詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(130 )

2010-06-06 22:25:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『失われた時』。「Ⅰ」の書き出し。

夏の路は終つた
あの暗い岩と黒苺の間を
ただひとり歩くことも終つた
魚の腹は光つている
現実の眼の世界へ再び
楡の実の方へ歩き出す

 抽象と具象の交錯する感じがおもしろい。夏の間、西脇はひとりで歩き回った。路傍には暗い岩があり黒苺もあったのだろう。そういう過去の描写(?)に、ふいに、時制を破ってことばが闖入する。

魚の腹は光つている

 この現在形。強烈な印象は「過去形」にならずに、「現在形」のまま、未来へと時間を破っていく。
 そのあと……。

秋の日の夜明けに
杏色の火炎があがる
ポプラの樹の白いささやきも
欲情のつきた野いばらの実も
宿命の人間をかざる
復讐の女神にたたられた
秋の日の小路を歩きだして
どうしてももとへかえれない

 「宿命」「女神」というような、「過去」が誘われてでてくる。「時間」がまったく無秩序になる。そういう印象が私にはする。そして、この無秩序、時間の「枠」が外れてしまうのが、西脇の詩であると思う。
 詩に「時間」は存在しない。「時間」を突き破るとき、その時間を突き破るという運動が詩なのだ。



西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社

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ジム・シェリダン監督「マイ・ブラザー」(★★★)

2010-06-06 20:00:00 | 映画


監督 ジム・シェリダン 出演 トビー・マグワイア、ジェイク・ギレンホール、ナタリー・ポートマン、サム・シェパード

 ナタリー・ポートマンは、私の大好きな女優のひとりだが、この映画の役をやるには美人すぎる。いや、透明すぎる。もっと、不透明でないと現実感が消えてしまう。ストーリーというか、脚本といえばいいのか、そこに描かれている「悲劇」はとても明瞭である。戦争から帰ってきた夫が尋常ではなくなっている。それをどうやって受け止めるか。こんな深刻な役を、透明なまま、悲痛に演じてしまうと、見ていて切なくなる。
 こういう描き方が「アメリカ映画」なのだと思うが、ちょっとつらい。
 ナタリー・ポートマンのように透明に、感情の奥の奥までみせてしまうのではなく、それを隠す「肉体」をみせてほしい。それがどんなに悲痛であっても、その感情がどんなに苦しいものであっても、そこに「肉体」がある。「肉体」があるから生きていられる--そういう安心感がないと、とてもつらい。
 「顔」で演技しすぎるのかもしれない。「肉体」で演技している部分が少ないのかもしれない。
 ちょっといい相手役がみつからないけれど、兄弟の役も別のひとがやるとして、キム・ベイシンガー(すでに年をとりすぎているが)のような「肉体」を感じさせる女優だと、この映画はもっとおもしろくなると思う。
 一方に苦悩する「肉体」があり、その奥に苦悩する「感情」がある。「こころ」がある。それは「表」で出たがっていると同時に、「奥」に隠れてもいたがっているものなのだ。その矛盾を、そのまま体現するような「肉体」がスクリーンにあれば、と思うのである。
 トビー・マグワイアもある意味で透明すぎる。その激変する表情はそれだけで劇的だが、ほんとうに怖いのは、そんなふうに簡単に表情にならずに、「肉体」の微妙な動きそのものになってあらわれてくる方が怖いと思う。違うのだけれど、その違いが、どこが違うとわからない感じで違う--そういう恐怖の深みが、この映画にはない。
 苦悩も悲しみも喜びも、全部、前にですぎている。わかりやすい。とても、わかりやすい。だから、ちょっと困る。



 と、ここまで書いたら、あるところから、この映画は「ある愛の風景」のリメイクだという声が聞こえてきた。
 あ、だからなんだなあ。
 私がナタリー・ポートマンに、トビー・マグワイアに感じた不満というのは、「ある愛の風景」の役者たちの「肉体」の不透明さとかけ離れていたということなんだろうなあ。




ある愛の風景 スペシャル・エディション [DVD]

角川エンタテインメント

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小林Y節子『B・Bに乗って』(2)

2010-06-06 00:00:00 | 詩集
小林Y節子『B・Bに乗って』(2)(思潮社、2010年05月25日発行)

 小林Y節子のことばを特徴づけるのは「脳」である。「零の部屋」の書き出し。

  塞がれた出口 外された足場
  宙吊りのマリオネットは さしずめ
  しゃべり過ぎた口をつぐみ
  心を 脳を 動かすしかない

 ここには、あることばが省略されている。「ことば」ということばが。補って書き直すと、

 「ことばを」しゃべり過ぎた口をつぐみ
 心(のなかで「ことば」)を 脳(のなかで「ことば」)を動かすしかない。

 「ことば」は「心」と同義である。「脳」とも同義である。そして、「心」と「脳」は、また、小林にとっては同義である。
 小林は、ことばを「脳」で動かす。

 私は「頭」で動かした「ことば」というのもは、どうも苦手である。「正直」から遠い感じがするからである。
 小林の「脳」で動かすことばは「頭」で動かすことばと少し違う。
 多くの「頭」で動かすことば(「頭」で動かされたことば)は、「頭」で動かしたと意識されていない。けれど、小林は、「脳」で動かしていることを自覚している。小林は、ことばを「肉体」で動かす--とは、少しも考えていない。「心」で動かす--心を動かすとことばが動くとは考える瞬間はあっても、すぐにそれを「脳を 動かす」と言いなおしている。それくらい明確に、小林は「脳」を意識している。
 この意識の動きは、私には、とても窮屈で苦しい。だから、きのうは途中で詩を読み進むことができなくなったのだが、だからといって、小林の詩が嫌いというわけでもない。ここには、独特の「正直」がある。「脳の正直」がある。
 私は「脳の正直」というものになれていないが、たしかにそれはあると確信できる。そして、小林はそれを貫いていると感じる。
 先の4行につづいて、次の2行が来る。

  この位置は何を意味するのか
  <時に 言葉は 秘められる>

 「脳」を動かす。そのとき「脳」を動かしているのは「ことば」であり、また「ことば」を動かすと「脳」も動く。それは切り離すことのできない「一体」のものである。そして、「肉体」のなかには「ことばにならないことば」というものがあるが、「脳」には「ことばにならないことば」というものはない。ことばにならないとき、ことばが動かないとき、それは「脳」も動いていないのだ。
 「脳」が動く。そのとき必ずことばも動く。それが「脳」とことばの「一体」の原則である。この原則を離れて、「脳」もことばもない。
 そうであっても、それではすべてのことばが語られる(しゃべられる)わけではない。ひとはそれを隠す(秘める)ことがある。そのときも、「脳」は、そのことばを「書く楠」(秘める)という方向へ動いている。「口をつぐ」む、という行為を「脳」が命じている。
 小林は、ここまで、ことばと「脳」の関係を見きわめている。
 そして、<時に 言葉は 秘められる>とさえ、「正直」に告白している。この「正直」は特筆すべきことがらである。

 ところで、その「秘められた」ことばとは何だろうか。矛盾したいい方になるが、その「秘められた」ことばを語らずにいられないのが詩人である。いったんは口をつぐみ、ことばを秘める。けれど、それは「書く」ことを通して「脳」の外へとでてくる。

  いつも景色を逆さまに見ながら
  誰も見ない真実を見る
  ブラックバードに乗って
         (「B・Bに乗って」) 

 小林の「脳」は「誰も見ない真実を見る」。それは言い換えると、小林のことばはいつも「誰も見ない」真実をめざして動いている。「誰も見ない真実」をことばにするために動いている、ということになる。小林は「誰も見ない真実」をことばにしたいのだ。詩にしたいのだ。 
 これは、とても「正直」な欲望である。小林の「脳」はとても「正直」である。
 「正直」すぎて、びっくりさせられることもある。
 「春(プリマベーラ)」の部分。

巧みに奏でられるどんな楽器よりも
直接的(ストレート)に語り問いかけてくる
人間(ひと)の声ほど心奪われるものは無い
震わせ 涙させるものはない

 ここに書かれている「心」は「脳」とは違うものだが、その「心」さえも、小林は、こんなふうに「脳」を動かして、ことばにしてしまうのだ。
 「脳」の力というものを感じてしまった。強靱な「脳」、鍛え上げられた「脳」というものに、ちょっと突き放された感じもする。近づきがたさ、というものを感じる。

刻まれている細胞のひとつが目覚めれば
全てが覚醒するまでに時間はかからない
ただ 解きたい言葉の謎があって
知る為に どの道を行けばいいのか
目の前の迷路に踏み込むことが出来ない
すでに戻れない事を予測してしまう臆病さ
横切る影が持つ鳥籠の中に何時も鳥は居ない

 引用最終行の「鳥」は「B・B(ブラックバード)」のことだろう。「解きたい言葉の謎」とは「解きたい脳の運動の謎」ということになるが、この苦悩は、苦悩として存在するのは「理解」できるが、それを納得できるほど、私の「脳」は強くはない。
 あ、すごい苦悩--と他人事として反応してしまう。
 この詩集は「脳」を生きるひとに向けて書かれた、「脳」を生き抜く覚悟をもった読者のための詩集なのだ。そう思った。



天秤座の夜
小林 Y節子
思潮社

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