詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェーン・カンピオン監督「ブライト・スター」(★★★)

2010-06-20 15:09:27 | 映画

監督 ジェーン・カンピオン 出演 アビー・コーニッシュ、ベン・ウィショー、ポール・シュナイダー、ケリー・フォックス

 ジェーン・カンピオンの映画を見ると、いつも「違う人間」を感じる。「違う人間」というは「私」とは違う人間、という意味である。そして、それは「女」という意味でもある。
 どの映画にも女は出てくる。男の監督の映画にももちろん出てくるし、女の監督もいまはたくさんいる。けれど、そこに描かれている映像から女を感じるというのは意外と少ない。私の場合、ノーラ・エフロン監督とジェーン・カンピオン監督は、何かしら特別に感じる。あ、女、といつも思うのである。あ、そうなんだ、女はこんなふうに世界を見ているのだ、女にはこんなふうに世界が見えるのだ、とびっくりしてしまうのである。
 そして、ノーラ・エフロンの場合、そこに描かれるのは「女の空気」であるのに対し、ジェーン・カンピオンの場合「女の触覚」である。「肌」である。女は肌で感じる、肌で知る--いつも、そう思うのだ。そして、その肌は観念ではなくて、ほんとうに肌、女自身をつつんでいる「もの」である。



 冒頭、主人公が裁縫をしているシーンがアップで映し出される。布と糸と針と手。それはいつも触れ合っている。触れ合うだけではなく、しっかりと結びつき、離れない。この触れ合いながら、触れることで、結合が深まっていく、そして何物かが完成する--この感覚を、ジェーン・カンピオンは、いつもしっかり映像にする。
 私は、いつも、そのシーンにどきりとする。
 たとえば「ピアノ・レッスン」。女がピアノを弾く。男がピアノの下にもぐりこむ。そして、女の足に触る。たださわるのではなく、ストッキングの破れ目、丸い穴をみつけ、それに触る。ストッキングの穴に触る--は、女の裸の肌に触るということでもある。それは、まあ、男から見てもエロチックではあるのだけれど、そのシーンは、男の欲望をあらわしているというよりも、女の、触られたときの欲望をあらわしている。男がストッキングの穴に触る。瞬間、画面が切り替わり、女の顔。男が穴に(肌に)触っているのを知り、そのことを感じながらピアノを弾きつづける。あ、すごい、と思った。
 こんな映像は、男には思いつかない。
 「ブライト・スター」には女が裁縫をするシーンが何度も出てくるが、それと同時に、自分のつくったものをていねいに触り、それを自分の肌に重ねてみるシーンも何度も出てくる。このとき、女は、そのできあがった形を見ているだけではない。形よりも、その感触、自分の肌にぴったりあうかどうかを試している。--ほかの人にはどう見えるかわからないが、私には、そんなふうに見える。ドレスは女にとって(少なくとも、この映画の主人公にとって)、形ではなく、感触である。自分の肌になじむかどうかである。
 いつでも感触を生きている。それは、たとえば布を離れたもの、「手紙」にもあらわれている。もちろん、この映画に出てくる手紙のスタイルは当時の様子を再現しているだけのものといえばそうなのかもしれないが、その文字を書いて紙を畳んで封筒をかねた手紙。それを、破るではなく、ほどく。その感じ。それは「裁縫」と同じ。縫って、ほどく。ほどくと、そこに「ことば」というこころの「肉体」が見えてくる。手紙は、こころをつつんで手渡し、そしてそれがほどかれ、そのときこころがどうなってもいい、こころを相手に任せる、ということなのだ。
 バレンタインにとどけられた花と手紙--それはキーツではなく、キーツの友人のものだった。それに対してキーツが以上と思えるくらいの怒りを発する。それは、その当時の「精神状態」をあらわしているというよりも、女の「理想」のようなものをあらわしている。女は、男にそうあってほしいと望んでいるのだ。その望みが、そんな形で映像化されている。

 あ、こんなことをくだくだ書いてもしようがないね。

 大好きなシーンがいくつもある。ひとつは、女がキーツと別れたあと、ひとりでベッドに横になっている。窓が開いている。風がカーテンをなびかせる。カーテンが女の体に触れるようにして動く。このとき、女は、キーツの「空気」を感じている。全身で感じている。キーツが布であったなら、風になびく布であったなら。触れようとして、触れられない。なぜなら、カーテンには長さがあって、その先はレールにとめられているから。このときの「距離」。それは離れているのだけれど、離れているだけに、その「離れた」ところへ、こころがあふれていく。
 肌と肌の直接の触れ合いのかわりに、こころが風のように触れ合っている。その風の中に光がある。カーテンが強く吹き上げられるたびに、部屋に光がひろがり、女が輝く。いやあ、美しい。女は、なんというのだろう、憎いことに、その輝きを知っている。自分が、いま、触れようとして触れられない何物かの訪問を受けながら、輝いているということを知っている。知っているので、動かない。
 だれも見ていない--けれど、その姿を、みんなにみせびらかしている。(すくなくとも、映画の観客にはみせびらかしている。)
 こんな映像、男の監督には全体に思いかつかないだろうなあ。
 キーツと女が壁越しに相手を感じるシーンも美しい。(チラシにもなっているシーンだ。)声を出せば聞こえる、壁をたたけば聞こえる。自分がここにいる、と互いに知らせることができる。けれど、そういうことはしない。ただ、壁を手で触れ、壁にほほをよせて、じっとしている。まるで、壁が相手の「肌」であるかのように。
 目で見るのはなく、声を聞くではなく、触る。直接触れ合うのではないのだけれど、直接触れ合わないことによって、逆に触れ合っていることが「確信」できる。女が「触れる」とき、それは「確信」するときなのだ。

 とても美しい--と感じながらも、私は、この映画を「傑作」とは思わない。
 理由は簡単である。「触れる」ということ、ジェーン・カンピオンが女を描くときの中心的な「思想」が、この映画では不完全燃焼を起こしているからである。映像は美しいし、ヒロインも魅力的だ。けれど、不完全燃焼をおこしている。それは、映画のもう一方の主役、詩(キーツ)が、ことばだからである。
 ことばは触れることができない。
 そのためにジェーン・カンピオンの映像が空回りする。「手紙」はたしかに美しいが、それだけではちょっと物足りない。「詩集」も出てくるが、本の手触り、というものが女を魅了していない。本に触れることで女が変わるという感じのシーンがない。(あるのかもしれない。私が見落としているのかもしれないが。)本を、詩を、目で読む。ことばを声にだし、耳で聞く。でも、そのとき「触覚」は? ドレスをつくるときの、あの、すべてのものを自分の指で結びつけて、いままでなかったものを生み出すという喜びは?
 指と(肌と)ことばの戯れ--そういうものが映像化されれば、この映画は完璧になるのに、と残念に思った。



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坂多瑩子「母その後」ほか

2010-06-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「母その後」ほか(「ぶらんこのり」19、2010年06月10日発行)

 私は不謹慎な人間である。笑っていけないときでも、笑うことを我慢できない。坂多瑩子の「母その後」は笑ってはいけない詩かもしれない。どう読んでみても、亡くなった母親のことを書いているからである。
 でも、私は、笑ってしまう。
 
多発性脳梗塞で
何もできなくなってしまった
母は
夢のなかでも
何もできなくて
下ばかり向いていたが
あるとき死んでしまってからは
急に元気になって
長電話をしたり
お茶したりで
いまのとこ結構楽しげにしているけど
あんまり慣れすぎても
またまた
嫌みのひとつでもいいそうで
一度死んだんだから
老いたら子に従うとか
昔の人はいいこと言ったねえぐらい
いってほしいとこだけど
わたしが眠ると
待ってましたとばかり
うろうろしている
あっ
ころんだ また

 母を亡くす--そうして、どうしたって母を思い出す。その母は、脳梗塞を起こして何もできない母ではなく、元気なときの母である。それを

急に元気になって

 と書く。
 そこに不思議な愛情がある。
 この「急に元気になって」は、「やっと元気になって」(病気が回復して)という喜びというよりも、一種の「憎まれ口」である。「憎まれ口」というのは不思議なもので、それが言える相手は限られている。憎まれ口を言っても、それが許されるというか、憎まれ口を何かで吸収してしまえるような信頼感があるとき、そこに不思議な輝きが宿る。安心感に似た温かさが宿る。
 憎まれ口を「嫌み」と坂多は言っているが、嫌みをいいながら、自分の本音をつたえる。そういうことができるのは親子だからだねえ。
 最近(といっても、もう3か月ほど前になるかもしれない)見た映画に、韓国の「牛の鈴」という作品がある。おじいさんは老いた牛を大事にしている。おばあさんがそれを見ながら「わたしのことなんかちっとも気にかけてくれないで、おいぼれた牛ばっかりせわして」「役立たず」というようなことを言う。その「嫌み」というか、怒鳴り散らしは、けれどとても温かい。おじいさんの牛にかける愛情もよくわかっているし、おばあさんも牛を愛している。怒鳴り散らしながらも、嫌みをいいながらも、そうすることで自分自身を解放している。「気持ち」を体のなかにため込んで、そのために苦しむということがない。そういう明るさ。温かさ。
 
 そこにあるものは、あるいは「甘え」ということかもしれない。「わたしの方が一生懸命働いているのに、気にもかけてくれない。おいぼれ牛の方がわたしより大切なのか」というのは、「わたしをもっと大切にして」という「甘え」の裏返しの表現である。
 「甘え」というのは大切なものである。「甘え」というのは、ある意味で「助け」を求めるということだけれど、その「助け」を求めるということは、相手を信頼しているということである。どうなってもいいから、なんとかして。どうにかなるように、なんとかして。
 それは、自分を放り出す。相手に差し出すということを含んでいる。

 それに似た何かがある。私は坂多瑩子も知らないし、その母親も知らないけれど、あ、二人とも「気持ち」を自分のなかに閉じ込めて、そのために「とどかない」人になってしまうのではなく、いつでも「気持ち」を自分の外に出して、とどきあっていた人なのだとわかる。あるいは、「とどけあっていた」。
 どんなに離れていても、とどく、そういう関係。
 だから、ほんとうにとどかない距離、生きている人間と死んでしまった人間になっても、「とどく」を生きることができる。

わたしが眠ると
待ってましたとばかり
うろうろしている
あっ
ころんだ また

 この最後、終わり方がとてもいいなあ。
 せっかく眠ったんだから、ちゃんと眠らせてよ。心配させないでよ。と「嫌み」をいいながら、それでも、心配で見ている。生きていたときと同じように、母は死んでしまっても、うろうろして、転ぶ。それを見て、「あっ」と叫んでしまう。「また」と言ってしまう。
 その声、きっと、亡くなった坂多のおかあさんにとどいている、と感じる。「いいじゃない、ころんだって、年寄りなんだから。おまえは、ほんとうに冷たくて嫌みな娘だねえ」なんて、振り返っておかあさんは言うかもしれない。
 いいなあ、この発展性のない(?)会話。
 発展性のない--というのは、へんな言い方だけれど、日常の、愛、というのは発展しない。いつも、いつものまま、そこにある。かわりがない。変化しないのが、愛、なのだ。しみじみと思ってしまう。

 「立ち話」にもへんなところがある。言ってはいけないことを言ってしまう、そして、それが言えるという不思議な「人間」の広さがある。そこでも、何かが「とどいている」。何が「とどく」なのか--それは、きっとだれにも言えない(少なくとも、私は、まだそれを言うことができない)。

献体を申し込んできたと
八十七歳になる一人暮らしの隣人が言った
死んだらすぐに行かなくちゃならないから
とても忙しそうな顔をして
近所には内緒だそうだ
葬儀は身内だけで簡単にすませると言う
たしかに
献体は
新鮮さがいい
そうしなさい
ある朝 そうしゃべった

 「死んだらすぐに行かなくちゃならないから」って、どこへ行くんだろう。「天国」かな? この世ではなく、あの世へ、すぐに行かなければならないのか--そうか、ぐずぐずしていてはいけないのか。と、私は、なぜか感心し、不思議に納得してしまう。
 坂多も納得したのかな?
 坂多が実際に感じたことは、よくわからない。よくわからないのだけれど、その「すぐに行かなくちゃならない」に対して、引き止めるでもなく、「献体は/新鮮さがいい/そうしなさい」と言うところが、いいなあ。
 納得を通り越して、後押ししている。
 献体をすすめることは、死ぬことを後押しすることになってしまうのだが、死ぬというのはとても苦しくて大変だから、こんなふうに後押しされることを、ひとはもしかすると望んでいるかもしれない。

 ちょっと余談。ほんとうにあった話。
 あるひとがいまわの際で苦しんでいる。なかなか死ねない。死なない、というより死ねない。だれもがどうしていいか、わからない。そのとき、あるひとが「もうすぐだからね、がんばってね」と励ました。すると、その声を聞いて、そのひとは、すーっと息を引き取った。
 死ぬ人を励ます--というのはへんなことだけれど、きっと励まされなければだれも死ねないんだと思う。
 坂多は、そういうことを、自然に知ってしまっているのかもしれない。


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