的に書かれている--と、一読したときは感じる。そして、そこに誘い込まれていく。ああ、そうなのか、と納得する。
けれど、ここに書かれていることはほんとうに「論理的」か。「論理」によって導き出された「真実」であると信じていいのか。
たとえば空を飛行機で飛ぶ、移動する。それは「自然に反する状態」か。そもそも「自然」とは何か。飛行機に乗らずに空を飛ぶなら人間の自然に反しているかもしれない。けれど、飛行機が空を飛び、その飛行機に乗って人間が移動するのは「科学技術」の「自然」には反していない。合致している。ここには、「論理」など書かれていないのだ。
「論理」は書かれていないのに、「論理」が装われている。「自然に反する」というような、否定のことばで、高柳がなんらかの「真実」を知っているかのように装われている。それは「疑似論理」である。
そして、その「疑似論理」のなかに、「肉体」と「魂」という二つのものが出てくる。二つということは、まあ、こんなふうに考えてはいけないのかもしれないけれど、「00」とのつながりでいえば、どちらかが「本質」であり、どちらかが「不随」である。どっちがどっちであってもいいのだが、「位置関係」とは「本質」か「不随」かの「位置関係」である。
高柳の「疑似論理」(詩の論理?)は、「本質」と「不随」の「位置関係」を、いままでとは違った形で書くことで、そこにいままで存在しなかった世界を浮かび上がらせる運動といっていいかもしれない。
詩のつづき。
魂はまだ上空にある。けれど肉体は地上にある。魂の乖離、分離して上空にある状態が「浮遊感」。--言われれば、なんとなく「論理的」に感じる。
それはそれでいいとして、では、そのとき「本質」とどっち? 魂? 肉体? 本質が浮遊しているのか。魂が人間の本質であり、それが中に浮いている(まだ空にある状態)が浮遊感なのか。
ほんとうか。
もし魂が「本質」なら、すべては魂を基準にして語られるべきであろう。魂が浮遊しているのではなく、肉体が「沈んでいる」(重みに負けている)というふうに表現されなければならないのではないだろうか。
魂が「浮遊している」ということばが成立するとき、基準は「浮遊していない」肉体の方にある。そうすると、肉体が本質であり、魂は不随である。きちんと付随すべきものが付随できずに、乖離し、(齟齬をかかえて)、浮遊している、ということになる。
そして、そう考えると、また、奇妙なことが起きる。
肉体は、そんなふうに「論理」を考えることができるか。考えるという仕事、ことばを動かすという仕事は、肉体に属するものか。魂に属するものか。どちらかといえば、たぶん、魂に属すると考えるひとが多いと思う。そうすると「不随」の方が「思考」をつかさどっていることになる。
変じゃない?
「不随」である存在が、人間という存在のあり方を考える「基本」というのは、何か変じゃない? 考えるということは、「本質」が中心になって進めないことには、論理が「本質的」にならないのでは? どんなに考えても、それが「不随」を出発点としている限り、「付随的」にならない?
変だよねえ。
それに、高柳がここで書いている「疑似論理」は、奇妙なことに「重力の自然」という「科学的論理」を流用している。つまり、重いものは地上に落ち、(肉体は地上にしばられ)、軽いものは浮く。魂という、いわば重さを測ることのできないもの(重量のないもの)は浮いている。ね、科学的でしょ?
でれ、人間が肉体と魂からできている、それには「位置関係」がある、というのは科学的? 違うねえ。
高柳は、あたかも高柳のことばが「論理的」であるかのような印象を与えるようにして書かれているけれど、それは「論理」とは無縁なのだ。「論理」があるにしても、それは「流通言語」でいう「科学的」なものではない。「自然に反する」というような、あたかも科学を踏まえたようなことばをつかっているが、そこには「科学」というものはない。
では、何があるのか。
ある存在を「ふたつ」に分離して見る視線、「ふたつ」に分離して、その「距離」を測るという「文体」があるのだ。
「02」は空港の描写である。空港を高柳は、次のように定義する。
「空港」というひとつの「時空」。それとは「別の時空」。「別の」がキーワードである。「別の」ということばによって、空港と、空港以外の街は、「本質」と「不随」に分割される。どちらが「本質」であり、どちらが「不随」であるかは、いわない。
というより、「不随こそが本質である」というのが、どうやら高柳の「思想・思考」(嗜好、肉体に染み付いた考え)のようでもある。
「03」は、土地と匂いについてのことばの運動である。
「隠された属性」は「不随」である。そして、その「隠された属性(不随)」が、実は、土地の「本質」である。
高柳は、そんなふうに、いま、ここにあるものの「本質」と「不随」をていねいに逆転させながらことばを動かしていく。
この運動は、すぐに不思議な壁にぶつかる。論理的に考えれば、のことだけれど。
つまり。
不随が本質なら、最初に本質と定義されたものは不随であるから、不随が本質であるという定義が成立した瞬間に、その位置関係はどうなる? なんだか、幾重にも輻輳する循環迷路に入り込むことになってしまう。
これは、高柳も承知している。知っていて、その方向にことばを動かしているのだ。
「04」。
存在するのは「層」である。光でも風でもない。「層」、複数の存在によってはじめて存在することができる「層」というもの。
複数の存在があるとき、どれが「本質」、どれが「不随」? わからないね。「本質」というものがあるとすれば、あるいは「真理」「真実」と言い換えた方がいいのか--「真理」があるとすれば、つまり、いちばん間違いの少ない「論理」があるとすれば、それは存在には「本質」と「不随(属性)」があり、それは交代するものである、ということになるかもしれない。
こういうことを、高柳は、また別のことばでも言い換えている。いや、そんなふうに、簡単にことばが決着しないように、別なことばでゆさぶりながら、ことばを動かしていく。
高柳の描いている「旅」、その降り立った土地はバルセロナを連想させる。ガウディの建築物を想像させる。その「街」の描写。「07」。
「直線」と「曲線」。どちらが「本質」か。仮に「直線」を「本質」と呼んでおく。そういう場合でも、不随の「曲線」にも「原理」というものがある。そこにも「本質」的ななにかがある。そして、その不随であるべきものが、その不随の中に存在する「本質(原理)」にしたがって運動を展開すると、そこに「違和感」をもたらす何かが浮かび上がってくる。(違和感を感じるのは、逆説的ないい方になるが、「直線」が「本質」であると考えている「証拠」である。曲線が最初から「本質」であるなら、その「本質」が「本質」の原理にしたがって運動を展開しても、本質の範囲内であり、それが「違和感」をもたらすというのは、一種の矛盾である。)
問題は、そういう「違和感」--それを高柳が拒絶しない、むしろ好むという思想にある。(何が問題といわれると困るが……。)
「かすかに見え隠れする」もの。「隠された属性」。それが「過剰」のなかで、いくつもの「層」になる。それに酔う--魅了され、引きこまれていく高柳。
はっきり見えるものではなく、隠されている「属性」--それにひかれ、それこそが「本質」である、ということを、「論理的」に説明しようとすることばの「過剰」な運動。それが、高柳の詩である。
高柳誠『光うち震える岸へ』の世界にはまりこんでしまったみたいだ。先へ進めない。私の感想はたぶん感想というより、誰かのことばを読むことによっての、きりのない思いめぐらしのようなものだと思う。書けば書くほど、対象から離れていく。高柳誠『光うち震える岸へ』について書けば書くほど、その世界とは関係がなくなってしまうような気もするが、誘い込まれるようにして書いてしまう。
「01」は旅の浮遊感の分析(?)のつづきである。
あるいは、長時間の空の旅こそが、この浮遊感の原因だろうか。空のはるか高みを長時間運ばれるという自然に反する状態が、肉体と魂とに大きなひずみを生じさせ、両者が、ふだんの対応関係からずれて、互いにせり上がったりひっくり返ったりしたあげく、かりそめの位置関係がようやくにしてできあがったころ、決まって地上に到着する。
非常に「論理的」に書かれている、分析的に書かれている--と、一読したときは感じる。そして、そこに誘い込まれていく。ああ、そうなのか、と納得する。
けれど、ここに書かれていることはほんとうに「論理的」か。「論理」によって導き出された「真実」であると信じていいのか。
たとえば空を飛行機で飛ぶ、移動する。それは「自然に反する状態」か。そもそも「自然」とは何か。飛行機に乗らずに空を飛ぶなら人間の自然に反しているかもしれない。けれど、飛行機が空を飛び、その飛行機に乗って人間が移動するのは「科学技術」の「自然」には反していない。合致している。ここには、「論理」など書かれていないのだ。
「論理」は書かれていないのに、「論理」が装われている。「自然に反する」というような、否定のことばで、高柳がなんらかの「真実」を知っているかのように装われている。それは「疑似論理」である。
そして、その「疑似論理」のなかに、「肉体」と「魂」という二つのものが出てくる。二つということは、まあ、こんなふうに考えてはいけないのかもしれないけれど、「00」とのつながりでいえば、どちらかが「本質」であり、どちらかが「不随」である。どっちがどっちであってもいいのだが、「位置関係」とは「本質」か「不随」かの「位置関係」である。
高柳の「疑似論理」(詩の論理?)は、「本質」と「不随」の「位置関係」を、いままでとは違った形で書くことで、そこにいままで存在しなかった世界を浮かび上がらせる運動といっていいかもしれない。
詩のつづき。
そうして、魂がまだ慣れない部位に貼りついた状態のまま、肉体がひと足先に地上を歩き出してしまうために、地上の現実とのあいだに大きな齟齬を感じてしまうのだろう。
魂はまだ上空にある。けれど肉体は地上にある。魂の乖離、分離して上空にある状態が「浮遊感」。--言われれば、なんとなく「論理的」に感じる。
それはそれでいいとして、では、そのとき「本質」とどっち? 魂? 肉体? 本質が浮遊しているのか。魂が人間の本質であり、それが中に浮いている(まだ空にある状態)が浮遊感なのか。
ほんとうか。
もし魂が「本質」なら、すべては魂を基準にして語られるべきであろう。魂が浮遊しているのではなく、肉体が「沈んでいる」(重みに負けている)というふうに表現されなければならないのではないだろうか。
魂が「浮遊している」ということばが成立するとき、基準は「浮遊していない」肉体の方にある。そうすると、肉体が本質であり、魂は不随である。きちんと付随すべきものが付随できずに、乖離し、(齟齬をかかえて)、浮遊している、ということになる。
そして、そう考えると、また、奇妙なことが起きる。
肉体は、そんなふうに「論理」を考えることができるか。考えるという仕事、ことばを動かすという仕事は、肉体に属するものか。魂に属するものか。どちらかといえば、たぶん、魂に属すると考えるひとが多いと思う。そうすると「不随」の方が「思考」をつかさどっていることになる。
変じゃない?
「不随」である存在が、人間という存在のあり方を考える「基本」というのは、何か変じゃない? 考えるということは、「本質」が中心になって進めないことには、論理が「本質的」にならないのでは? どんなに考えても、それが「不随」を出発点としている限り、「付随的」にならない?
変だよねえ。
それに、高柳がここで書いている「疑似論理」は、奇妙なことに「重力の自然」という「科学的論理」を流用している。つまり、重いものは地上に落ち、(肉体は地上にしばられ)、軽いものは浮く。魂という、いわば重さを測ることのできないもの(重量のないもの)は浮いている。ね、科学的でしょ?
でれ、人間が肉体と魂からできている、それには「位置関係」がある、というのは科学的? 違うねえ。
高柳は、あたかも高柳のことばが「論理的」であるかのような印象を与えるようにして書かれているけれど、それは「論理」とは無縁なのだ。「論理」があるにしても、それは「流通言語」でいう「科学的」なものではない。「自然に反する」というような、あたかも科学を踏まえたようなことばをつかっているが、そこには「科学」というものはない。
では、何があるのか。
ある存在を「ふたつ」に分離して見る視線、「ふたつ」に分離して、その「距離」を測るという「文体」があるのだ。
「02」は空港の描写である。空港を高柳は、次のように定義する。
互いに見も知らぬ人々を同じ時空にとどめ、そのことの意味を探る間を与えることもなく、別の時空へと放り出す。それぞれに、回遊魚としての深い孤独を表出させながら。
「空港」というひとつの「時空」。それとは「別の時空」。「別の」がキーワードである。「別の」ということばによって、空港と、空港以外の街は、「本質」と「不随」に分割される。どちらが「本質」であり、どちらが「不随」であるかは、いわない。
というより、「不随こそが本質である」というのが、どうやら高柳の「思想・思考」(嗜好、肉体に染み付いた考え)のようでもある。
「03」は、土地と匂いについてのことばの運動である。
空港ごとに固有の匂いを発している。いや、発しているというより、それは隠された属性なのだ。土地は、実は匂いからできている。
「隠された属性」は「不随」である。そして、その「隠された属性(不随)」が、実は、土地の「本質」である。
高柳は、そんなふうに、いま、ここにあるものの「本質」と「不随」をていねいに逆転させながらことばを動かしていく。
この運動は、すぐに不思議な壁にぶつかる。論理的に考えれば、のことだけれど。
つまり。
不随が本質なら、最初に本質と定義されたものは不随であるから、不随が本質であるという定義が成立した瞬間に、その位置関係はどうなる? なんだか、幾重にも輻輳する循環迷路に入り込むことになってしまう。
これは、高柳も承知している。知っていて、その方向にことばを動かしているのだ。
「04」。
いきなり、何層もの光、何層もの風に包み込まれた。ここでは、空気が層を成して存在し、その層ごとに、違う光が輝き出て、違う風が吹き渡る。いや、空気の層ごとではなく、光の層はそれ自体で存在し、風の層もそれ自体で存在する。
存在するのは「層」である。光でも風でもない。「層」、複数の存在によってはじめて存在することができる「層」というもの。
複数の存在があるとき、どれが「本質」、どれが「不随」? わからないね。「本質」というものがあるとすれば、あるいは「真理」「真実」と言い換えた方がいいのか--「真理」があるとすれば、つまり、いちばん間違いの少ない「論理」があるとすれば、それは存在には「本質」と「不随(属性)」があり、それは交代するものである、ということになるかもしれない。
こういうことを、高柳は、また別のことばでも言い換えている。いや、そんなふうに、簡単にことばが決着しないように、別なことばでゆさぶりながら、ことばを動かしていく。
高柳の描いている「旅」、その降り立った土地はバルセロナを連想させる。ガウディの建築物を想像させる。その「街」の描写。「07」。
曲線を。何よりも曲線を。直線の硬直性を排し、曲線だけに存在する原理をただひたすら追い求めた空間。その行為の成果としてのこの場所に、乗り物酔いに似たかすかな違和感を味わうのは、私だけだろうか。
「直線」と「曲線」。どちらが「本質」か。仮に「直線」を「本質」と呼んでおく。そういう場合でも、不随の「曲線」にも「原理」というものがある。そこにも「本質」的ななにかがある。そして、その不随であるべきものが、その不随の中に存在する「本質(原理)」にしたがって運動を展開すると、そこに「違和感」をもたらす何かが浮かび上がってくる。(違和感を感じるのは、逆説的ないい方になるが、「直線」が「本質」であると考えている「証拠」である。曲線が最初から「本質」であるなら、その「本質」が「本質」の原理にしたがって運動を展開しても、本質の範囲内であり、それが「違和感」をもたらすというのは、一種の矛盾である。)
問題は、そういう「違和感」--それを高柳が拒絶しない、むしろ好むという思想にある。(何が問題といわれると困るが……。)
とにかく過剰なのだ。過剰な曲線性のなかに、かすかに見え隠れする狂気の気配。そのほのかな気配に酔ってしまうのだ。
「かすかに見え隠れする」もの。「隠された属性」。それが「過剰」のなかで、いくつもの「層」になる。それに酔う--魅了され、引きこまれていく高柳。
はっきり見えるものではなく、隠されている「属性」--それにひかれ、それこそが「本質」である、ということを、「論理的」に説明しようとすることばの「過剰」な運動。それが、高柳の詩である。
樹的世界高柳 誠思潮社このアイテムの詳細を見る |