岡井隆「食卓で洟をひりながら書いた詩」(「現代詩手帖」2010年06月号)
岡井隆「食卓で洟(はな)をひりながら書いた詩」の「ひる」はとても難しい漢字である。私のワープロでは出てこない。ひらがなで代用する。(雑誌を買って、確認してください。)タイトルを読むと、なんだか「ライブ」のような気がする。こういうのは、読みたい気持ちをそそるなあ。
食卓で書いて、そのまま。
ほんとうかどうかわからないけれど、ほんとうと思って読む。--あ、補足すると、あとで書斎(?)で推敲して書き直したものではない、と思って私は読む。
私は目を悪くして以来(手術して以来)、書いたものを推敲するというようなことはしなくなったので、私の方がもっと「ライブ」かもしれないが、ただ岡井のことばを読み、そして思いついたまま書いていく。どこまで書けるかわからないが、岡井のライブにあわせて、書けるところまで書いてみる。「結論」を想定せずに、ただ書いてみる。(ただいま、06月01日16時00分)
書き出し「一」は、ちょっと神妙(?)である。
あの池のそばの小屋に一晩ゐた
写生の神さま
あけがたに しぐれ鴨を句に仕立てた
とおもひきや
一句もものすることなく喜んで帰つた
あれだなあ
好きになるつていふのは
写生つて観ることなんだ
何を書きたいのか、わからない。わからないのだが、「あれだなあ」に「これだなあ」と思う。「あれだなあ」の前と後では、ことばがちょっと飛んでいるね。脈絡が論理的ではない。「論理」では追えないけれど、「肉体」が追ってしまう。この、ことばでは論理的には追いきれないものを「肉体」(のなかにあることばにならない感覚)で追いかけて、ちょっと離れたところにあることばをつかみ取る。
ここに詩がある。
ことばにならないことば、「肉体」のなかにあることば--だから、それは「観る」という動詞で説明される。好きになって、ことばをつかわず、ただ観るだけ。それが「写生」。ことばにしてしまったら、ちょっと違ってくるんだろうなあ。「肉体」のなかにことばをため込むことなんだ、写生とは。「観る」とは。
「二」はなんだか、「一」からずれている。
抱きしめてゐると
構造といふのは案外柔(やわ)いところと
硬いところがあるから
一国をどうする
といつたあたりから接吻(くちづけ)をしはじめて
地方のすみずみまでと
あせつたつて相手も動くし
舌だけでない
指だけではない
交付するのは国庫からつていふ感じの
肌のしめり
鳩山政権のことを思い出すが--ふーん、「政治」はセックスか。まあ、どうでもいいのだけれど、いろいろ感じちゃうね。意味もなく。あ、セックスというのは、意味もなく感じてしまうことかもしれない。中学のころは辞書で「性器」という文字を見ただけで勃起したけれど、とんでもないことを勝手に感じてしまうのがセックスだね。「柔い」「硬い」「舌」「指」「しめり」なんて、それだけで「あせつ」てしまうなあ。するとねえ。「交付」なんていうのも「交わる」という文字だけがくっきり見えてきて、あ、補助金交付なんて、金をはらってやってしまう「強姦」じゃないか、などと思ってしまう。
で、「三」。
終つたあと
先端から放つたことばを拭ふ作業がのこつた
若いころほど濃くない
ことばの飛沫を相手の白い表面から
淡い和紙をひろげて動かしながら拭つていく
あらら、これって、ほんとうに「ことば」? どうしたって、精液を思い出してしまう。そうすると、--突然、最初に書いてあった「写生」って「射精」の書き間違い? 「好きになるつていふのは/射精してしまうことなんだ」。まだ、セックスできずに、射精して飛び散った精液を「観る」--その切なさ、それが「好き」なんだ、などと思いたくなるなあ。
すると、
ずゐ分と遠くまでとんでゐて
なんて1行があったりする。
遠いほど光つて見えることばのしぶき
拭ふときの手の甲の静脈(ヴェーネン)の
老いさらぼへた隆起にも留意して
拭き切れたかな
終つたあとの総(すべ)てが
「遠いほど光つて見える」か。いいなあ。ほんとうにそうだね。どうしてそんなに遠くまで、と自分で感心してしまう。感動してしまう。自惚れてしまう。そういうことを許してくれるものがある。
きっと、この「遠さ」--これが詩なんだね。
まあ、近くてもいいんだけれど、近くだって射精となれば、「距離」がある。この「距離」こそが詩。同時に、その「違い」(距離)をつないでいるものがある。
「距離」をみつめながら、「あれだなあ」と思うのだ。あれって、何さ、と思うかもしれないけれど、「あれ」。「違い」を感じてしまうこと。ほら、自分と誰かの違いとか、自分自身の若いときといまの違いとか……。
あ、こんなことを書いてると、間に合わなくなるかな?(私はパソコンに向かう時間を30分と自己規制している。ちょっと、飛ばすね。)
「七」に来ると、岡井は北川透と話している。
鮎川信夫賞贈呈式の前庭 散歩のとき
北川透の臓器に急襲をかけてみた
詩つてつまり散文の双生児(ツインズ)?
一卵性それともたぶん二卵性?
かれの強く鍛へられたオルガンは
西脇順三郎邸へお参りしてご覧 と鳴つた
「意味」は別にして、あ、うまいなあ。ことばの動きがしゃれてるなあ。「距離」があるなあと、感心してしまう。
臓器→双生児(ツインズ)→オルガン。ねえ。「ツインズ」がなかったら「オルガン」が臓器のルビとは気がつかない。で、オルガンが鳴る。
ここにも、変な、というか「ことば」ならではの「距離」があるねえ。
岡井のことばがおもしろいのは、一方に「肉体」のことばにならないことばがあり、もう一方に、あらゆることばを行き来する「ことば」のなかのことばにならないことば(音)がある、ということだろうか。
そこに、たぶん、独特の、「あれだねえ」があるのだ。(直感、です。これは。だから、説明はしません。いや、できません。)
このあと、岡井の詩は、 1行が急に長くなり、ちょっと引用するのがつらくなる。(なんといっても時間がない。)
ずるをして、「距離」にこだわって、「距離」(あれだねえ、の飛躍)に関係した部分を抜き出すと、あるかなあ……。
これがあるんです。
「八」の部分。
たぶんアリストテレスからマラルメまでのメタファ理論は目つぶしで西脇さんに大事だつたのは「自然や習慣」から離れすぎてはいけないつてことだつたかも
メタファ、比喩について語っているのだけれど、その「離れすぎてはいけない」。ここに「距離」がでてくる。そして、その適当な(正しい、という意味です)「離れ方」というのはきっと「あれだなあ」という「了解」のなかに吸収される「距離」なんだと思う。
そして、これから岡井は、比喩について『旅人かへらず』(引用されている部分、私はとても好きだ。大好きだ。)から、小池昌代の『コルカタ』、『ヘーゲル入門』だとか谷川雁のことば、鮎川信夫とか、いろいろ動いていく。ここはここでいろいろ書きはじめるとおもしろいことがありそうだけれど、さらに先を読み進む。
「十二」。
ここで、私は、いままで考えてきたことを忘れてしまう。「距離」とか「あれだねえ」とかということばで追いかけていたものを忘れてしまう。どうしてか。単純。おもしろいのだ。
面倒くさいことを抜きにして、あ、岡井のことばが、突然、別の形で動きはじめた、と感じる。「あれだなあ」。いままでのは「助走」。ここで、一気に、岡井が岡井自身を越えて岡井になってしまう。
重い荷を負はされて母の介護から帰つてきた家妻が春菜を煮ながら現状を報告するが現状のすべてではない
生はもう亡んでかといつて死をまつばかりではない 真つ暗な蜘蛛の巣の張つた部屋でときどき死にたくなるが死ぬわけにはいかない
長い長いことばなのだが、短歌にみえない? 5・7・5・7・7ではないのだが、私には、なぜか、5・7・5・7・7に見えてしまう。
つまり、
重い荷を(5)負はされて母の介護から(7)帰つてきた家妻が(5)春菜を煮ながら現状を報告するが(7)現状のすべてではない(7)
生はもう亡んでかと(5)いつて死をまつばかりではない(7) 真つ暗な蜘蛛の巣の(5)張つた部屋でときどき死にたくなるが(7)死ぬわけにはいかない(7)
ことばの、リズム、うねり。いまここに書いてあることばが岡井の「肉体」のなかに沈殿し、それから「射精」されるとき、それは射精のときのリズムそのまま「肉体」に快感を呼び起こしながら、遠くまで飛ぶんだろうなあ、と思うのだ。
感じるのだ。
ほら、「あれですよ」、射精前の、むずむずとした「肉体」のなかの感じ、じれったいんだけれど、それがうれしい、もしかすると射精よりもうれしい快感--ときはなたれるまえの、不思議な苦悩のよろこび。
あと、まだまだ書きたいことがあるけれど、きょうはここまで。(16時40分--10分オーバー。)