詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『光うち震える岸へ』(6)

2010-06-14 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(6)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 「本質」と「不随」。その関係とそのまま同じではないけれど、「内部」と「外部」という世界の分類の仕方がある。「内部」は「精神」に通じ、「本質」にも通じる。
 とは、しかし、簡単に言ってしまうことはできない。
 「27」。ナイチンゲールが鳴いている。

鳴き声は正確な波型を描いて闇のなかを進み、部屋の窓ガラスをもなんなく突き抜ける。鳴き声は、闇をまとって静かに鼓膜をゆりうごかし、知らぬ間に心のうちに侵入し、すでに潜んでいた闇と同化すると、今度は私の胸のうちの深い闇から、ナイチンゲールの鳴き声が湧きあがってくる。

 この部分の「内部」「外部」は「層」をつくっている。部屋の外-ガラス窓によってしきられた部屋の内部、部屋の内部-鼓膜によって内と外を分け隔てられた肉体の内部(心=胸)。そして、その「しきり」(枠)をやすやすとのりこえてしまう「闇」一方にあり、他方にナイチンゲールの鳴き声がある。
 ガラス窓、あるいは鼓膜によってしきられた「外部」「内部」という関係から、「内部」を「本質」、「外部」を「不随」(私=精神に付随するもの)と定義すると、高柳誠特有の「本質」「不随」の入れ代わりは、どうなるだろう。
 「内部」(意識)は「本質」にみえて、実際は「本質」ではなく、「外部」こそが「本質」という関係は、なんだか説明しにくいものになる。

 ところが。

 この「内部」「外部」の関係を「窓の外-窓の内」「窓の内(肉体の外)-鼓膜の内部(肉体の内=こころ、胸)」そのものではなく、そこに同時にある、「闇」「ナイチンゲールの鳴き声」との関係でみつめなおすと違ったものがみえて来る。
 「肉体の内にあるもの、心、胸」を「本質」と考えるとき、その「外」にある「闇」「ナイチンゲール」は「不随(するもの)」である。
 その「付随(するもの)」が「内部(心、胸の内)」に入り込み、そこに居座り、「内部の内部」において自己主張する。そのとき、その「新しい内部」によって、「それまで内部だったもの(胸、心)」が「外部」になってしまう。
 ここでは、そういうことばの運動がおこなわれている。

 このとき、ここでは少しおもしろいことばの操作がおこなわれている。
 「闇」。このとこばは「外部」そのものにあるときは「光のない状態」(何も見えない状態)を差す。ところが、「心の内の闇」の場合、それは「比喩」である。つまり、実体がない。誰もそれをみたものはいない。
 現実の闇と、比喩としての闇が、よくよく読まないとわからないように、静かにまぎれこんでいる。

知らぬ間に心のうちに侵入し、すでに潜んでいた闇

 この闇は、「外の世界」の闇である。「心」のなかに「現実の闇」がもぐりこんでいる。それは「現実」である。けれども、心のなかのことなので「比喩」でしかない、抽象でしかない、ということもできる。
 よくよく読まないとわからない--ではなく、よくよく読んでもわからないように、「同化」した形で「闇」が書かれている。
 この「同化」を利用して(?)、つまり「外の闇」も「内の闇」も同じであるという「比喩」を利用して、その「比喩」のなかにナイチンゲールが侵入して来る。そして「比喩」のなかに居座り、そこから鳴き声を
発する。「比喩」の内部のことなので、このナイチンゲールの鳴き声も「比喩」になる。
 そして、その瞬間。

 「比喩としてのナイチンゲールの鳴き声」そのものが「本質」になる。--これは、「比喩」が「本質」である、という宣言に等しい。
 「外部」の存在が「比喩」となって「内部」に侵入し、つづいて「比喩」そのものとして「外部」に飛び出していく。言語化される。その瞬間の、「内部」「外部」の入れ代わり。「本質」「不随」のいれかわり。
 そこに、高柳の「詩」がある。

 比喩・同化の問題は、別の角度から、言いなおすことができる。「外部の闇(実在の闇)」が「心の内部の闇(=胸の内の闇)」という「比喩」になるとき、そこにはどんなことがおこなわれている。「闇」は「何も見えないもの」という定義が利用されている。何も見えないなら、その状態が「外」にあろうが、「内」にあろうが、同じである。つまり、そこには「同化」がおこなわれている。ある状態を「抽象化」し、その「抽象化」によって「ひとつの定義」が決定され、「ひとつの決定」をもとに別個の存在を「同一」とみなす(同化する)という作業がおこなわれている。
 「外部」において、「何も見えない」のは光がないから、である。「内部」においては? 重い悩みがある、他人に対するどうしようもない恨みがある--というようなことも「心の闇」になる。そういう「思い」が満ちあふれて、「何も見えない」、あるいはきぼうという「光」(比喩)が「見えない」状態が生まれる。「外部」と「内部」の闇は違ったものであるけれど「何も見えない」という表現で「抽象化」されると、そこでは「同化」も同時におこなわれ、「同化」があるから「比喩」になるのだ。
 比喩(同化)--この作業の前提には、ある存在から、さまざまなのもの剥ぎ取る、「具体的なことがら」を排除して、「抽象化する」という作業がおこなわれている。

 あ、でも、こんなふうに書いて来ると、では、そのとき「本質」と「不随」の関係は? どうなったのかな? うまく説明できるかな? よくわからない。私の考えは中断してしまう。「保留」という状態で、先へ進まなくなる。
 たぶん(というのは、私の我田引水なのだけれど、たぶん)、そういうことは高柳にもおきているのだと思う。そういうことがおきているからこそ、書くことをやめられない。少し進んで、そこで中断。その中断の積み重ねとしての動き。ことばの動き。そういうものでしか、何かを語るということはできないのかもしれない。
 だから、私も高柳を真似て(というのも、激しい「我田引水」なのだけれど……)、中断と積み重ねながら、高柳を読んでいく。



 きょうの「付録」。
 「闇」と「内部」の関係は「34」でも出て来る。おそらくフラメンコ歌手の声を聞いているときのことを描いているのだと思うが……。

声から漆黒の闇が溢れ出し、それがみごとな布のごとき造形となって空間に屹立する。まさに、豊饒な「生」の中心にのみ存在し、「生」を密かに支配する深い闇そのものだった。生命の本質としての闇。増殖し続ける闇。闇の声そのものに直撃されて、私のうちの闇もうごめきだす。いや、私の内部に存在しえない豊饒の闇をさえ、その声は次々と産み出させてしまう。

 フラメンコ歌手の声は、先に読んだナイチンゲールの鳴き声と似通った動きをする。私の「心(胸)のうち」に入り込み、そこから声を発する。
 フラメンコ歌手とナイチンゲールの違いは、その声が産み出すものの違いである。ナイチンゲールにとって「闇」は付随するものであったが、フラメンコ歌手にとっては「闇」は「本質」であった。

 あ、では、そのとき「本質」と「不随」の関係は?
 省略。いや、保留。中断。
 というか、こういうことは、一直線に何かを語れるようなものではなく、何度も中断し、反復しないと語れないことなのだ。
 私は、だいたい「結論」を想定して文を書きはじめないのだが、なぜかということを強引に言ってしまえば、「結論」というようなものは「弁証法」の「止揚」の果てにあるのではなく、「止揚」がうまくいかなくてつまずいた瞬間の、その足元に取り残されているという気がするからだ。


高柳誠詩の標本箱
高柳 誠
玉川大学出版部

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