豊原清明「<14>ディスク」(「白黒目」23、2010年05月発行)
豊原清明「<14>ディスク」は短編映画シナリオ。豊原のことばは、いつでもおもしろい。「いま」なのに、「いま」以外の時間がある。
こどもが外から帰ってくる。家では家庭教師がまっている。そういうシーンがある。
○ 希の家(夜)
希の母・良子「お帰り。」
希「ウン」
希の弟・伸一「来てるで。裕也さん。」
希「…。そう。お風呂入って来る。」
○ 居間
良子「すみませんねえ。」
家庭教師の山霧裕也(21)がにこにこしている。
良子、お菓子とお茶をテーブルに置く。
裕也「おい。遊ぶか?」
伸一に、キューブを投げる。
喜ぶ、伸一。
裕也「(ぼうとしている)」
ここには何も書かれていない。何も事件がない。そして、事件がないということ書くと、そこに「過去」が噴出してくる。そして、それは「未来」まで、行ってしまう。何も書かれないないということは、そこには「過去」の運動を止めるものは何もないということだからだ。こういうときの「未来」は「無限」である。さえぎるものが何もないからである。何もかかないことで、すべてを書くのだ--といいかえてもいい。
この放心の、不思議な充実。
あ、ちょっと急ぎすぎた。
「過去」について、補足しよう。
豊原の書いている「過去」にはひとつの特徴がある。書いている、と私は書いたが、実は豊原は「過去」を書いていない。そこには「過去」が欠落している。その「欠落」が、「過去」を呼び覚ます。--私の「過去」を。
そこには何も書かれていないかゆえに、私は私の「過去」を見てしまう。豊原のことばなのに、豊原を離れて「私」を見てしまう。「私」が見てきたものを見てしまう。
(それは、実際に映画のシナリオである場合は、演じる役者の「過去」を要求するという形で動くと思う。役者は、そこに書かれていない「過去」を自分の「過去」から引っ張りだしてきて、役者自身の「肉体」として演じなければならない。)
どんな、「過去」が私には見えたか--。
外で遊んでから帰ってきた。ほんとうは家庭教師について勉強しなければならないのだが、したくない。風呂に入りたい、と言って自分の欲望を優先させる。そういう「気持ち」の「過去」が私には感じられる。
このとき、希は、ほんとうに風呂に入りたかったのか。そうではなくて、ただ家庭教師について勉強するのがいやで、それまでの「時間」を引き伸ばしているのだ。
この「時間」を引き延ばすということのなかに、豊原の特徴が(思想が)あらわれていると思う。
豊原はいつでも「時間」が「未来」へ規則正しく進んでいくことを望んではいない。「時間」を止めてしまって、いま、この瞬間を、増やしたい。「いま」を増やすと、そこへ「過去」がどんどん押し寄せてくる。「気持ち」がどんどん強まってくる。そして、それが爆発する。
希が家庭教師といっしょに勉強したくないのは、なぜか。その理由が、そこには書かれていないけれども、私の内部で、何か、答えのようなものが積み重なってくる。そんなこと、書かれていなくたって、誰にでもわかる。「勉強」というめんどうくさいこと、きちと時間の順序にしたがって、ものごとに対する理解を深めていくこと。そういうことが嫌いなのだ。
こんなふうに書いてくると、もっとよくわかる。
豊原は(ここでは、希という人間になっているのかもしれない)、「時間の順序」など気にしない。そこに「充実」さえあれば、それでいい。豊原がもとめているもの、探しているものは、時間の充実なのだ。それも、自分の「外」にある時間ではなく、自分の「内部」にある時間を充実させたいのだ。
自分の「外」の時間は、社会の決まり(どうすれば金がもうけられるか、も含めて)に、支配されている。統一されている。それを自分のものとして充実させる方法(たとえば、権力者になって社会を動かすという方法)もあるけれど、豊原のもとめているのはそういうものではない。「外」を支配する時間は、豊原には、苦痛である。「決まり」が苦痛である。
その「決まり」から自分自身を解放し、「内部」の時間を豊かにするために、「内部」を耕すために、豊原はことばをうごかしている。誰も書いていないことば--そこに、豊原のもとめている「時間」がある。
誰も書いていないから、それは豊原にも書けない。書けないから、書く。そこに、たとえば別な「肉体」を想定し、その「過去」を思いっきり噴出させることができる形で、つまり、書かれたことのない「肉体」を誘い出す形でことばを動かす。
その「肉体」には、もちろん豊原も含まれているのだが、豊原が、シナリオという形でことばを動かすのは、シナリオのことばの方が、自分とは別の人間を動かすのに都合がいいからだろう。動かしやすいからだろう。
豊原の「肉体」のなかにいる、まだ書かれたことのない「豊原」が、そういうことばをもとめている。まだ書かれたことのない「豊原」が、ここではたとえば「希」という人間となって、動こうとしている。その動きにあわせて、まわりの人間も動いていく。
そこに「未来」がある。書かれていない「豊原」の未来が噴出してくる。その瞬間へ向けて、豊原はことばを動かしている。