詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白井知子「九歳の鎖骨」

2010-06-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「九歳の鎖骨」(「祷」40、2010年06月15日発行)

 白井知子「九歳の鎖骨」は祖母の思い出を書いている。(Ⅰ)(Ⅱ)とふたつのパートに分かれている。(Ⅰ)のなかほどが強烈で、何度も読み返してしまう。

夏もおわるころ 祖母は亡くなり
わたしのもとへやってきた
--ぞっくりと寒くなっちまってね
  傷口が攣れる おまえのどこでもいいから被せておくれ
祖母は軍鶏(しゃも)の目で睨めつけてくる
きしむ鶏小屋の隅
しゃがんでいる私を動けなくする
--さあ 羽繕いをしておくれな
--だって 白髪抜いたら 頭つるつるになるちゃうよ
嘴でいきなり鎖骨のあたりを突つく
軍鶏の腐りだした贓物が透けてくる
蹴爪があっても まだ人間の老いた脚だ

 軍鶏と祖母が区別がつかなくなる。おばあさんは軍鶏に似ていた。軍鶏はおばあさんに似ていた。どちらかわからない。こわくて、きもちわるい。こわくて、きもちわるいのに、言っていることがわかってしまう。言っていることがわかるから、こわくてきもちがわるい。いや、きもちがわるいなんて言ってはいけない。そういうことを思ってはいけない。こわい、というのも、軍鶏になら思っていいけれど、おばあさんにそんなことを思ってはいけない。
 いけないことは、わかっている。
 わかっているから、白井は、いままで、そのことを書けなかった。いままで書けなかったけれど、書きはじめると、ことばはどこまでも動いていく。
 まるで、思ってはいけないと思っていたことの、その最奥部にあったようなことまで、えぐりだしてきてしまう。思ってはいけないと思うこころが隠していた「ほんとうのこころ」をえぐりだしてしまう。
 「軍鶏の腐りだした臓物」はおばあさんの贓物というより、まるで白井自身の、やがて腐る贓物のようでもある。
 書くと、おばあさんと軍鶏が似てくる、同じになるだけではなく、そこに白井も重なってしまう。「九歳」のはずなのに、「九歳」では言えないことを言ってしまう。「九歳」ではなくなってしまう。おばあさんの年齢も通り越してしまう。
 次の行に、そのことがくっきりと出てくる。

かわいがっていた軍鶏の胴体や頭を少しずつもらって継ぎはいで
三十八億年かけてきた道を
脚をひきずりながら還っていく

 「三十八億年」。これは地球のいのち。言ってはいけないと思い、隠してきたこと、それをことばにした瞬間、白井は白井ではなくなる。おばあさんでも、軍鶏でも、九歳の少女でもなく、生きている「いのち」そのものになる。生きているというのは、死んでゆく、腐ってゆくということであり、それは「いのち」の変化をしっかりみつめ、かわってゆくのをみつめるということが「生きる」ということだ……。
 「いのち」がぐるぐるまわる。そして、「いのち」に還える--ではないなあ。還えるのではなく、「三十八億年」をつらぬくものを見る、ということかもしれない。
 (Ⅱ)の部分。

半世紀ちかくたち
わたしはアジアや東欧で
祖母とおぼしき老女に出あうことになった
考えてみれば 五十年など三十八億年にくらべれば一瞬

インド亜大陸
コルカタから二百キロ北にあるシャントニケン
褐色の肌をした原住民
少数民族サンタル人の村は
牛糞が家や塀に塗りつけられていて
どこか懐かしい
翠のサリー 千年二千年も過去のような風景の祠にもたれ
はるか彼方を見つめる老婆になりすまし
ちらり ちらり こちらを盗み見ているのがわかった
あのポーズは祖母の癖だ

 それは「祖母の癖だ」を通り越して、「祖母」そのものである。50年前に死んだおばあさんは38億年生きた「いのち」そのものなのだから、そして「軍鶏」でさえあるのだから、地球のどこか、コルカタ(カルカッタ)の北 200キロにある村のおばあさんとして生きていてもぜんぜん不思議はない。38億年のいのちの動きのなかでは、距離なんか関係ない。軍鶏どころか、人間が、壁に塗り付けられた牛糞であっても、ぜんぜん不思議はない。いや、人間は牛糞そのものでもあるからこそ、「懐かしい」のだ。人間は、軍鶏の腐った贓物であったこともあれば、壁に塗り付けられた牛糞であったこともある。(もちろん、牛そのものであったこともある。)
 そして、ただたくましく生きているわけではない。(Ⅰ)にあったように、寒くなって、九歳の少女が恐がることを知りながら、

--ぞっくりと寒くなっちまってね
  傷口が攣れる おまえのどこでもいいから被せておくれ

 と、拒むことのできない力で甘えてくる、というか、頼ってくることもあるのだ。人間は強く生きているだけではなく、弱く生きている。甘えて生きている。そして、そんなふうに弱みを見せたり、甘えたりすることが、結局、強いということかもしれない。

 私の書いていることは矛盾している。
 白井は、私の書いているような矛盾を書きたかったのではないかもしれない。
 けれども、私は、そこに「矛盾」が書かれていると「誤読」する。そして、その「矛盾」のなかに、「三十八億年」につながるもの、「三十八億年」を超えていくものがあると感じてしまう。
 おばあさん、死んでゆくのがわかっているおばあさんの記憶は、こわい。こわいけれど、とてもあたたかい。あたたかいというのは、たぶん、正確ではないかもしれないが、あたたかいとしか呼びようのないものである。なぜなら、それは「いのち」と重なっているからだ。
 そんなことを思っていると、白井自身も、「あたたかい」ということばをつかっていた。「温かい」と白井は書いていた。

中央アジアへ移って
ウズベキスタンのソグディアナの地 サマルカンド
強風と寒さのため ナンを売る女性たちが
せっせと足踏みしていた
その年初めての雪の降りしきるバザールで
中の一人が振りかえりざま
九歳の鎖骨に疼いた
目許から祖母の温かさがわいてくるから不思議だ

 「不思議だ」と白井は書いているが、ここに不思議はない。この不思議は「なつかしい」である。「うれしい」である。「生きていてよかった」という喜びである。「生きるっておもしろい」である。




秘の陸にて
白井 知子
思潮社

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