三井葉子『人文』(編集工房ノア、2010年06月01日発行)
三井葉子『人文』は「人文」というタイトルの詩から始まっている。三井の詩の特徴がとてもくっきりとでていると思う。
「文」と「ことば」はどう違うだろう。「文」というのは、そこに明確な意識があるのだろうなあ。「ことば」はひとりでも発するけれど、「文」は違うね。「郵便配達」ということばが書かれているが、何かをつたえようとする「ことば」、たとえば「手紙」--それが「文」だね。
「文」がひととひとをつなぐ。そうすると、そこに「生活」がみえてくる。あるいは、「生活」があるとき、そこには人と人をつなぐ意識があり、「文」があるということになるかもしれない。その「文」は必ずしも書かれているとはかぎらない。「ことば」で書かれているとはかぎらない。
たとえば、山の道。山の道は「文」ではないし、そこには何も書かれてはいない。けれど、その道を行き来する「生活(暮らし)」がある。暮らしのなかで人が何度も何度も往復する--そうすることで道が生まれる。それは、人が何度も何度もくりかえし、だれかと交わすことばによって、そこに「あいさつ」がうまれ、礼儀がうまれ、ゆったりとした交流がうまれるのに似ている。
三井は、そういうものを「肉体」として、しっかりつかんでいる。
これは、美しいなあ。山を何度も何度も歩く。往復する。そうすることで、道をつくる。その「あし」のたしかさ。これを三井は「うつくしさ」と呼ぶ。たしかなものだけが美しいのだ。
「ことば」はまだ「たしか」ではないかもしれない。けれど、何度も吟味され、それが「文」になったとき、そこには「たしかさ」がある。そして「うつくしさ」がある。
三井の見ているもの、三井のことばがふれているものは、そういうものだ。
「たしかさ」、「たしかさのうつくしさ」はなかなかことばになりにくい。「文」にもなりにくい。そして、「生活(私は、暮らし、ということばが好きだが)」の中には、そういうことばにならない「たしかなうつくしさ」がある。
「花ざかり」という作品。
「かくべつのことはないもない」。その「こと」を「ことば」に換えてみたい。換えて、読みたい。ここには、格別の「ことば」は何もない。だから、書かれていることも格別のことではない。
けれど、ここには「ことば」にならなかった「たしかさ」と「たしかなうつくしさ」がある。「ば」というひとつの音を欠いたために「ことば」にはならなかったけれど、「ことば」を超えて、「文」にならない「文」がある。「肉体」の、「暮らし」の「文」の「たしかなうつくしさ」がある。
バケツに水を張り(こぼれないように、八分目)、雑巾を絞り、拭く。床を? テーブルを? あ、きれいな水、きれいに磨かれた床--そういう暮らしを積み重ねてきたなら、きっとその雑巾で顔だって拭けるはずである。そういう「たしかなうつくしさ」がある。あるのは、そういう「目にみえない」もの。「肉体」のなかにしっかりとしまいこまれている「たしかなうつくしさ」である。ほかには、
そして、そんなふうに、どこにもなぁんにもない人だけが、花ざかりの、その「たしかなうつくしさ」を「肉体」でつかみとることができる。その花ざかりを表現するための「かくべつのことば」など必要がない。「ことば」は「肉体」のなかにある。だから、それをしまいこんだまま、「かくべつなことはなにもない」と言うのだ。
こういう詩を読むと、いいなあ、書いている人に会ってみたいなあ、とつくづく思う。きっと三井は「かくべつ」な人ではないと思う。雑巾できれいに磨かれた床、テーブルのように、しっかりとした存在感はあるけれど、それ以外に「かくべつ」なものは何もないと思う。そして、たぶん、現代では、そういう「かくべつ」なものがないということの方が、きっととびぬけて「たしかなうつくしさ」なのだと思う。
三井葉子『人文』は「人文」というタイトルの詩から始まっている。三井の詩の特徴がとてもくっきりとでていると思う。
ヒトだけでいいのに
文(ブン)とつなぐと生活がはじまってしまって
朝星夜星(あさぼしよぼし) 郵便配達夫は人から人へ文をとどけねばならぬ
むかし
アルプスのモンブラン山の上を
プロペラ機でひらひらととんだとき
山頂から山の裾まで続く道が途切れながら山をめぐっているの
が みえた
道かァ
と思った
あの道の
うつくしさ
道を歩くあしのうつくしさ
が
文だねえ
と
「文」と「ことば」はどう違うだろう。「文」というのは、そこに明確な意識があるのだろうなあ。「ことば」はひとりでも発するけれど、「文」は違うね。「郵便配達」ということばが書かれているが、何かをつたえようとする「ことば」、たとえば「手紙」--それが「文」だね。
「文」がひととひとをつなぐ。そうすると、そこに「生活」がみえてくる。あるいは、「生活」があるとき、そこには人と人をつなぐ意識があり、「文」があるということになるかもしれない。その「文」は必ずしも書かれているとはかぎらない。「ことば」で書かれているとはかぎらない。
たとえば、山の道。山の道は「文」ではないし、そこには何も書かれてはいない。けれど、その道を行き来する「生活(暮らし)」がある。暮らしのなかで人が何度も何度も往復する--そうすることで道が生まれる。それは、人が何度も何度もくりかえし、だれかと交わすことばによって、そこに「あいさつ」がうまれ、礼儀がうまれ、ゆったりとした交流がうまれるのに似ている。
三井は、そういうものを「肉体」として、しっかりつかんでいる。
あの道の
うつくしさ
道を歩くあしのうつくしさ
が
文だねえ
と
これは、美しいなあ。山を何度も何度も歩く。往復する。そうすることで、道をつくる。その「あし」のたしかさ。これを三井は「うつくしさ」と呼ぶ。たしかなものだけが美しいのだ。
「ことば」はまだ「たしか」ではないかもしれない。けれど、何度も吟味され、それが「文」になったとき、そこには「たしかさ」がある。そして「うつくしさ」がある。
三井の見ているもの、三井のことばがふれているものは、そういうものだ。
「たしかさ」、「たしかさのうつくしさ」はなかなかことばになりにくい。「文」にもなりにくい。そして、「生活(私は、暮らし、ということばが好きだが)」の中には、そういうことばにならない「たしかなうつくしさ」がある。
「花ざかり」という作品。
かくべつのことはなにもない
かくべつのことはなんにもない
バケツには水を八分目
雑巾は
小さめを
絞って
拭く
拭きなさい
テーブルを とおかあさんに言われたとおり
そうよ
拭きなさい
どこにもなぁんにもない
でも
こんな花ざかり。
「かくべつのことはないもない」。その「こと」を「ことば」に換えてみたい。換えて、読みたい。ここには、格別の「ことば」は何もない。だから、書かれていることも格別のことではない。
けれど、ここには「ことば」にならなかった「たしかさ」と「たしかなうつくしさ」がある。「ば」というひとつの音を欠いたために「ことば」にはならなかったけれど、「ことば」を超えて、「文」にならない「文」がある。「肉体」の、「暮らし」の「文」の「たしかなうつくしさ」がある。
バケツに水を張り(こぼれないように、八分目)、雑巾を絞り、拭く。床を? テーブルを? あ、きれいな水、きれいに磨かれた床--そういう暮らしを積み重ねてきたなら、きっとその雑巾で顔だって拭けるはずである。そういう「たしかなうつくしさ」がある。あるのは、そういう「目にみえない」もの。「肉体」のなかにしっかりとしまいこまれている「たしかなうつくしさ」である。ほかには、
どこにもなぁんにもない
そして、そんなふうに、どこにもなぁんにもない人だけが、花ざかりの、その「たしかなうつくしさ」を「肉体」でつかみとることができる。その花ざかりを表現するための「かくべつのことば」など必要がない。「ことば」は「肉体」のなかにある。だから、それをしまいこんだまま、「かくべつなことはなにもない」と言うのだ。
こういう詩を読むと、いいなあ、書いている人に会ってみたいなあ、とつくづく思う。きっと三井は「かくべつ」な人ではないと思う。雑巾できれいに磨かれた床、テーブルのように、しっかりとした存在感はあるけれど、それ以外に「かくべつ」なものは何もないと思う。そして、たぶん、現代では、そういう「かくべつ」なものがないということの方が、きっととびぬけて「たしかなうつくしさ」なのだと思う。
春の庭―三井葉子詩集 (1983年) (現代女流自選詩集叢書〈7〉)三井 葉子沖積舎このアイテムの詳細を見る |