監督 ジェーン・カンピオン 出演 アビー・コーニッシュ、ベン・ウィショー、ポール・シュナイダー、ケリー・フォックス
ジェーン・カンピオンの映画を見ると、いつも「違う人間」を感じる。「違う人間」というは「私」とは違う人間、という意味である。そして、それは「女」という意味でもある。
どの映画にも女は出てくる。男の監督の映画にももちろん出てくるし、女の監督もいまはたくさんいる。けれど、そこに描かれている映像から女を感じるというのは意外と少ない。私の場合、ノーラ・エフロン監督とジェーン・カンピオン監督は、何かしら特別に感じる。あ、女、といつも思うのである。あ、そうなんだ、女はこんなふうに世界を見ているのだ、女にはこんなふうに世界が見えるのだ、とびっくりしてしまうのである。
そして、ノーラ・エフロンの場合、そこに描かれるのは「女の空気」であるのに対し、ジェーン・カンピオンの場合「女の触覚」である。「肌」である。女は肌で感じる、肌で知る--いつも、そう思うのだ。そして、その肌は観念ではなくて、ほんとうに肌、女自身をつつんでいる「もの」である。
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冒頭、主人公が裁縫をしているシーンがアップで映し出される。布と糸と針と手。それはいつも触れ合っている。触れ合うだけではなく、しっかりと結びつき、離れない。この触れ合いながら、触れることで、結合が深まっていく、そして何物かが完成する--この感覚を、ジェーン・カンピオンは、いつもしっかり映像にする。
私は、いつも、そのシーンにどきりとする。
たとえば「ピアノ・レッスン」。女がピアノを弾く。男がピアノの下にもぐりこむ。そして、女の足に触る。たださわるのではなく、ストッキングの破れ目、丸い穴をみつけ、それに触る。ストッキングの穴に触る--は、女の裸の肌に触るということでもある。それは、まあ、男から見てもエロチックではあるのだけれど、そのシーンは、男の欲望をあらわしているというよりも、女の、触られたときの欲望をあらわしている。男がストッキングの穴に触る。瞬間、画面が切り替わり、女の顔。男が穴に(肌に)触っているのを知り、そのことを感じながらピアノを弾きつづける。あ、すごい、と思った。
こんな映像は、男には思いつかない。
「ブライト・スター」には女が裁縫をするシーンが何度も出てくるが、それと同時に、自分のつくったものをていねいに触り、それを自分の肌に重ねてみるシーンも何度も出てくる。このとき、女は、そのできあがった形を見ているだけではない。形よりも、その感触、自分の肌にぴったりあうかどうかを試している。--ほかの人にはどう見えるかわからないが、私には、そんなふうに見える。ドレスは女にとって(少なくとも、この映画の主人公にとって)、形ではなく、感触である。自分の肌になじむかどうかである。
いつでも感触を生きている。それは、たとえば布を離れたもの、「手紙」にもあらわれている。もちろん、この映画に出てくる手紙のスタイルは当時の様子を再現しているだけのものといえばそうなのかもしれないが、その文字を書いて紙を畳んで封筒をかねた手紙。それを、破るではなく、ほどく。その感じ。それは「裁縫」と同じ。縫って、ほどく。ほどくと、そこに「ことば」というこころの「肉体」が見えてくる。手紙は、こころをつつんで手渡し、そしてそれがほどかれ、そのときこころがどうなってもいい、こころを相手に任せる、ということなのだ。
バレンタインにとどけられた花と手紙--それはキーツではなく、キーツの友人のものだった。それに対してキーツが以上と思えるくらいの怒りを発する。それは、その当時の「精神状態」をあらわしているというよりも、女の「理想」のようなものをあらわしている。女は、男にそうあってほしいと望んでいるのだ。その望みが、そんな形で映像化されている。
あ、こんなことをくだくだ書いてもしようがないね。
大好きなシーンがいくつもある。ひとつは、女がキーツと別れたあと、ひとりでベッドに横になっている。窓が開いている。風がカーテンをなびかせる。カーテンが女の体に触れるようにして動く。このとき、女は、キーツの「空気」を感じている。全身で感じている。キーツが布であったなら、風になびく布であったなら。触れようとして、触れられない。なぜなら、カーテンには長さがあって、その先はレールにとめられているから。このときの「距離」。それは離れているのだけれど、離れているだけに、その「離れた」ところへ、こころがあふれていく。
肌と肌の直接の触れ合いのかわりに、こころが風のように触れ合っている。その風の中に光がある。カーテンが強く吹き上げられるたびに、部屋に光がひろがり、女が輝く。いやあ、美しい。女は、なんというのだろう、憎いことに、その輝きを知っている。自分が、いま、触れようとして触れられない何物かの訪問を受けながら、輝いているということを知っている。知っているので、動かない。
だれも見ていない--けれど、その姿を、みんなにみせびらかしている。(すくなくとも、映画の観客にはみせびらかしている。)
こんな映像、男の監督には全体に思いかつかないだろうなあ。
キーツと女が壁越しに相手を感じるシーンも美しい。(チラシにもなっているシーンだ。)声を出せば聞こえる、壁をたたけば聞こえる。自分がここにいる、と互いに知らせることができる。けれど、そういうことはしない。ただ、壁を手で触れ、壁にほほをよせて、じっとしている。まるで、壁が相手の「肌」であるかのように。
目で見るのはなく、声を聞くではなく、触る。直接触れ合うのではないのだけれど、直接触れ合わないことによって、逆に触れ合っていることが「確信」できる。女が「触れる」とき、それは「確信」するときなのだ。
とても美しい--と感じながらも、私は、この映画を「傑作」とは思わない。
理由は簡単である。「触れる」ということ、ジェーン・カンピオンが女を描くときの中心的な「思想」が、この映画では不完全燃焼を起こしているからである。映像は美しいし、ヒロインも魅力的だ。けれど、不完全燃焼をおこしている。それは、映画のもう一方の主役、詩(キーツ)が、ことばだからである。
ことばは触れることができない。
そのためにジェーン・カンピオンの映像が空回りする。「手紙」はたしかに美しいが、それだけではちょっと物足りない。「詩集」も出てくるが、本の手触り、というものが女を魅了していない。本に触れることで女が変わるという感じのシーンがない。(あるのかもしれない。私が見落としているのかもしれないが。)本を、詩を、目で読む。ことばを声にだし、耳で聞く。でも、そのとき「触覚」は? ドレスをつくるときの、あの、すべてのものを自分の指で結びつけて、いままでなかったものを生み出すという喜びは?
指と(肌と)ことばの戯れ--そういうものが映像化されれば、この映画は完璧になるのに、と残念に思った。
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