新井高子「ピラニア」、全美恵「動かない天秤」(「さよん・Ⅲ」7、2010年06月10日発行)
新井高子「ピラニア」は奇妙な書き出しである。
なんのことか、わからないね。わからないけれど、つづけて読むと、わかってくることもある。
まあ、どうでもいいことなんですけど。(笑い)二次元とか、三次元とか、面とか、行とか。
おもしろいのは、こういうどうでもいいことについてさえもことばは動いていくということ。そして、動いてしまうと、ことばは「どうでもいい」を突き破って、何かしら、そこにいままでなかったものを明確にしてしまうということ。
「いちめんのなのはな」なんて、まあ、最初に書いた山村暮鳥の「勝ち」だね。何が「勝ち」かわからないけれど。あ、やられた、こんな書き方があったのか、ということくらいのことかもしれないけれど。
そして、そんなふうに、あっけらかんとことばを見つめなおすと、荒地の詩は行がばらばらなだけともいえるし、気取って「思想」が立っているから「三次元」である、と定義することもできる。(しかし、なんという定義だろうねえ。)
このあとも、新井のことばは、いろんなことを書いていく。
と、詩集の行く末まで心配するようになる。ほんとうに心配しているかどうか、わからないけれど。
こういう軽い(?)、いや、思った以上に重いのかな? ことばが、ただどんなふうに動けるか、それだけを試している詩は、私は好きだなあ。
荒地のポンッと立つ「思想」よりも、どこへ動いていくかわからないことばの方に、思想があると思う。思想は、きちんと整理されたもの、ではなく、未整理の、ただ動くことをとおして、自分の動きをととのえる運動の中からうまれてくる、と私は思う。
*
全美恵「動かない天秤」は、「脳死」と「臓器移植」について思いめぐらしている。そこでは、ことばは、論理的に、倫理的に、きちんと(?)動かないといけない。そういう「重い」テーマを語るならば--と、いいたいのだけれど、そんな具合には、なかなかならないね。論理的に、倫理的に語りつづけるには(たぶん、他人を不愉快にさせることなく、冷静に語りつづけるには)、ある訓練が必要になる。そして、そういう訓練のなかでは、ことばは、一種の自在さ・自由を失ってしまう。全のことばは、そういう「不自由さ」の手前で動いている。新井の詩についてつかったときのことばを流用すれば、どこへ動いていくかわからないまま(決めないまま)、ことばが動いている。それが、おもしろい。
「おもい」は「思い」であり、「重い」である。どんな「思い」も「重い」。重くない思いなど存在しない。特に、脳死移植をめぐっては、簡単には答などだせない。答など、ない。「おもい」を漢字で「思い」「重い」に書き分けないことで、全は、ことばを「決定」することを拒否している。方向を与えない。どこかへ向かうとしたら、それは、そのことばを発するひとの「肉体」のなかへと動いていくだけである。
そこでは「思想」はポンッと立たない。「肉体」が取り残されたように突っ立っていて、「思想」はその内部にぐにゃりと蓄積している、堆積している、そのずるりとした積み重ねとして肉体がある。
この2行の「はなす」は逆に「話す」「離す」と漢字をつかうことによって、「思想」を混乱させている。
ポンッと立つのも「思想」なら、混乱して、ぐにゃりとなだれるのも思想である。そして、なだれて、形をなくしてしまうものの方が、手ごわい。
ポンッと立たない思想は、そうなのだ、立ち上がることそのものを拒絶しているのだ。立ち上がることを拒絶する思い、思いの重さに内部から崩れて、形をなくし、ただ「愛」になってしまうものがある。
全は、そういうものを、たたいても壊れないことばにしている。
新井高子「ピラニア」は奇妙な書き出しである。
詩は行ですか、面ですか
何次元だと思いますか、あなたは
どう答えます?
こう尋ねられたら、
なんのことか、わからないね。わからないけれど、つづけて読むと、わかってくることもある。
画面も紙も免田から、二次元でしょ
イヤァ線だろう、文字そのものは
字と紙と詩ではちがうのォ?
次元が、
オイオイ、投げかけないでおくれよ、難問を
思い付きだけで、
じゃ、具体例で行こかァ
フム。たとえば「いちめんのなのはな」は面の詩だが、
荒地の詩は行。どうだ?
ェエ?、思想がポンッと立つなら、三次元でしょう
まあ、どうでもいいことなんですけど。(笑い)二次元とか、三次元とか、面とか、行とか。
おもしろいのは、こういうどうでもいいことについてさえもことばは動いていくということ。そして、動いてしまうと、ことばは「どうでもいい」を突き破って、何かしら、そこにいままでなかったものを明確にしてしまうということ。
「いちめんのなのはな」なんて、まあ、最初に書いた山村暮鳥の「勝ち」だね。何が「勝ち」かわからないけれど。あ、やられた、こんな書き方があったのか、ということくらいのことかもしれないけれど。
そして、そんなふうに、あっけらかんとことばを見つめなおすと、荒地の詩は行がばらばらなだけともいえるし、気取って「思想」が立っているから「三次元」である、と定義することもできる。(しかし、なんという定義だろうねえ。)
このあとも、新井のことばは、いろんなことを書いていく。
読まれないうち
アマゾン. コム河へ抛られて
ふやける詩
ふやける詩集
安堵してはいけない
紙が水に溶けることに
と、詩集の行く末まで心配するようになる。ほんとうに心配しているかどうか、わからないけれど。
こういう軽い(?)、いや、思った以上に重いのかな? ことばが、ただどんなふうに動けるか、それだけを試している詩は、私は好きだなあ。
荒地のポンッと立つ「思想」よりも、どこへ動いていくかわからないことばの方に、思想があると思う。思想は、きちんと整理されたもの、ではなく、未整理の、ただ動くことをとおして、自分の動きをととのえる運動の中からうまれてくる、と私は思う。
*
全美恵「動かない天秤」は、「脳死」と「臓器移植」について思いめぐらしている。そこでは、ことばは、論理的に、倫理的に、きちんと(?)動かないといけない。そういう「重い」テーマを語るならば--と、いいたいのだけれど、そんな具合には、なかなかならないね。論理的に、倫理的に語りつづけるには(たぶん、他人を不愉快にさせることなく、冷静に語りつづけるには)、ある訓練が必要になる。そして、そういう訓練のなかでは、ことばは、一種の自在さ・自由を失ってしまう。全のことばは、そういう「不自由さ」の手前で動いている。新井の詩についてつかったときのことばを流用すれば、どこへ動いていくかわからないまま(決めないまま)、ことばが動いている。それが、おもしろい。
あいはんするおもい
おもさをおもい
いのちはおもい
あなたへのおもい
おおくのおもい かかえて
多額の借金を かかえてでも
手に入れたい臓器
募金をつのってでも
救いたい命
あなたの命は わたしが手に入れる
あきらめない あなたの臓器を
あなたが話せなくても
わたしは離さない あなたを
「おもい」は「思い」であり、「重い」である。どんな「思い」も「重い」。重くない思いなど存在しない。特に、脳死移植をめぐっては、簡単には答などだせない。答など、ない。「おもい」を漢字で「思い」「重い」に書き分けないことで、全は、ことばを「決定」することを拒否している。方向を与えない。どこかへ向かうとしたら、それは、そのことばを発するひとの「肉体」のなかへと動いていくだけである。
そこでは「思想」はポンッと立たない。「肉体」が取り残されたように突っ立っていて、「思想」はその内部にぐにゃりと蓄積している、堆積している、そのずるりとした積み重ねとして肉体がある。
あなたが話せなくても
わたしは離さない あなたを
この2行の「はなす」は逆に「話す」「離す」と漢字をつかうことによって、「思想」を混乱させている。
ポンッと立つのも「思想」なら、混乱して、ぐにゃりとなだれるのも思想である。そして、なだれて、形をなくしてしまうものの方が、手ごわい。
しなせたくないおもい
ころしたくないおもい
てんびんにかけても
ぴくりともしないの
子を思う二人の母の思いは
微動だにしなかった
ポンッと立たない思想は、そうなのだ、立ち上がることそのものを拒絶しているのだ。立ち上がることを拒絶する思い、思いの重さに内部から崩れて、形をなくし、ただ「愛」になってしまうものがある。
全は、そういうものを、たたいても壊れないことばにしている。
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