高柳誠『光うち震える岸へ』(11)(書肆山田、2010年05月30日発行)
「78」に出てくる「闇」とは何だろう。それは「夕暮れの光がうち震える岸」と接している。「闇」と「夕暮れ」(その最後の光)は「共振」している。
そこには、通奏低音(基調低音)がある。
高柳は、そんなふうに明確には書いていないのだけれど、私は、なぜか、そんなふうに感じる。
感じると同時に、一種のめまいを覚える。
「光」と「闇」が矛盾したものだからである。
けれど、「矛盾している」と書いたとたんに、その「めまい」は消えてしまうようでもある。
高柳は、もともと「矛盾」したものの間に、「通奏低音」を聞こうとしている。「浮遊感」自体が、「身体」と「身体の傍ら」、あるいは「肉体」と「魂」という、相対するものがあってはじめて生じるものである。
高柳は、ふつうは対立しているもの、矛盾しているものの間に、「通路」をつくりだそうとしている。いや、つくりだすというより、対立するものの奥に「隠された属性」(「03」参照)を探し出し、そうすることで「通奏低音」を聞き取ろうとしている。
こういうことばの運動は、高柳の「嗜好」であり、その「嗜好」は「思考」をくぐって「思想」となっている。
では。
「光」と「闇」を結びつける(通底させる)もの、「通奏低音」とは何だろう。「光」と「闇」は正反対のものである。それを結びつける、あるいは「共振」させる--それは何だろう。
「97」の部分が、とても興味深い。
私は、突然、飛躍したくなる。「抽象的な誤読」をしたくなる。
どういえばいちばん正しいのかわからないが、私は、高柳の「闇」「人工的な光」が、まったく違う「ことば」に見えてしまう。読んだ瞬間に、違う「ことば」になってしまう。ここに書かれている「高柳語」は「私の日本語」では、まったく違ったものになる。
私は読みながら、無意識のうちに「翻訳」してしまうのだ。
私の「翻訳」では、高柳のことばは、次のようになる。
簡便に(?)言いなおすと……。
文学は虚構の描く。それは「現実」(存在)の見えないものを暴き出す。文学という「虚構」によってこそ、「現実」が見えてくる。そういういま、ここにあるけれど見えない「真実」を知るために、人は「文学」を読む。あるいは「文学」を書く。そのために「人工的言語」というものがある。高柳は、その「人工的言語」で世界と対峙している。
私は、ほとんど無意識に(つまり、いままで高柳を読んできて、まだ、ことばになっていない意識のままに)、そんなふうに読んでしまうのだ。
高柳が独特なのは、そして、その「現実」(存在)の奥にあるものと「人工的言語(文学的言語)」の関係を「共振」という形であらわそうとしているということだ。
私が仮に「真実」と呼んだもの--それは「現実」の「奥」、「存在」の「奥」にあるのではない。また「文学的言語」そのものにあるのでもない。かけ離れたふたつのもの、「現実」と「人工的言語」(高柳語、と言った方がわかりやすいかもしれない)の、「共振」のなかにある。その「共振」の奥底には「通奏低音」が「通底」している。
そして、その「共振」だけが、たぶん、高柳にとっての「真実」なのだ。
詩集の最後の「99」は、こう書かれている。
これもすべて「高柳語」である。
ここに書かれている「光」は「人工的な光」ではなく「自然な光」であるが、「光」(ことば)に「人工」「自然」など、もともとない。「光」の「通奏低音」(基調低音、あらゆる光を「通底」しているもの)は、何かを照らし、そして、それを「見えるようにする」ということであり、それはあらゆることばに共通することである。
「現実」(存在)と「ことば」の「共振」だけがある。「共振」なのかには「私」が投影されている。(私が感じた「共振」がことばとなっている。)そこには「共振」としていの「ことば」だけがある。「純粋言語」、つまり、存在そのものと「共振」することでうまれる「ことば」だけがあるのであって、「私」など、どうでもいい。「私」は存在しない。
これが、高柳の、夢、理想なのだ。
この詩集はスペインを旅して書かれた詩集のように読めるが、ほんとうは、スペインを旅しているのではない。高柳は、高柳自身のことばのなかを旅しているのだ。ことばを旅しながら、ことばになっていくのだ。
『光うち震える岸へ』とは、「ことばがうち震え、共振する領域(次元)へ」ということなのだ。
長い年月にわたる古都の時々の変遷も、夕暮れが生み出すいくつもの光の層とそれぞれ密かに通底しあって、移ろいのなかでたゆたっている。すべてが夕暮れの移ろいのなかにある。戯れ、漂うすべての事物の影は、様々な相貌を一瞬見せ、夕暮れの光がうち震える岸へ寄せてゆく。やがて、闇がすべてを包みこむ新たな夜が、静かに古都にしのび寄る。
「78」に出てくる「闇」とは何だろう。それは「夕暮れの光がうち震える岸」と接している。「闇」と「夕暮れ」(その最後の光)は「共振」している。
そこには、通奏低音(基調低音)がある。
高柳は、そんなふうに明確には書いていないのだけれど、私は、なぜか、そんなふうに感じる。
感じると同時に、一種のめまいを覚える。
「光」と「闇」が矛盾したものだからである。
けれど、「矛盾している」と書いたとたんに、その「めまい」は消えてしまうようでもある。
高柳は、もともと「矛盾」したものの間に、「通奏低音」を聞こうとしている。「浮遊感」自体が、「身体」と「身体の傍ら」、あるいは「肉体」と「魂」という、相対するものがあってはじめて生じるものである。
高柳は、ふつうは対立しているもの、矛盾しているものの間に、「通路」をつくりだそうとしている。いや、つくりだすというより、対立するものの奥に「隠された属性」(「03」参照)を探し出し、そうすることで「通奏低音」を聞き取ろうとしている。
こういうことばの運動は、高柳の「嗜好」であり、その「嗜好」は「思考」をくぐって「思想」となっている。
では。
「光」と「闇」を結びつける(通底させる)もの、「通奏低音」とは何だろう。「光」と「闇」は正反対のものである。それを結びつける、あるいは「共振」させる--それは何だろう。
「97」の部分が、とても興味深い。
都市の闇は不思議だ。その人工的な光は、闇に抗うように虚空に向かって自らを放射させながら、結局は、闇の深さを際立たせてしまう共犯者のようだ。抗うことで、闇の特質が引き出されるのだろうか。人はぞくぞくする闇の底知れぬ深さを体感するためにこそ、人工照明の下に繰り出すのだろうか。
私は、突然、飛躍したくなる。「抽象的な誤読」をしたくなる。
どういえばいちばん正しいのかわからないが、私は、高柳の「闇」「人工的な光」が、まったく違う「ことば」に見えてしまう。読んだ瞬間に、違う「ことば」になってしまう。ここに書かれている「高柳語」は「私の日本語」では、まったく違ったものになる。
私は読みながら、無意識のうちに「翻訳」してしまうのだ。
私の「翻訳」では、高柳のことばは、次のようになる。
「現実」あるいは「存在」は不思議だ。「文学的言語」は、「存在」に抗うように、「現実」ではなく「虚構」に向かって自らを突き動かしながら、結局は、「現実」「存在」の深さを際立たせてしまう共犯者のようだ。抗うことで、「現実」から「虚構」へ突き進むことで、「虚構」を築き上げることで、その「構造」のなかに「現実」(存在)の特質が引き出されるのだろうか。人はぞくぞくする「現実」や「存在」の底知れぬ深さ、そのままでは見ることのできない「真実」を体感するためにこそ、「文学的言語」によって築き上げられた「構造」の内部へと旅するのだろうか。
簡便に(?)言いなおすと……。
文学は虚構の描く。それは「現実」(存在)の見えないものを暴き出す。文学という「虚構」によってこそ、「現実」が見えてくる。そういういま、ここにあるけれど見えない「真実」を知るために、人は「文学」を読む。あるいは「文学」を書く。そのために「人工的言語」というものがある。高柳は、その「人工的言語」で世界と対峙している。
私は、ほとんど無意識に(つまり、いままで高柳を読んできて、まだ、ことばになっていない意識のままに)、そんなふうに読んでしまうのだ。
高柳が独特なのは、そして、その「現実」(存在)の奥にあるものと「人工的言語(文学的言語)」の関係を「共振」という形であらわそうとしているということだ。
私が仮に「真実」と呼んだもの--それは「現実」の「奥」、「存在」の「奥」にあるのではない。また「文学的言語」そのものにあるのでもない。かけ離れたふたつのもの、「現実」と「人工的言語」(高柳語、と言った方がわかりやすいかもしれない)の、「共振」のなかにある。その「共振」の奥底には「通奏低音」が「通底」している。
そして、その「共振」だけが、たぶん、高柳にとっての「真実」なのだ。
詩集の最後の「99」は、こう書かれている。
移ろってゆく実在を、哀しみのように胸のうちに抱えて、日常に回帰すること。瞬時に移ろうものだとしても、移ろうことこそものごととの実体であるなら、移ろう主体となって、転移に次ぐ転移、移動に次ぐ移動の果てに、この光のうちにひそむ明るい転移へ、この風がはらむ澄明な移動へ、私自身を投影してしまえばよい。「私」の実在などどこにもないのだから……。
これもすべて「高柳語」である。
ここに書かれている「光」は「人工的な光」ではなく「自然な光」であるが、「光」(ことば)に「人工」「自然」など、もともとない。「光」の「通奏低音」(基調低音、あらゆる光を「通底」しているもの)は、何かを照らし、そして、それを「見えるようにする」ということであり、それはあらゆることばに共通することである。
「現実」(存在)と「ことば」の「共振」だけがある。「共振」なのかには「私」が投影されている。(私が感じた「共振」がことばとなっている。)そこには「共振」としていの「ことば」だけがある。「純粋言語」、つまり、存在そのものと「共振」することでうまれる「ことば」だけがあるのであって、「私」など、どうでもいい。「私」は存在しない。
これが、高柳の、夢、理想なのだ。
この詩集はスペインを旅して書かれた詩集のように読めるが、ほんとうは、スペインを旅しているのではない。高柳は、高柳自身のことばのなかを旅しているのだ。ことばを旅しながら、ことばになっていくのだ。
『光うち震える岸へ』とは、「ことばがうち震え、共振する領域(次元)へ」ということなのだ。
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