詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

バリー・レヴィンソン監督「レインマン」(★★★)

2010-06-07 19:33:28 | 午前十時の映画祭

監督 バリー・レヴィンソン 出演 ダスティン・ホフマン、トム・クルーズ、ヴァレリア・ゴリノ

 「午前十時の映画祭」18本目。
 私はこの映画をうまく消化しきれない。長い間別れていた兄弟が、父の死をきっかけに出会い、一週間の旅をする。その過程で、ある程度打ち解け、家族の絆をたしかめる--というストーリーである。
 とてもよくわかる。
 でも、そんなに簡単? そんな簡単に人間関係というものはかわるものだろうか。それが、よくわからない。ストーリーはわかるが、ストーリーのなかで展開されていることが、どうにもよくわからないのである。
 「自閉症」というものを私がよく知らないということも原因のひとつかもしれない。
 この映画ではデスティン・ホフマンが自閉症の兄を演じている。彼は、決まりきった日常を繰り返さないとパニックになる。新しい騒音も苦手である。一方、数字にはとても強い。記憶力もずば抜けている。この「弱点」と「天才」の対比の描き方が、私には、どうにも疑問が残るのである。
 同じ日常を繰り返さないと不安になる。日常と違ったことは全部だめ。それは、私からみれば(トム・クルーズからみても、だと思う)「どうして?」というようなことである。初対面のひとはこわい。体に触られるとパニックになる。デスティン・ホフマンの読んでいる本を手に取ってはだめ。ベッドは窓の側でないとだめ。ホットケーキにはメイプルシロップと爪楊枝がいる。下着はKマートのものでないとだめ。--こういう部分は、ダティン・ホフマンの「弱点」のように描かれている。「弱点」というより「問題点」といった方がいいのかもしれない。
 一方、電話帳の名前と番号を一回読んだだけで記憶してしまったり、床にこぼれた爪楊枝の数を即座に数えたり、三桁の掛け算を楽々とこなしたりする。そういうことは、ふつうのひとにはできない。だから、そういう部分は「天才」として描かれている。映画のなかで「天才(的)」と表現されている。(少なくとも字幕では、そういう印象が残る。)
 でも、そうなんだろうか。日常と少しでも違うとパニックを起こすことが「問題点」(弱点)であり、数字に強いのが「天才(的)」なのか。もしかすると、逆かもしれない。決まりきった日常を決まりきった状態で繰り返す、そんなふうに自己制御するというのは「天才(的)」なことであり、三桁の掛け算が暗算でできることや、一度読んだ本は覚えてしまうということの方が「問題点」かもしれない。
 三桁の掛け算の暗算や、一度読んだ本は覚えてしまうということの方が、もしかすると人間関係を「邪魔」しているかもしれない。そんな能力があるために、それをどう他人との関係のなかでいかしていいかわからなくなる。そういうことはないだろうか。
 ひとには誰でもわからないことがある。同じように、苦手なことがある。わからなかったり、苦手だったりするから、それをなんとかしようとして、他人同士が接近し、助け合うのだと思うけれど、そういうとき、数字に関する「天才(的)」能力は、「問題点」ではない?
 何かが、ちょっと違っている--と、私は感じてしまうのだ。

 「弱点」(問題点)の方は、ていねいに描かれている。
 たとえばダスティン・ホフマンはお風呂の熱湯(お湯)を先にバスタブに入れてしまうことに対してパニックを起こす。それは、彼が幼いとき、家でたぶん手伝いをしようとしてお湯を入れたことがあったのだ。そして、それを見た両親が、「あ、チャーリー(弟)がやけどをしてしまう。この子(ダスティン・ホフマン)は弟を傷つけてしまうかもしれない」と判断したということがある。そういう過去がある。それを覚えていて、ダスティン・ホフマンはパニックを起こす。--それは、パニックではあるけれど、その背景に他人(弟)に対する愛情、弟を傷つけてはいけないという判断が働いている。
 その判断は過剰かもしれない。だから「問題点」なのだろうけれど、そんなふうに判断し、自分の行動を制御するというのは、けっして「問題点」ではない。
 このことは、トム・クルーズ自身が気づく。そして、そこから兄に対して愛情というものが育ってくる。
 こんなふうにして、「問題点」と言われているものが、実は「問題点」ではない、ときちんと描くのだったら、「天才(的)」な部分の「問題点」も描かないといけないのではないのか。そうしないと、何か誤解を産んでしまいそうな気がする。

 たぶん、そういうことが描かれていないことが影響していると思う。二人の旅が飛行機も高速道路もだめという旅になってしまうのも、なんというのだろう、「必然」というよりも、まるで映画を完成させる手段のように見えてしまう。飛行機や高速道路で移動してしまっては、兄弟がふれあう時間が短すぎる。そんな短い時間では、兄弟愛が生まれ、家族の絆について考えるなんていうことを表現できない。だから、最低1週間の旅にする必要があり、その1週間の「口実」に、ダスティ・ホフマンの演じている自閉症の「飛行機がだめ」「高速道路もだめ」「日常と違ったことはだめ」が利用されているような、いやあな感じが残るのである。

レインマン [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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谷川俊太郎「午後おそく/若き日の詩集・自注」ほか

2010-06-07 12:12:02 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「午後おそく/若き日の詩集・自注」ほか(「葡萄」57、2010年05月発行)

 谷川俊太郎「午後おそく」は短い詩である。

かたむきかけた日の光は
かしの葉のふちをいろどり
そのまま芝生にとけこむようだ

応接間の回転窓は
雲の小さなすがたみとなり
気よわく夕日に対している

今日もいちにち快晴
かたむきかけた日の光が
だんだん影をのばしてゆく

 注釈は、次のようになっている。

 当時生活していた両親の家の庭と、応接室の情景を描いたほとんど写生と言っていい作である。「今日もいちにち快晴だ」などという一行はまるで中学生の日記のようで、こんな無防備な素直さは、もういまの私からは失われている。

 私は、ちょっとうなってしまった。
 谷川は「今日もいちにち快晴だ」を「中学生の日記のようで」「無防備な素直さ」がそこにある、と書いているのだが、
 うーん、どこか素直? どこが無防備?
 というよりも、「素直」「無防備」というなら、他の行だって、素直でしょ? いまの現代詩から見ると「無防備」というかなんというか、ことばが実にまっすぐに動いている。
 その動きを「写生」と谷川は呼んでいる。たしかに写生だろうなあ、と思う。「写生」って、「対象」をことばでていねいに描写することだよね。意識とか思いとかで染め上げるのではなく、「意識」をはがして、対象そのものの状態を客観的に書く--それが「写生」だね。
 そう思って、「今日もいちにち快晴だ」を読み直す。
 そうすると、この1行だけが「写生」ではないことに気がつく。ここには「対象」がない。
 たとえば、1行目「かたむきかけた日の光は」は「光」を写生している。光が「傾きかけている」ということが、そのことばからわかる。他の行も、書かれている対象が何であり、それがどんな状態かわかる。「写生」されていることがわかる。
 「今日もいちにち快晴だ」の「対象」は何? 「今日」という「一日」。それが「快晴」と写生されている? あ、これは、「写生」とは言わないよね。
 では、なんだろう。
 「説明」だね。
 「写生」と「説明」とはどう違うか。
 あ、むずかしいねえ。でも、そうでもないかな……。「写生」は自分の目で見たことをことばにする。「説明」はそうではなくて、たぶん、他人が語っていることばを流用しておこなうことなのだ。「説明」には「自分のことば」を入れてはいけない。自分ことばを排除して、みんながつかっていることばをそのままつかう。そうすると「説明」になる。「今日もいちにち快晴」は谷川が独自に何かを描写(写生)したことばではなく、だれもが語っていることば、最初から他者によって共有されていることばなのだ。
 こんなことば、大勢のひとによって最初から共有されていることばで書かれたもの--それを「中学生の日記」と呼び、「無防備な素直さ」と呼んでいるのだ。
 それは、逆に言えば、「写生」とは「共有されていない・自分だけのことば」でおこなうものになる。
 この詩に登場することばはどれもとても簡単で、それこそ中学生の書いたことばのようにも見えるけれど、「今日もいちにち快晴だ」以外の行には、たしかに谷川の「目」が動いている。谷川の「肉体」が動いている。

こんな無防備な素直さは、もういまの私からは失われている。

 と谷川は書いているが、それは、私は昔は無防備で素直だったがいまは違うという「意味」ではないのだ。
 私はもう、そんなふうに他人がつかっていることば、他人によって共有されている「流通言語」などでは詩は書いていない。そんなことはしない、と逆説的に言っているのである。
 いまは、全部、谷川自身のことばで書いている。そう宣言しているのである。
 いまの谷川は、とても素直である。正直である。(私は、この正直は「父の死」からはじまっている、と強く感じている。)その正直さは「中学生」のような正直さではなく、大人だけが身につけることのできる正直さである。素直さである。無防備さである。
 いま、谷川は、「説明」ぬきで、ことばを動かしている。



 「説明」ぬきで動かすことば--それを「写生」というなら、鷲谷峰雄「夜のキリン」も新しい「写生」といえるかもしれない。

キリンが走るとき
首から上は貧血だ
だから
ながい首は木の固さになって走る

走り終わっても
それらの貧血が立ったまま
ほぐれないので
キリンはときどき
木の表情をする

 あ、いいなあ。おもしろいなあ、と思う。ここには鷲谷の「肉体」がきちんと反映されている。その結果として「個性」がでてきている。
 そうだよなあ、あんなに長い足を一生懸命動かすには、血が全部足へ行ってしまうから、首なんかに血を廻しているひまはないなあ。貧血になるよなあ。走り終わったって、あんなに長い首の上まで血がもういちど上り詰めるには時間がかかる。それまで貧血状態だよなあ--私はキリンではないので、ほんとうのことはわからないが、鷲谷のことばをほんとうだと感じてしまう。納得してしまう。
 もちろん、そんなことは「うそ」とわかっているのだけれど、わかっているからこそ、そのことばに騙され、ほんとうと感じる瞬間を楽しむことができる。
 こういことばはいいなあ。




川師―詩集
鷲谷 峰雄
思潮社

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谷本州子『ソシオグラム』

2010-06-07 00:00:00 | 詩集
谷本州子『ソシオグラム』(土曜美術出版販売、2010年05月21日発行)

 谷本州子『ソシオグラム』の巻頭の「剪定」という作品に、はっと立ち止まった。

今年も仕事始めは
柿の木の剪定とする
脚立なしに実が取れる高さに
思いきって太い枝を切る

白い切り口に
寒風が立ち止まった
思い切り打ち当たってきたのに
枝がない
風は根元から切り口まで撫で上げ
振り返り 振り返り
立ち去った

 この2連目。風に「こころ」はないのだが、谷本は「こころ」を描いている。風に「こころ」があると信じている。
 そして、その「こころ」の動きが、またおもしろい。
 ある、そう思っていたものが、ない--そのときの、一瞬の空白。
 谷本と寒風のことを書いているのだが、それは谷本のこころの動きかもしれない。何かがあったはず。それがなくなっている。そういうものに直面したとき、立ち止まる。立ち止まって何かを考える。
 「こころ」とは何かを思うということのなかにあるのではなく、「立ち止まる」ということのなかにこそあるのかもしれない。
 「立ち止まる」その瞬間、それまで「こころ」を、あるいは私を動かしてきた「こころ」のなかのエネルギー、私のなかのエネルギーが一瞬行き場を失い、こころ、私の「肉体」のなかに、ダムの水がたまるようにたまってくる。
 その「たまってくる」感じを抱きしめる。
 
 いわゆる「現代詩」の、ことばの冒険はない。けれども、谷本のことばには、そういう「たまってくる」もの、何かを「ためる」だけの静かな力、「くらし」のなかでしっかり身につけてきた力というものがある。
 「農具」の3連目。

毎日食べ頃になる
オクラ ピーマン トマト ナス
わたしの手は鋏になる
サトイモ サツマイモには
シャベルになる
ときには鎌にも鍬にもなる
笊にもなる

 手は手である。けれど、状況によって鋏に、シャベルに、鎌に、鍬に、笊になる。そういうものに「なる」力を、谷本は「くらし」のなかでためてきたのだ。力をためてきたから、瞬間瞬間、そういうものに「なる」ことができる。
 そして、それに「なる」ということを、いまは、自然にこなしているけれど、そこにいたるまでには何回もの「立ち止まる」体験があったに違いないのだ。
 オクラを目の前にして、ピーマンを目の前にして、手はどんなふうに動くべきなのか。さっきまでシャベルをもっていた。鍬をもっていた。鎌をもっていた。でも、その動きではなく、もっとほかのものを「肉体」のなかからひきださないと、オクラやピーマンは取れない。--なんでもないことのようだけれど、それがなんでもないものになるためには、「くらし」が必要である。「くらし」を生きることが必要である。谷本は「くらし」をしっかり生き抜いている。
 
 「家守」という作品も、とても好きである。全行。

風呂上がりに
扇子を半分折り畳んだまま扇ぎながら
流しの前の磨りガラスを見るのが
癖になっている
外から
小さな白い足の指先が張り付いている

いつまでも引き摺っていた
西の空の茜色が
残らず消された頃を見計らって
音もなくやってくる
すべりやすい時間をふんばっている
  きょうもええ日やったなあ
扇子でガラス越しに足裏をノックする

家守はわたしの無事を知ると
闇に抱き取られていく

 谷本は、一日の終わりを、そんなふうにして「立ち止まり」、見つめなおす。見つめなおしたものを、自分ではなく、自分のまわりにいっしょに生きているものに返して、返すことで、いま、ここにある「自然」そのものと一体になる。

 ここには、「永遠」がある。私が私から解放されて、自然になる、その瞬間の永遠がある。



 ところで、知っていますか? ガラス窓にはりついたヤモリ--その形。ガラス越しに見ると、ひらがなの「も」の字に見えます。その「も」の字は、私もヤモリも、トマトもナスも、寒風も春風も、そして鋏も鍬も鎌も、みんな「同じ」というときに、いくつものことばを結びつけた「も」そのものなのです。
 山の中、田舎で育った私は、谷本のことばを読みながら、そんなことを思った。風呂のなかで、窓にはりついているヤモリを見ながらぼんやりと感じていたことを、いま、こうやって、思い出している。谷本の詩を読んだことによって、そのぼんやりしたものが、ことばになって動いていくのを感じた。




詩集 ソシオグラム
谷本 州子
土曜美術社出版販売

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