小林Y節子『B・Bに乗って』(2)(思潮社、2010年05月25日発行)
小林Y節子のことばを特徴づけるのは「脳」である。「零の部屋」の書き出し。
塞がれた出口 外された足場
宙吊りのマリオネットは さしずめ
しゃべり過ぎた口をつぐみ
心を 脳を 動かすしかない
ここには、あることばが省略されている。「ことば」ということばが。補って書き直すと、
「ことばを」しゃべり過ぎた口をつぐみ
心(のなかで「ことば」)を 脳(のなかで「ことば」)を動かすしかない。
「ことば」は「心」と同義である。「脳」とも同義である。そして、「心」と「脳」は、また、小林にとっては同義である。
小林は、ことばを「脳」で動かす。
私は「頭」で動かした「ことば」というのもは、どうも苦手である。「正直」から遠い感じがするからである。
小林の「脳」で動かすことばは「頭」で動かすことばと少し違う。
多くの「頭」で動かすことば(「頭」で動かされたことば)は、「頭」で動かしたと意識されていない。けれど、小林は、「脳」で動かしていることを自覚している。小林は、ことばを「肉体」で動かす--とは、少しも考えていない。「心」で動かす--心を動かすとことばが動くとは考える瞬間はあっても、すぐにそれを「脳を 動かす」と言いなおしている。それくらい明確に、小林は「脳」を意識している。
この意識の動きは、私には、とても窮屈で苦しい。だから、きのうは途中で詩を読み進むことができなくなったのだが、だからといって、小林の詩が嫌いというわけでもない。ここには、独特の「正直」がある。「脳の正直」がある。
私は「脳の正直」というものになれていないが、たしかにそれはあると確信できる。そして、小林はそれを貫いていると感じる。
先の4行につづいて、次の2行が来る。
この位置は何を意味するのか
<時に 言葉は 秘められる>
「脳」を動かす。そのとき「脳」を動かしているのは「ことば」であり、また「ことば」を動かすと「脳」も動く。それは切り離すことのできない「一体」のものである。そして、「肉体」のなかには「ことばにならないことば」というものがあるが、「脳」には「ことばにならないことば」というものはない。ことばにならないとき、ことばが動かないとき、それは「脳」も動いていないのだ。
「脳」が動く。そのとき必ずことばも動く。それが「脳」とことばの「一体」の原則である。この原則を離れて、「脳」もことばもない。
そうであっても、それではすべてのことばが語られる(しゃべられる)わけではない。ひとはそれを隠す(秘める)ことがある。そのときも、「脳」は、そのことばを「書く楠」(秘める)という方向へ動いている。「口をつぐ」む、という行為を「脳」が命じている。
小林は、ここまで、ことばと「脳」の関係を見きわめている。
そして、<時に 言葉は 秘められる>とさえ、「正直」に告白している。この「正直」は特筆すべきことがらである。
ところで、その「秘められた」ことばとは何だろうか。矛盾したいい方になるが、その「秘められた」ことばを語らずにいられないのが詩人である。いったんは口をつぐみ、ことばを秘める。けれど、それは「書く」ことを通して「脳」の外へとでてくる。
いつも景色を逆さまに見ながら
誰も見ない真実を見る
ブラックバードに乗って
(「B・Bに乗って」)
小林の「脳」は「誰も見ない真実を見る」。それは言い換えると、小林のことばはいつも「誰も見ない」真実をめざして動いている。「誰も見ない真実」をことばにするために動いている、ということになる。小林は「誰も見ない真実」をことばにしたいのだ。詩にしたいのだ。
これは、とても「正直」な欲望である。小林の「脳」はとても「正直」である。
「正直」すぎて、びっくりさせられることもある。
「春(プリマベーラ)」の部分。
巧みに奏でられるどんな楽器よりも
直接的(ストレート)に語り問いかけてくる
人間(ひと)の声ほど心奪われるものは無い
震わせ 涙させるものはない
ここに書かれている「心」は「脳」とは違うものだが、その「心」さえも、小林は、こんなふうに「脳」を動かして、ことばにしてしまうのだ。
「脳」の力というものを感じてしまった。強靱な「脳」、鍛え上げられた「脳」というものに、ちょっと突き放された感じもする。近づきがたさ、というものを感じる。
刻まれている細胞のひとつが目覚めれば
全てが覚醒するまでに時間はかからない
ただ 解きたい言葉の謎があって
知る為に どの道を行けばいいのか
目の前の迷路に踏み込むことが出来ない
すでに戻れない事を予測してしまう臆病さ
横切る影が持つ鳥籠の中に何時も鳥は居ない
引用最終行の「鳥」は「B・B(ブラックバード)」のことだろう。「解きたい言葉の謎」とは「解きたい脳の運動の謎」ということになるが、この苦悩は、苦悩として存在するのは「理解」できるが、それを納得できるほど、私の「脳」は強くはない。
あ、すごい苦悩--と他人事として反応してしまう。
この詩集は「脳」を生きるひとに向けて書かれた、「脳」を生き抜く覚悟をもった読者のための詩集なのだ。そう思った。