詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フレッド・カヴァイエ監督「すべては彼女のために」(★★)

2010-06-01 23:14:32 | 映画

監督 フレッド・カヴァイエ 出演 ダイアン・クルーガー、ヴァンサン・ランドン、ランスロ・ロッシュ

 これはもうフランス人気質を見るための映画と割り切って見た方がいい。アメリカ映画では絶対にこうならないし、イギリス映画でもこうならない。フランス人だからこそ、こんなふうに考え、行動する。(たぶん。)
 わがままです。真実など、どうでもいい。大切なのは、自分の気持ちだけ。
 主人公の父親に目を向けると、とてもよくわかる。彼は息子と仲が悪い。喧嘩をしていて、口もきかない。でも、息子が好きという気持ちはある。だから最後の最後に息子の手助けをするのだけれど、これって完全な自己満足。息子を守った--それを息子は知らないけれど、(知られたくもないが)自分のほこりである。
 まあ、いいかげんなもんですねえ。
 これがまた、主人公の逃走劇を助けるのだから、あきれかえってしまうねえ。最後の方の、国際警察から手配のFAXが各空港に送信されてくる。それを受信した係員は上司に叱られるのを回避するだけの行動をとる。何をすべきか、なんて考えない。FAXの内容を点検していたら、自分の担当窓口に行列ができてしまう。緊急手配のFAXの点検よりも、目の前の仕事を片づけ、上司の苦情を避ける。
 こんなことで逃走劇が完遂されたからって、いったいどうなるんだろう。
 映画を見終わったあとの快感なんてありません。

 フランス人気質は、もうひとつ、主人公が自分の問題を解決する手段をみつけだすために、壁にやたらと資料をはりまくる。ごちゃごちゃになればなるほど、頭のなかが整理されてくる。こういうことは、きっとフランス人だけ。そして、ねえ。そのごちゃごちゃのなかに、実際逃走劇の重要な要素が隠されているのだけれど--最後の目的地の写真がちゃんとはってあるのだけれど、警官は、そのごちゃごちゃを整理し直して主人公を追跡するなんてことはしない。だって、他人のごちゃごちゃを追いかけるなんて、面倒くさい。--この、自分のごちゃごちゃはあくまでごちゃごちゃを受け入れるが、他人のごちゃごちゃなんて、どうだっていい、というのがフランス人。

 これを読んだフランス人がいたら怒るかもしれないけれど、そんなふうにしか見えない。
 でもって、さらに追加していえば、こんな変な主人公を「かっこいい」ようにしてしまうのが、またフランス人。きっと権力と闘って自由を手に入れた英雄--ということになるんだろうなあ。
 
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誰も書かなかった西脇順三郎(128 )

2010-06-01 22:44:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 長い間、書くのを休んでいたので、どこまで書いたか、どんなことを書いたか、ほとんど忘れている。
 『第三の神話』のなかの「弓」。

山の路をおりて来ると
落葉の中にたそがれのような宝石
をひろつた どういう女のものかな
どこへ行つても女のものばかりだ

 「たそがれのような宝石」は「(覆された宝石)のやうな朝」の対極のものだろう。そうすると「女」は「神」の対極としての存在かもしれない。「神」の対極にあるのは「人間」だが、西脇は、そのなかでも「女」を対極として選んでいる。

どこへ行つても女のものばかりだ

 は、何を指して言っているのか、よくわからないが、それを「人間」と考えるといいのかもしれない。「神」のものではなく、「人間」のもの。
 これは、別な言い方をすれば、西脇は「人間」のものではなく、「神」のもの--つまり、「永遠」を探している、ということなのかもしれない。「永遠」がみつからない。そのかわりに「人間のもの」ばかりを見つけてしまう、と。
 そう考えると「たそがれのような宝石」に「意味」がでてくる。

 でも、「意味」が、いいことかどうか、むずかしい。こんなふうに「意味」にことばをつくくりつけていいものかどうか。

 最後の2行。

ものはそれ自身でない時に
初めてそれ自身になるのだ

 この「反語」。矛盾。「もの」が「もの」ではないとき、というのはどういうときだろう。「もの」がその「もの」の名前で呼ばれないときである。
 別な名前で呼ばれるとき。
 これは、詩を書いている人間なら直感的にわかることかもしれないが、「もの」が「比喩」としてつかわれたときが、それにあたる。
 「(覆された宝石)のやうな朝」は「朝」ではない。「宝石」でもない。「たそがれのような宝石」も「たそがれ」でもなければ「宝石」でもない。
 西脇の書いている「もの」は「ことば」と置き換えることもできるかもしれない。

ことばはそれ自身でない時に
初めてことば自身となるのだ

 そこから、こんなことも考えられる。

人間はそれ自身でない時に
初めて人間自身となるのだ

 そして、ここからもう少しことばを動かして、

人間(男)は男自身でない時に
(つまり、女である時に)
初めて人間自身となるのだ

 これは、西脇が男だからそう考えるのであって、女だったら逆に考えたかもしれない。つまり、自己否定--その先に、「それ自身」がある。
 「神」が自己否定したら何になるだろう。--というようなことは、しかし、ここでは考えるのはやめておこう。ちょっと頭をかすめたのだけれど。



最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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岡井隆「食卓で洟をひりながら書いた詩」

2010-06-01 16:40:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「食卓で洟をひりながら書いた詩」(「現代詩手帖」2010年06月号)

 岡井隆「食卓で洟(はな)をひりながら書いた詩」の「ひる」はとても難しい漢字である。私のワープロでは出てこない。ひらがなで代用する。(雑誌を買って、確認してください。)タイトルを読むと、なんだか「ライブ」のような気がする。こういうのは、読みたい気持ちをそそるなあ。
 食卓で書いて、そのまま。
 ほんとうかどうかわからないけれど、ほんとうと思って読む。--あ、補足すると、あとで書斎(?)で推敲して書き直したものではない、と思って私は読む。
 私は目を悪くして以来(手術して以来)、書いたものを推敲するというようなことはしなくなったので、私の方がもっと「ライブ」かもしれないが、ただ岡井のことばを読み、そして思いついたまま書いていく。どこまで書けるかわからないが、岡井のライブにあわせて、書けるところまで書いてみる。「結論」を想定せずに、ただ書いてみる。(ただいま、06月01日16時00分)

 書き出し「一」は、ちょっと神妙(?)である。

あの池のそばの小屋に一晩ゐた
写生の神さま
あけがたに しぐれ鴨を句に仕立てた
とおもひきや
一句もものすることなく喜んで帰つた
あれだなあ
好きになるつていふのは
写生つて観ることなんだ

 何を書きたいのか、わからない。わからないのだが、「あれだなあ」に「これだなあ」と思う。「あれだなあ」の前と後では、ことばがちょっと飛んでいるね。脈絡が論理的ではない。「論理」では追えないけれど、「肉体」が追ってしまう。この、ことばでは論理的には追いきれないものを「肉体」(のなかにあることばにならない感覚)で追いかけて、ちょっと離れたところにあることばをつかみ取る。
 ここに詩がある。
 ことばにならないことば、「肉体」のなかにあることば--だから、それは「観る」という動詞で説明される。好きになって、ことばをつかわず、ただ観るだけ。それが「写生」。ことばにしてしまったら、ちょっと違ってくるんだろうなあ。「肉体」のなかにことばをため込むことなんだ、写生とは。「観る」とは。

 「二」はなんだか、「一」からずれている。

抱きしめてゐると
構造といふのは案外柔(やわ)いところと
硬いところがあるから
一国をどうする
といつたあたりから接吻(くちづけ)をしはじめて
地方のすみずみまでと
あせつたつて相手も動くし
舌だけでない
指だけではない
交付するのは国庫からつていふ感じの
肌のしめり

 鳩山政権のことを思い出すが--ふーん、「政治」はセックスか。まあ、どうでもいいのだけれど、いろいろ感じちゃうね。意味もなく。あ、セックスというのは、意味もなく感じてしまうことかもしれない。中学のころは辞書で「性器」という文字を見ただけで勃起したけれど、とんでもないことを勝手に感じてしまうのがセックスだね。「柔い」「硬い」「舌」「指」「しめり」なんて、それだけで「あせつ」てしまうなあ。するとねえ。「交付」なんていうのも「交わる」という文字だけがくっきり見えてきて、あ、補助金交付なんて、金をはらってやってしまう「強姦」じゃないか、などと思ってしまう。

 で、「三」。

終つたあと
先端から放つたことばを拭ふ作業がのこつた
若いころほど濃くない
ことばの飛沫を相手の白い表面から
淡い和紙をひろげて動かしながら拭つていく

 あらら、これって、ほんとうに「ことば」? どうしたって、精液を思い出してしまう。そうすると、--突然、最初に書いてあった「写生」って「射精」の書き間違い? 「好きになるつていふのは/射精してしまうことなんだ」。まだ、セックスできずに、射精して飛び散った精液を「観る」--その切なさ、それが「好き」なんだ、などと思いたくなるなあ。
 すると、

ずゐ分と遠くまでとんでゐて

 なんて1行があったりする。

遠いほど光つて見えることばのしぶき
拭ふときの手の甲の静脈(ヴェーネン)の
老いさらぼへた隆起にも留意して
拭き切れたかな
終つたあとの総(すべ)てが

 「遠いほど光つて見える」か。いいなあ。ほんとうにそうだね。どうしてそんなに遠くまで、と自分で感心してしまう。感動してしまう。自惚れてしまう。そういうことを許してくれるものがある。
 きっと、この「遠さ」--これが詩なんだね。
 まあ、近くてもいいんだけれど、近くだって射精となれば、「距離」がある。この「距離」こそが詩。同時に、その「違い」(距離)をつないでいるものがある。
 「距離」をみつめながら、「あれだなあ」と思うのだ。あれって、何さ、と思うかもしれないけれど、「あれ」。「違い」を感じてしまうこと。ほら、自分と誰かの違いとか、自分自身の若いときといまの違いとか……。
 あ、こんなことを書いてると、間に合わなくなるかな?(私はパソコンに向かう時間を30分と自己規制している。ちょっと、飛ばすね。)

 「七」に来ると、岡井は北川透と話している。

鮎川信夫賞贈呈式の前庭 散歩のとき
北川透の臓器に急襲をかけてみた
詩つてつまり散文の双生児(ツインズ)?
一卵性それともたぶん二卵性?
かれの強く鍛へられたオルガンは
西脇順三郎邸へお参りしてご覧 と鳴つた

 「意味」は別にして、あ、うまいなあ。ことばの動きがしゃれてるなあ。「距離」があるなあと、感心してしまう。
 臓器→双生児(ツインズ)→オルガン。ねえ。「ツインズ」がなかったら「オルガン」が臓器のルビとは気がつかない。で、オルガンが鳴る。
 ここにも、変な、というか「ことば」ならではの「距離」があるねえ。
 岡井のことばがおもしろいのは、一方に「肉体」のことばにならないことばがあり、もう一方に、あらゆることばを行き来する「ことば」のなかのことばにならないことば(音)がある、ということだろうか。
 そこに、たぶん、独特の、「あれだねえ」があるのだ。(直感、です。これは。だから、説明はしません。いや、できません。)

 このあと、岡井の詩は、 1行が急に長くなり、ちょっと引用するのがつらくなる。(なんといっても時間がない。)
 ずるをして、「距離」にこだわって、「距離」(あれだねえ、の飛躍)に関係した部分を抜き出すと、あるかなあ……。
 これがあるんです。
 「八」の部分。

たぶんアリストテレスからマラルメまでのメタファ理論は目つぶしで西脇さんに大事だつたのは「自然や習慣」から離れすぎてはいけないつてことだつたかも

 メタファ、比喩について語っているのだけれど、その「離れすぎてはいけない」。ここに「距離」がでてくる。そして、その適当な(正しい、という意味です)「離れ方」というのはきっと「あれだなあ」という「了解」のなかに吸収される「距離」なんだと思う。
 そして、これから岡井は、比喩について『旅人かへらず』(引用されている部分、私はとても好きだ。大好きだ。)から、小池昌代の『コルカタ』、『ヘーゲル入門』だとか谷川雁のことば、鮎川信夫とか、いろいろ動いていく。ここはここでいろいろ書きはじめるとおもしろいことがありそうだけれど、さらに先を読み進む。

 「十二」。
 ここで、私は、いままで考えてきたことを忘れてしまう。「距離」とか「あれだねえ」とかということばで追いかけていたものを忘れてしまう。どうしてか。単純。おもしろいのだ。
 面倒くさいことを抜きにして、あ、岡井のことばが、突然、別の形で動きはじめた、と感じる。「あれだなあ」。いままでのは「助走」。ここで、一気に、岡井が岡井自身を越えて岡井になってしまう。

重い荷を負はされて母の介護から帰つてきた家妻が春菜を煮ながら現状を報告するが現状のすべてではない

生はもう亡んでかといつて死をまつばかりではない 真つ暗な蜘蛛の巣の張つた部屋でときどき死にたくなるが死ぬわけにはいかない

 長い長いことばなのだが、短歌にみえない? 5・7・5・7・7ではないのだが、私には、なぜか、5・7・5・7・7に見えてしまう。
 つまり、

重い荷を(5)負はされて母の介護から(7)帰つてきた家妻が(5)春菜を煮ながら現状を報告するが(7)現状のすべてではない(7)

生はもう亡んでかと(5)いつて死をまつばかりではない(7) 真つ暗な蜘蛛の巣の(5)張つた部屋でときどき死にたくなるが(7)死ぬわけにはいかない(7)

 ことばの、リズム、うねり。いまここに書いてあることばが岡井の「肉体」のなかに沈殿し、それから「射精」されるとき、それは射精のときのリズムそのまま「肉体」に快感を呼び起こしながら、遠くまで飛ぶんだろうなあ、と思うのだ。
 感じるのだ。
 ほら、「あれですよ」、射精前の、むずむずとした「肉体」のなかの感じ、じれったいんだけれど、それがうれしい、もしかすると射精よりもうれしい快感--ときはなたれるまえの、不思議な苦悩のよろこび。

 あと、まだまだ書きたいことがあるけれど、きょうはここまで。(16時40分--10分オーバー。)




瞬間を永遠とするこころざし (私の履歴書)
岡井 隆
日本経済新聞出版社

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山本純子「花」ほか

2010-06-01 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山本純子「花」ほか(「息のダンス」9、2010年05月31日発行)

 山本純子「花」は休日に列車に乗って、そば畑にさしかかったころ、向こう側からそば畑、列車を写真に撮ろうとしている一群に出会ったときのことを書いている。

そこの
休日の
畦道にぎっしりのみなさん

みなさんの、
そばの花
特急列車はカーブして
の構図の中には

休日の
乗客がぎっしり

カメラへ向かって
まばたきせずに
いるんですよ

 山本のことばは、一方的ではない。ことばの向こうに「他人」がいる。そして、「会話」している。その「会話」は必ずしも、相手にとどくわけではない。この詩で書かれている内容も、もちろん相手にはとどかない。
 とどかないのだけれど、読んでいると、とどいている感じがする。
 このとどいている感じは、しかし、相手(?)感じではなく、そのことばを発している山本の感じなのだ。不思議なことに、私は山本ではないのに、山本のことばを読むと、山本になって、ていねいにことばを動かし、そして動かせばそのことばは相手にとどいている、という気持ちになる。
 呼吸がいいのだ。
 山本は、いつも相手を見ながら、相手の呼吸にあわせてことばを動かしているのだと思う。自分の意見を言うときでも、相手が自分のことばをどれくらい受け止めているか、相手の呼吸のなかに、山本のことばがどんな具合に溶け込んでいるかを把握しながらことばを動かすのだろう。

畦道にぎっしりのみなさん

みなさんの、

 この「1行空き」と、読点「、」の呼吸の違いが、絶妙である。「みなさん」と呼びかけて、「みなさんの」と繰り返して、そこに「半拍」の呼吸、「半拍」の短さが、なんといえばいいのだろう、すいと、聞くひとを吸い込んでいく。残りの「半拍」を埋めようとして、聞いているひとのこころが動く。
 その瞬間、そのリズムを利用して、いちばん複雑なことを言う。
 そのときの、反応が見える。反応を見ながら、ことばを動かしている山本が浮かび上がってくる。「とどいている」、と実感して、ぐいと、ことばを落ち着かせる。

カメラへ向かって
まばたきせずに
いるんですよ

 そのことばが、ねえ、おかしい。
 なんといえばいいのだろう、押しつけがましさがない。一歩ひいている。「私って、何もできないんです」というと変だけれど、相手の助けを求めるような、微妙な美しさがある。
 「私はあなたの声を待っています」(あなたの行動を待っています)という感じかなあ。
 私がなにかをするのではなく、相手がなにかをする--その瞬間に、私がここにいて、こうしてことばをいう意味がある。あなたのことば、あなたの行動が私を生かしていてくれる--そういう感じ。
 主役はあくまで「あなた」。
 「主役があなた」ということばは、いつでも相手にとどく。そのことを山本は知っている。そして、そういうことをいうための「呼吸」をしっかり「肉体」にとけこませている。

 「月」という作品も、「呼吸」を描いている。

昔からの
顔なじみだから
とくに
気をつかうことも
ないけれどは

まるく
空にかかっていると

つい
会釈をしたり
やあ、と
つぶやくここともあり

切れそうに
細い月なら
つられて
息を吸ってしまって
何か
反省することが
あったような

 ここでは、山本は列車のときとは違って、「聞く」方である。月の「呼吸」のつられて、細い月の、その細くなった姿に、その欠けた部分(欠けた半拍--半拍以上だけれど……)を埋めようとして、気持ちが動く。
 誰かのことばをひきだすには、この「半拍」というか、不完全な「欠けた」ものが必要なのだ。半拍欠けたことばを言って、その残りの半拍のなかへ相手を誘い込む。そして、そこからいっしょに声をあわせる。
 「会話」というのは、「意味」ではなく、呼吸なんだなあ。
 呼吸が合えば、あとは、どんなふうにでもことばは動いていく。

 そういう「半拍」に出会ったとき、ひとは「見つけた」と思う。「出会った」(出会えてよかった)と思う。きっと。
 「星」には、その美しい瞬間が書かれている。

あっ、みつけた
探してもいないのに
みつけた

あっ、みつけた
そばにもうひとつ
みつけた

目に入ることと
みつけることの
間に
いつも
瞬くものがあって

われ知らず
探していたのか
と思う

星は
薄荷の味がするらしい

それで
あっ、みつけた
と思うたびに
ふいに
涼しくなる
夜空

 「目に入ることと/みつけることの/間」。その間にあるのは「呼吸」である。

句集 カヌー干す
山本 純子
ふらんす堂

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豊穣の女神の息子―詩集
山本 純子
花神社

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