詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐々木安美「新しい浮子」ほか

2010-06-13 14:54:38 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木安美「新しい浮子」ほか(「一個」3、2010年春発行)

 佐々木安美「新しい浮子」はおもしろい詩である。おもしろい詩であるけれど(おもしろい詩だから?)、どこがおもしろいか書くのは難しい。いや、めんどうくさい。
 書き出し。

からだを斜めに細らせなければ 入れないところに収まって
わたしは思っている 新しい浮子が欲しいと
そうすればだれよりもたくさん釣れる
そうすればこんな窮屈なところに挟まったまま
身動きできない状態から 抜けられるはずだ

 釣り堀(?)、あるいは池で、釣りをしてるんだろうな。うまく釣れない。きっと、へたくそな釣り人が来ているなあ、というような視線を感じながら、人の間へそっとはいらせてもらって(もらって、という感覚がきっと大切)、いっしょに釣らせてもらっている。
 そして、いい浮子があれば私だって一流の釣り師になれる、釣れないのは浮子のせい、なんて思っている。自分をこの窮屈な場所から(陥没した人生から――あ、こういうことばが、実際に、詩の後半に書かれている)、浮子が救い出してくれる、なんて思っている。
 まあ、そういうことは「ほんとう」ではないのだけれど、その「ほんとう」ではないことを夢想する「正直」。それが、ことばを動かしている。その「正直」さと、書かれていることばの「大きさ」がとても釣り合っている。無理がない。自然に動いている。
 そして。
 この「正直」は、この詩で完結しない。次の詩に続いて行く。
 ページをめくると、「古い浮子」という詩がある。

以上のことを思いながら わたしの意識はふたたび夢の中に戻されてきた

 変でしょ?
 変だよね。「新しい浮子」というタイトルの詩はちゃんと完結しているのに、ページをめくると「古い浮子」という詩があらわれて、実はこの詩は前の「新しい浮子」のつづきです、というのは。
 反則、とは言わないけれど、こんな書き方していいの? こんな書き方していたら、詩がおわらない。どこまで続いていくかわからず、ずるずることばが動いていくなんて、変だよ。
 そう言いたくなるよね。

 でもねえ。
 現実って、そういうもんだよね。
 区切りがない。一応区切りをつけてみるけれど、区切りをつけたはずのものが、何か新しいこと、さっきとは別なことをしていても、ふいによみがえってくる。そして、ああでもない、こうでもない、と考えてしまう。ことばを動かしてしまう。
 これって、なんでも区切りをつけて、スパッと物事を切り替えるより、ずっと「正直」じゃない? 
 だらしがない、踏ん切りがつかない、なんていう批判もあるかもしれないけれど、「正直」だよね。わかるよね、その「正直」さ。
 その、変な(?)「正直」が佐々木のことばを貫いている。

わたしがもっともへらぶな釣りに没頭していた頃の
あけがたの いつもの釣り場に しかしなにか
巨大な生き物が深く息をしている気配があり
大気の微動が皮膚に触れる感じがあり
空の明度も不安定で 辺りがほのかに明滅している
深い息というのは 眠っているわたし自身の内部だと
そして沼と思えた底には青々と草が生えていて
なんだ くさはらの水たまりか しかし水面には
何本も浮子のトップが突き出している
ああ この夢は前にも見たことがある

 「この夢は前にも見たことがある」が象徴的だけれど、佐々木のことばは、何度も繰り返された体験のなかで、余分なものをそぎ落とされた「正直」なのだ。
 たった一回限りの純粋な思い――とは正反対。何度も何度の繰り返され、すっかりくたびれた「正直」。
 何度も繰り返すのは、それが必要だから。
 いいかえると、佐々木の「正直」は、繰り返しに耐えることのできる、しぶとい「正直」、使い込まれた家具や調度が必然的にもってしまうような艶に似た「正直」なんだなあ。

 と、ここまで書いて、私は映画「長江哀歌」を思い出した。ダムに沈む村の風景。食堂のテーブルや壁。テーブルの高さで、壁に雑巾のあとがある。テーブルを拭くとき、壁に雑巾が触れる。それが繰り返され壁に一種の「汚れ」がつく。その「汚れ」が美しい。清潔をこころがけてきた暮らしが作りだす「汚れ」なんだ。
 そこには静かな生活がある。

 いいなあ、これ。
 なんでもないことなんだけれど、ただずーっと見ていたい、そのことばのそばにいたい、そういう安心感をさそう「正直」が満ち溢れている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高柳誠『光うち震える岸へ』(5)

2010-06-13 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(5)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠のことばは、個性的である。「本質」ということばひとつ取り上げてみても、それは私たちがふつうに考える「本質」(存在を構成する恒常的なもの)とは違うものを含んでいる。
 たとえば「26」。

橋の上で風に吹かれる。風はいつも、橋のまわりを吹きめぐっている。しかも、吹き下ろす風ではなく、吹き上げる風であるところにその本質がある。

 ここで書かれている「本質」とは何? どういうこと? 「風」の「本質」は私にとっては「空気の移動」である。それ以外に定義を思いつかない。空気の移動量(あるいは速度)が小さければ、それはたとえば「微風」「そよ風」、大きければ「強風」「台風」。そして、その空気の温度が高ければ「温風」「熱風」「南風」、冷たければ「寒風」「北風」、吹いてくる方向によって「東風」「西風」にもなるし、それが下から上へ動くなら「上昇気流」、逆向きなら「下降気流」と呼ばれたりする。高柳が書いている風の「吹き下ろす」「吹き上げる」は、私にとっては、風に付随した「性質」である。「特徴」である。ところが、高柳は、それを「特徴」とは呼ばずに、「本質」と呼ぶ。これば、高柳独特の語法である。高柳語である。「日本語」で書かれているようにみえるが、それは「日本語」ではなく、「高柳語」なのである。
 「日本語」ではなく、「高柳語」であると意識しながら、つづきを読む。

下降する風と上昇する風とは、全く別の存在なのだ。吹き下ろしてくる風は、私たちの魂をこわばらせ凍えさせるのに対して、わずかな水分を含みもって吹き上げてくる風は、やさしく頬をなぶり、魂のすき間をも満たしてしまう。

 「下降する風」と「上昇する風」が「全く別の存在」であるのは、風の「本質」を「空気の移動」と定義するかぎり、成り立たない。どちらの風も移動している。それは風の「共通項」である。その存在をわけているのは「方向」である。運動である。このことから、高柳が「本質」と考えているのは「運動」そのものであるということがわかる。空気の動き、空気の運動。「動く」だけでは「抽象」である。その動きに、「下降」「上昇」という方向が加わり(付加され)、「抽象」が「具象」にかわる、その瞬間--そこに「本質」がある。
 高柳は「抽象」を「具象」にかえる何かを「本質」と呼んでいるのである。

 ふつうは(というのは、私の経験値をもとにしてのことばだから、ほんとうは「ふつう」ではないかもしれないが)、「具象」から、その「具象」である要素を取り払ったもの、「抽象」を「本質」と言うか、高柳は逆なのである。
 具体的にいうと(高柳なら、私がこれから書くことを「具体的」とはいわないだろうけれど)、「上昇気流(上昇する風)」から「上昇する」という「具体的な運動の方向」を剥奪する。そしてどこかへ動く空気の動きという「方向性をもたない、ただ運動する空気」という「抽象」にたどりついたとき、私はそれを「本質」という。「熱風」なら、「熱をもった」という「具体的」なありかたを取り払って「動く空気」と定義する。その「具体的な要素」をとりはらった「動く空気」という「抽象」が「本質」である、私は言うが、高柳はそうは言わないのである。
 逆なのである。

 そして、その「抽象」を「具象」にかえるものが「本質」である、という定義から、高柳はさらに「論理」をすすめる。
 「魂」。それは「抽象」である。「魂」だけでは、それがどんな「魂」かわからない。それはその「魂」に何かが付加されて(付随して)、ひとつの「特徴」をもつとき、はじめて「魂」としてみえてくる。「大和魂」--ということばは、魂に「大和」らしい要素がくわわったとき大和魂になる。「武士魂」も同じ。「詩人魂」「作家魂」ということばがあるかどうかわからないが、あると仮定して、それがそうであるとき、そこには「詩人」らしい特徴、「作家」らしい特徴が加わったとき、それはそんなふうに呼ばれる。「具体的」な要素が感じられるとき、それに「名前」がつく。
 「名前」をつける、「特徴」を明確にする--そのとき働く「運動」が「本質」である。
 「上昇する風」、その「上昇する」という動きが「本質」なのは、魂をどのように変化させるか--それを見ればわかる、と高柳はいうのだ。
 上昇する風に吹かれると、魂はどうなるか。
 「わずかな水分を含みもって吹き上げてくる風は、やさしく頬をなぶり、魂のすき間をも満たしてしまう。」を魂の側からとらえなおすと、魂は、吹く上げてくる風に、その頬をなぶられ、魂のすき間を満たされる--つまり、魂にすき間がなくなり、充実する。
 充実した魂--それが、魂の「理想形」である。高柳にとっては。
 まだ定義されていない魂を風が、上昇する風が、すき間のない充実したものに変化させる。魂は、形の定まらず、すき間だらけの状態から、風によって、すき間を埋められ、充実したものになる。「本質」になる。魂も「抽象」から「本質」にかわる。

 「抽象」に「具象」が加わり、本質になる。その運動のなかで、風と魂が重なる。同じ動きをする。だからこそ、ことばは次のように動いてゆく。

魂は、その人が今までにあびてきた風でできているに違いない。多くの言語で「魂」と「風」とが同じことばで名指されることは、決して偶然ではない。

 「多くの言語」を私は知らないけれど、たとえば「日本語」でいえば、高柳の指摘していることは「気風」「風貌」「風格」「風情」「風習」「風紀」ということばの「風」に通い合うといえるだろうか。「魂」といっていいかどうかわからないが、そこには確かに「こころ」「精神」のようなものが漂っている。含まれている。
 それは、いわば「魂」に「付随する」何かだが、それが高柳にとっては「本質」。いつでも「付随するもの」が「本質」。
 なぜなら、その「付随する」ものによって「運動」が規定されるからである。

 魂がどんな風に吹かれてきたか、魂は風から、その風の含んでいる「本質」をどのように吸収したか(すき間を埋めたか)によって、魂の「本質」がかわる。魂の「運動」の方向性が決まる--そういうことを、高柳は、見ているのだと思う。



 ちょっと脱線するが……。
 脱線か脱線でないのか、よくわからない部分もあるのだが、

下降する風と上昇する風とは、全く別の存在なのだ。

 このことばは、私のなかで、少し変容する。「高柳語」を考えるとき、別のことばに置き換えてみたい欲望にそそのかされる。そして、その欲望にしたがって、私は、次のように考えた。

 具象と抽象。具象を剥ぎ取られた存在は、いまそこにある存在とは全く別の存在になる。
 たとえば、高柳がここで書いている「風」は「橋の上」で吹かれるというかすかな「具象」をもっているが、実際にはどの土地の、どの橋とは明記されていない。「具象」(土地と名前)を剥ぎ取られている。吹き上げてくる風が「水分」含んでいるという表現から、橋の下に川があるかもしれないとは想像できるが、それも具体的ではない。具象ではない。
 その結果、風は、実際に高柳が(正確には、高柳が書いていることばの発話者が)吹かれている風ではなく、「どこか」の橋の上で、「だれか」が吹かれる風という、まったく別の存在になる。
 そして、そのまったく別の存在である風は、いま、ここにある具象(具体的な何か)に縛られずに、自在に、軽々と動くことができる。
 この軽快さ。
 高柳語が「具象」(具体)を捨て去り、ひたすら「抽象」をめざすのは、「抽象」が「具象」よりも軽々と運動できるからである。
 かろやかな運動のために、高柳は具象を捨てる。
 具象、具体的なものは、さまざまなものを抱え込んでいる。「風」ひとつにしても、「北風」「熱風」「東風」……。そういうものを高柳は剥ぎ取る。けれども、ひとつ、上から吹いてくるか、下から吹いてくるかという運動の形を残し、選びとる。そして、その運動を加速させる。
 すると、それが高柳ワールド、高柳語で構成された詩になる。




星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする