詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(129 )

2010-06-02 23:02:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のことばは「もの」と向き合っているのか。「もの」と対応しているのか。つまり、「流通言語」のように、「りんご」ということばは「りんご」と向き合っているのか。これは、むずかしい。
 セザンヌの「りんご」が「りんご」と向き合っているか--というと、私は向き合っていながら向き合っていないと思う。「りんご」ではなく、りんごの「形」「色」と向き合って、そこからその形と色を超越しようとしているという形では向き合っているが、「りんご」になろうとはしていない。
 同じように、西脇のことばは、「もの」と向き合いながらも、「もの」とは向き合っていない。「もの」になろうとはしていない。
 そして、これからが、ちょっと面倒くさい。
 セザンヌの「りんご」が「りんご」になろうとしないことによって、絵画としてのりんごになるように、西脇のことばも「もの」になろうとしないことによって、詩のなかで「もの」になっていく。

 あ、こんな書き方ではわからないね。整理して説明したことにはならないね。--でも、それ以上は、私には書けない。漠然と、私は、そういうようなことを考えている。西脇のことばを読みながら。

 「神話」。

九月の末に
驚くべきひとに会いに
野原を歩いていたことがあつた
何も悲しむべきことがなかつた
粘土の岩から茄子科の植物が
なすのような小さな花をたらして
いるが悲しむほどのものではない

 ここに書かれている「茄子科の植物」。これはもう「植物」ではない。「驚き」や「悲しみ」のように、人間の感情であり、そうであることによって、「ことば」になっている。
 それは「混同」である。
 数行先に、次の行がある。

つゆ草が
コバルト色の夏を地獄へつき落とそうと
している以外に
人間と神話との混同をみることが
出来ないのだ

 「混同」することで、どちらでもなくなる。「もの」を「ことば」を超越する。それは「ことば」ではないから、それをことばで説明することはできない。できないけれど、そんなけとを言ってしまうと、批評(感想)というものは成り立たないので、不可能と知っていながら、こんなことを書いている。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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豊原清明「<14>ディスク」

2010-06-02 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「<14>ディスク」(「白黒目」23、2010年05月発行)

 豊原清明「<14>ディスク」は短編映画シナリオ。豊原のことばは、いつでもおもしろい。「いま」なのに、「いま」以外の時間がある。
 こどもが外から帰ってくる。家では家庭教師がまっている。そういうシーンがある。

○ 希の家(夜)
希の母・良子「お帰り。」
希「ウン」
希の弟・伸一「来てるで。裕也さん。」
希「…。そう。お風呂入って来る。」

○ 居間
良子「すみませんねえ。」
   家庭教師の山霧裕也(21)がにこにこしている。
   良子、お菓子とお茶をテーブルに置く。
裕也「おい。遊ぶか?」
   伸一に、キューブを投げる。
   喜ぶ、伸一。
裕也「(ぼうとしている)」

 ここには何も書かれていない。何も事件がない。そして、事件がないということ書くと、そこに「過去」が噴出してくる。そして、それは「未来」まで、行ってしまう。何も書かれないないということは、そこには「過去」の運動を止めるものは何もないということだからだ。こういうときの「未来」は「無限」である。さえぎるものが何もないからである。何もかかないことで、すべてを書くのだ--といいかえてもいい。
 この放心の、不思議な充実。

 あ、ちょっと急ぎすぎた。
 「過去」について、補足しよう。
 豊原の書いている「過去」にはひとつの特徴がある。書いている、と私は書いたが、実は豊原は「過去」を書いていない。そこには「過去」が欠落している。その「欠落」が、「過去」を呼び覚ます。--私の「過去」を。
 そこには何も書かれていないかゆえに、私は私の「過去」を見てしまう。豊原のことばなのに、豊原を離れて「私」を見てしまう。「私」が見てきたものを見てしまう。
 (それは、実際に映画のシナリオである場合は、演じる役者の「過去」を要求するという形で動くと思う。役者は、そこに書かれていない「過去」を自分の「過去」から引っ張りだしてきて、役者自身の「肉体」として演じなければならない。)
 どんな、「過去」が私には見えたか--。
 外で遊んでから帰ってきた。ほんとうは家庭教師について勉強しなければならないのだが、したくない。風呂に入りたい、と言って自分の欲望を優先させる。そういう「気持ち」の「過去」が私には感じられる。
 このとき、希は、ほんとうに風呂に入りたかったのか。そうではなくて、ただ家庭教師について勉強するのがいやで、それまでの「時間」を引き伸ばしているのだ。

 この「時間」を引き延ばすということのなかに、豊原の特徴が(思想が)あらわれていると思う。
 豊原はいつでも「時間」が「未来」へ規則正しく進んでいくことを望んではいない。「時間」を止めてしまって、いま、この瞬間を、増やしたい。「いま」を増やすと、そこへ「過去」がどんどん押し寄せてくる。「気持ち」がどんどん強まってくる。そして、それが爆発する。
 希が家庭教師といっしょに勉強したくないのは、なぜか。その理由が、そこには書かれていないけれども、私の内部で、何か、答えのようなものが積み重なってくる。そんなこと、書かれていなくたって、誰にでもわかる。「勉強」というめんどうくさいこと、きちと時間の順序にしたがって、ものごとに対する理解を深めていくこと。そういうことが嫌いなのだ。

 こんなふうに書いてくると、もっとよくわかる。
 豊原は(ここでは、希という人間になっているのかもしれない)、「時間の順序」など気にしない。そこに「充実」さえあれば、それでいい。豊原がもとめているもの、探しているものは、時間の充実なのだ。それも、自分の「外」にある時間ではなく、自分の「内部」にある時間を充実させたいのだ。
 自分の「外」の時間は、社会の決まり(どうすれば金がもうけられるか、も含めて)に、支配されている。統一されている。それを自分のものとして充実させる方法(たとえば、権力者になって社会を動かすという方法)もあるけれど、豊原のもとめているのはそういうものではない。「外」を支配する時間は、豊原には、苦痛である。「決まり」が苦痛である。
 その「決まり」から自分自身を解放し、「内部」の時間を豊かにするために、「内部」を耕すために、豊原はことばをうごかしている。誰も書いていないことば--そこに、豊原のもとめている「時間」がある。

 誰も書いていないから、それは豊原にも書けない。書けないから、書く。そこに、たとえば別な「肉体」を想定し、その「過去」を思いっきり噴出させることができる形で、つまり、書かれたことのない「肉体」を誘い出す形でことばを動かす。
 その「肉体」には、もちろん豊原も含まれているのだが、豊原が、シナリオという形でことばを動かすのは、シナリオのことばの方が、自分とは別の人間を動かすのに都合がいいからだろう。動かしやすいからだろう。
 豊原の「肉体」のなかにいる、まだ書かれたことのない「豊原」が、そういうことばをもとめている。まだ書かれたことのない「豊原」が、ここではたとえば「希」という人間となって、動こうとしている。その動きにあわせて、まわりの人間も動いていく。
 そこに「未来」がある。書かれていない「豊原」の未来が噴出してくる。その瞬間へ向けて、豊原はことばを動かしている。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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