齋藤健一「石段」、みえのふみえき「花畑にて」(「乾河」58、2010年06月01日)
齋藤健一「石段」。ぎりぎりの肉体を感じる。きりつめられたことばと正確に向き合っている肉体。読んでいると、私のことばまで、なぜだか、きりつめられてしまう。
なぜ、こんなにことばをきりつめるのか。肉体をきりつめるのか。「ぼくの手の平や十本の爪。」は太陽の光を受け、そして去っているのを、畳のように直接確かめたか。手の平で受け止め、爪で去っていくのを感じたか。「十本の指」ではなく「爪」。不思議な視線の動きがある。
「足うらに触れる空気。」には非常に驚かされた。動くこと、立ち上がることで、血液が動き(血液が流れ)、足うらの皮膚が敏感になったのだろう。その小さな動きを、きりつめたことばで、大胆に切り取っていく。
「自分はよこへ身体をもつ。」
これは、どういう意味だろう。身体を横にした、横にした状態で生きている、という意味だろうか。なんだか、持って回った感じがして、ことばのきりつめた感覚とかよいあわない。
ほんとうに「よこへ」「もつ」と思って、あれこれ考えてみる。
「身体をもつ」と齋藤は書くが、「身体」とは「もつ」ものなのか。「もつ」というとき、なにかしら、自分とは「別」のもの、という感じがする。「身体」が「自分」とは別のものなら、「自分」とはなんだろう。それは「よこ」ではなく「まんなか」にある。
なにかが「自分」のまんなかにある。それをまんなかにおいたまま、「身体」を「よこへ」もつ。このとき「よこ」は「わき」(傍ら)になる。で、そのまんなかは? 私はふいに「ことば」と感じた。
齋藤の「まんなか」には「ことば」がある。そのことばは「身体」を「よこへ」動かしてしまう。
「足うらに触れる空気。」そう書いたときも、「足うら」は齋藤自身ではないのだ。「ことば」がまずあって、そのことばが「足うら」を齋藤の「よこ」(傍ら)へ引き寄せる。空気も。「触れる」ということばをとおして。
あらゆるものが、ことばをとおして引き寄せられる。何かが描写されているのではなく、ことばが、存在を引き寄せている。そうして、そこにはことばではなく、「存在の詩」というものが生まれる--生み出そうとしている、のかもしれない。
動詞ももたず、ただそこの場に引き寄せられたことば。「障子。」「その桟や。」「刻字」ということばなどに、特に、それを感じる。それらが、どうした、ではなく、それらが「ある」ということのなかに、詩がある。ことばにひきよせられ、存在が「ある」。「ある」ことが詩。
その存在の「ある」と、齋藤は「身体」を抜きにして対峙しているのかもしれない。
*
みえのふみえき「花畑にて」。その「Occurrence 30」。
みえののことばも、描写ではなく、存在をひきよせる運動なのかもしれない。春は最初からおまえの属性だったわけではない。みえのが「おまえの属性だった」と書いてはじめて「おまえの属性」になった。
「おまえの属性」などといわれてもなんのことかわからないが、それはあたりまえで、そういうものなど存在しなかった。みえのがことばを動かしてはじめて「存在させた」ものである。だから、わからなくて当然なのだ。
「ぼくの狂おしい抽象を礫いて」も同じ。ここに何が書いてあるかなど、だれにもわからない。それは、読者が、みえののことばをとおり、自分で存在させないかぎり、存在しないものである。
みえのが読者につたえているのは「意味」ではなく、ことばの運動のリズムそのものなのだ。
齋藤健一「石段」。ぎりぎりの肉体を感じる。きりつめられたことばと正確に向き合っている肉体。読んでいると、私のことばまで、なぜだか、きりつめられてしまう。
寒い朝。病気なのだ。しばしば陽の光は畳に白っぽい影
を作る。たちまち消える。ぼくの手の平や十本の爪。細
長い水銀柱。筋はのぼる。検温器がかたむく。障子。そ
の桟や。刻字。洗わぬ髪の毛。立ち上がる。両膝に血液
はながれる。足うらに触れる空気。自分はよこへ身体を
もつ。
なぜ、こんなにことばをきりつめるのか。肉体をきりつめるのか。「ぼくの手の平や十本の爪。」は太陽の光を受け、そして去っているのを、畳のように直接確かめたか。手の平で受け止め、爪で去っていくのを感じたか。「十本の指」ではなく「爪」。不思議な視線の動きがある。
「足うらに触れる空気。」には非常に驚かされた。動くこと、立ち上がることで、血液が動き(血液が流れ)、足うらの皮膚が敏感になったのだろう。その小さな動きを、きりつめたことばで、大胆に切り取っていく。
「自分はよこへ身体をもつ。」
これは、どういう意味だろう。身体を横にした、横にした状態で生きている、という意味だろうか。なんだか、持って回った感じがして、ことばのきりつめた感覚とかよいあわない。
ほんとうに「よこへ」「もつ」と思って、あれこれ考えてみる。
「身体をもつ」と齋藤は書くが、「身体」とは「もつ」ものなのか。「もつ」というとき、なにかしら、自分とは「別」のもの、という感じがする。「身体」が「自分」とは別のものなら、「自分」とはなんだろう。それは「よこ」ではなく「まんなか」にある。
なにかが「自分」のまんなかにある。それをまんなかにおいたまま、「身体」を「よこへ」もつ。このとき「よこ」は「わき」(傍ら)になる。で、そのまんなかは? 私はふいに「ことば」と感じた。
齋藤の「まんなか」には「ことば」がある。そのことばは「身体」を「よこへ」動かしてしまう。
「足うらに触れる空気。」そう書いたときも、「足うら」は齋藤自身ではないのだ。「ことば」がまずあって、そのことばが「足うら」を齋藤の「よこ」(傍ら)へ引き寄せる。空気も。「触れる」ということばをとおして。
あらゆるものが、ことばをとおして引き寄せられる。何かが描写されているのではなく、ことばが、存在を引き寄せている。そうして、そこにはことばではなく、「存在の詩」というものが生まれる--生み出そうとしている、のかもしれない。
動詞ももたず、ただそこの場に引き寄せられたことば。「障子。」「その桟や。」「刻字」ということばなどに、特に、それを感じる。それらが、どうした、ではなく、それらが「ある」ということのなかに、詩がある。ことばにひきよせられ、存在が「ある」。「ある」ことが詩。
その存在の「ある」と、齋藤は「身体」を抜きにして対峙しているのかもしれない。
*
みえのふみえき「花畑にて」。その「Occurrence 30」。
春はおまえだけの属性だった
川沿いに広がる麦畑の中を
おまえは自転車を押しながら遠ざかる
いまも朝焼けの脳髄で点滅する
ぼくの狂おしい抽象を礫いて
海の方から山峡にむかい
貨物列車がとおりすぎていく
みえののことばも、描写ではなく、存在をひきよせる運動なのかもしれない。春は最初からおまえの属性だったわけではない。みえのが「おまえの属性だった」と書いてはじめて「おまえの属性」になった。
「おまえの属性」などといわれてもなんのことかわからないが、それはあたりまえで、そういうものなど存在しなかった。みえのがことばを動かしてはじめて「存在させた」ものである。だから、わからなくて当然なのだ。
「ぼくの狂おしい抽象を礫いて」も同じ。ここに何が書いてあるかなど、だれにもわからない。それは、読者が、みえののことばをとおり、自分で存在させないかぎり、存在しないものである。
みえのが読者につたえているのは「意味」ではなく、ことばの運動のリズムそのものなのだ。