詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『光うち震える岸へ』(7)

2010-06-15 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(7)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 「本質」とは何か。「本質」ということばが、この詩集にはたくさん出てくる。たとえば「29」。

剥げかかった塗料の藍や丹(に)が、永遠につづく反復性に深さを与え、意識が肉体を離れ去っていくような気の遠さをもたらす。この喪神の軽さこそが、この宮殿の本質ではないだろうか。

 「宮殿の本質」。たとえばアラベスクの壁の模様、たとえばアラビア風構造、イスパニア風構造--というのなら、つまり、宮殿の建物としての構造そのものを「本質」というのならわかりやすいが、高柳はそれを「本質」とは呼んでいない。ここで「本質」と呼ばれているのは、その建物(宮殿)が人間(私)に与える「影響力」のことである。
 「影響力」が「本質」であるなら、それは「宮殿」を構成する何かであってもいいし、あるいは宮殿に付随する何かであってもいい。
 実際、高柳がここで具体的に言及しているのは、アラベスクの模様そのものではなく、

剥げかかった塗料の藍や丹

 である。それはふつう私たちが建物(宮殿)の「本質」と呼ぶものとはかなり違う。どちらかといえば「不随」するものである。剥げかかった塗料というものは、何も、高柳がいまみつめている宮殿に特有のものではなく、完成後何年もたった建物に共通するものであって、それを建物の本質というのは奇妙である。
 けれど、高柳は「本質」という。
 精神に影響を与えるから、感情(感覚)に影響を与えるから--というのだが、でも、そのときの精神、感情、感覚というのは何? どんなふうに動いている?--たぶん、そのことが「本質」と呼ばれるものと深い関係がある。
 「影響」ではなく、「どんな」影響か、その「どんな」に「本質」がある。

意識が肉体を離れ去っていくような気の遠さをもたらす。

 「意識が肉体を離れ去」る--そこに、高柳は「本質」を見ている。ふつう、意識と肉体は融合している。その融合が何かの拍子で分離する。そして意識が肉体を離れ去る。
 肉体が意識を離れ去る、と言わないのは、肉体のなかに意識がある、意識が肉体の内部から人間を支えている「本質」である、という思考がそこに働いているかもしれない。
 それは、あるいは逆に、意識が肉体に縛られている(閉じ込められている、自由を失っている)ということかもしれない。そうすると、精神が「不自由」であるということが人間の「本質」であり、その「本質」から「自由」になって、意識が自在に動き回るというのは、一種の夢・希望ということになるかもしれない。
 そして、その夢・希望こそ、人間の「本質」の姿であると言いなおすこともできるかもしれない。

 あ、なんだか、ややこしくなった。

 高柳は「本質」を、純粋に(?)何かを支える「基本」とは考えていない。たとえば宮殿の本質は、それをつくりだした人間の科学・哲学・宗教という具合に、宮殿そのものを構成するもの、あるいは「不随」するものではなく、それが働きかけ、人間が受け止める「影響」のなかから生まれてくるものと考えている。
 「本質」を運動と考えている。動かないものではなく、動くもの。その「動く」ということに「本質」を見ている。
 それも、みずから動いていくというよりも、何かに影響されて動いていくということに「本質」を見ている。たとえばこの宮殿の部分では宮殿のあり方に影響されて動いていく、そのときの「動き」に「本質」を見ている。
 つまり(つまり、といっていいかどうか、よくわからないのだが)、「動き」が「本質」になるとき、そこには「動き」の「主体」だけではなく、「他者」が存在する。「他者」と「自己」の関係のなかから、「自己」の精神が「動いていく」--その「動き」のなかに、「本質」というものがある。

 この考えは、「40」でも別の形で書かれている。

肉体を、生まれた土地、生活する土地とは別の場所に置いてみること。そして、乗り物によってたえず移動させること。旅の本質は、そこにしかない。乗り物にゆられ続けるその振動によって、肉体と意識との癒着に少しずつ亀裂が入り、やがて、リンパ液のようなものが滲み出てくる。移動と振動のためにジクジク滲み出たリンパ液は、新たな関係を繋ぎとめる直前に、たえずそれを破壊してしまう。せっかく張ったかさぶたを、治りかけについ剥がしてしまうように。すると、その傷口に、旅の情景が見知らぬ己の過去のようにヒリヒリ染みこんでくるのだ。

 ここにも「肉体」と「意識」の分離がある。その「分離」が、「分離」という運動が「本質」である。
 人間の。
 そうなのだ。高柳は、どんなものについて書くにしても、「本質」というとき、それは「対象」そのものを指してはいない。「対象」ではなく、「人間」の本質。何かに向き合う。(他者と出会う)。何かをする。そのとき、人間の内部において生じる運動--精神の運動を、高柳は「本質」と呼んでいる。そして、その運動を、高柳は、ことばで表現する。
 だから、……だからというのも、へんないい方だが。

 私は突然、欲望に襲われる。
 高柳が「旅」と書いているものを「ことば」と置き換えてみたいと。「旅」に関するさまざまな表現を「ことば」と書き換えてみたいと。突然、そう思う。そうすると、きっと高柳がやっていることがすべてわかるはずだ。
 つまり。

肉体を、生まれた土地「のことば」、生活する土地「のことば」とは別の場所「のことばのなか」に置いてみること。そして、「生まれ育った土地でつかわれていることばというという乗り物ではなく」、「あたらしく出会った何かにふれて動きだすことばという」乗り物によってたえず移動させること。旅の本質は、そこにしかない。「人間の本質は、そのときにあらわれる」。「他者のことばという」乗り物にゆられ続けるその振動によって、肉体と意識(生まれ育った土地のことば、なじんだことば)との癒着に少しずつ亀裂が入り、やがて、リンパ液のようなもの(肉体の奥に存在する、肉体を護り、同時にゔごきに影響を与えるもの)が滲み出てくる。(いままで意識しなかった「ことば」が肉体の奥から滲み出てくる。)

 そんな風に、ならないだろうか。
 そして、このあとが、また高柳独特の世界になる。

移動と振動のためにジクジク滲み出たリンパ液は、(つまり、いままで意識してこなかった肉体の奥に存在していたことばは)、新たな関係を繋ぎとめ(、そうすることであたらしい世界を描き終わ)る直前に、たえずそれを破壊してしまう。せっかく張ったかさぶたを、治りかけについ剥がしてしまうように。(なぜか。つなぎとめてしまっては、また「意識」が「肉体」のなかにしまいこまれ、「自由」ではなくなるからだ。)すると、その傷口に、旅の情景が見知らぬ己の過去のようにヒリヒリ染みこんでくるのだ。(傷口から、肉体の奥に存在していた見知らぬことばが、じわりと滲んできて、その新しい自分こそが、私の「本質」である、と感じることができる--その喜びを味わうことができる。)

 ことばによって、ことばを動かすことで、自分自身の「肉体」のなかに存在する「リンパ液」のような、意識できなかったことばを解放する。その解放されたことばこそ、人間の「本質」である。その「本質」をひきだすために、高柳は、旅をし、旅をすることで、他者のことばに出会う--それをくりかえしている。
 そんなふうに言ってみたくなる。

 ことばの運動。運動することば。それが「人間の本質」であり、「詩」である。


鉱石譜
高柳 誠
書肆山田

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