詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「食卓で洟をひりながら書いた詩」(2)

2010-06-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「食卓で洟をひりながら書いた詩」(2)(「現代詩手帖」2010年06月号)

 1日の「日記」はどたばたと「ライブ」そのもので書いたのだが、1日の間を置いてほかのことを書こうと思ったのだが。意外と、ほかのことが思いつかない。第一印象の域を越えて、何かを考えるということは、あまりないのかもしれない。
 
 岡井のことばは、3種類ある。ひとつは、現実そのものを描写することば。2種類目は「文学」のなかのことば。3種類は、「現実」と「文学」を行き交うことば。こんなふうに簡単に分けしてまってはいけないのだろうけれど。
 で、それが絶妙にまじった部分。

「遠いものを連結するといふ考へ方は 必ずしも私の独創ではない」(N)
  <間断なく祝福せよ楓の樹にのぼらむとする水牛!>
  <我はどならんとすれども我の声はあまりにもアンジェリコの訪れにすぎない。
   跪きたれども永遠は余りにかまびすし。>
さて楓の樹は春美しく葉を出して秋みごとに紅葉するのを知つてるがつひぞ水牛(動物園で昔見たきり)がよじのぼるのを(NHK「ダーウィンが来た」でも)見たことはないし
「メタフォアは遠いものを連結して作ることだ」とアリストテレスは言ひ 先生はしかし「あまり自然や習慣から離れては人が笑ふからいけない」と警めてもをられる
マラルメは「詩にはナゾがなければならない。詩を読むよろこびはナゾを解くことだ」と言つたとN師は説いた
「アンヂェリコ」はあのルネサンス初期の画家フラ・アンジェリコ 「の訪れ」とはどこか遠い寺院にあるつて言ふ受胎告知のおとづれ もしかして怒鳴り声のメタフォア とはいえ「永遠は」たとへ信心ふかくひざまづいてゐても「あまりにかまびすし」いとは了解のうすぎぬがほのかに明るむ やうに思つたがこれがナゾ解きなんだらうか

 いろいろこれが「現実」、これが「文学」なとど言うのは面倒なので省略。西脇のことばにケチ(?)をつけているところなんか、私は大好きだけれど、でも省略。「ダーウィンが来た」も、見たことはないし……。
 はっと、驚くのは、

了解のうすぎぬがほのかに明るむ やうに思つた

 ここですね。「やうに」とは比喩をあらわす。「メタフォア」。直喩。で、その具体的な「メタフォア」の部分の、「了解のうすぎぬがほのかに明るむ」。これが、なんとも、説明しがたい。それこそ、ナゾ。
 すごい。
 西脇の言っていることの「註解」のふりをしながら、そこに岡井自身のナゾをしのびこませる。
 しかも、このあと、中丸明の名古屋弁の「聖書」の翻訳がつづくのだ。
 「うすぎぬのほのかに明るむ」--というのは何のことか、わかったようでわからないけれど、それがセックスと関係していると暗示する「受胎告知」の部分と重なり、
 あ、
 セックスというのは不思議だねえ。どんなに高尚(?)なことであっても、たとえばマリアの受胎告知、処女懐妊ということであっても、もろに「現実」。
 「文学」が「卑近な現実」にひきもどされる。
 「文学」が「高尚」を装えば装うほど、「あれだなあ」が「肉体」のなかにたまりつづける。そして「あれだなあ」をぐっと隠して、ひとはときどきことばを動かしたりもするんだなあ。だからこそ、それを「標準語」ではなく、「口語」そのものの「名古屋弁」なんかにひきもどすと、「あれだなあ」を突き破って何かが動いていく。
 その瞬間、わかることがある。

 ことばの健康--健康なことばは、いつでも「あれだなあ」を突き破って動いていくものなのだ。いや、「あれだなあ」を「肉体」のそこへひきもどし、解放してしまう。爆発させてしまう。一瞬の内に、吹き飛ばしてしまう。
 そして、それが詩なのだ。

 名古屋弁の「聖書」はそれ自体では詩ではないかもしれない。けれど、標準語のすましたことばの「清書」にぶつけられるとき、名古屋弁が一気に詩になる。同じことを語っているにもかかわらず、それが詩になる。
 たぶん、ここに、詩の秘密がある。
 詩は、ことばとことばのぶつかり合い--これを、別なことばで言い換えると、かけはなれたものの「出会い」。

 岡井のことばは、ずれながら(?)、またもとへ戻る。岡井は、この詩では、ことば、比喩、「メタフォア」を、さまざまに「注解」しているのだ。

 ことばは、どのことばも同じ。そして、語られていないことは、もうどこにもないかもしれない。実際、たとえば岡井が「洟をひりながら」という、いささか古めかしいことばで詩を書きはじめているが、この「洟をひる」ということばもすでに存在している。存在していないと、書いても誰にもわからない。そういうすでに存在していることばが、ある日、あるとき、新しくなるのは、何かと結びついてのことなのだ。
 どんなことばも書かれてしまっているが、まだ出会ったいないことばがあるはずなのだ。その出会いの場が「詩」である。
 そして、その「出会い」というか、結びつきは、「あれだなあ」という「距離」がいちばんいい(?)のだ。

 で、(というのは、論理をちょっとほうりだした感じのことばだけれど)、
 私は、またもとに戻ってしまうのだが、ことばというのは、たいてい、最初に「結論」がある。ひとは「結論」を語り、それを言いなおしつづけるものなのだ。岡井は、詩は「あれだなあ」のなかにあると書き(もちろん、直接、「あれだなあ」が詩である、とはかかないが)、それを繰り返し繰り返し言いなおす。
 そのなかで「あれだなあ」がゆっくりほどかれていく。ゆっくりとほどくために、岡井は岡井のことばを「注解」しつづけているのかもしれない。
 この運動には、きりがない、果てがない。それがいい。「果て」とか「結論」なんて、いらないものなのだ。






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