詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

齋藤健一「石段」、みえのふみえき「花畑にて」

2010-06-22 23:47:57 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤健一「石段」、みえのふみえき「花畑にて」(「乾河」58、2010年06月01日)

 齋藤健一「石段」。ぎりぎりの肉体を感じる。きりつめられたことばと正確に向き合っている肉体。読んでいると、私のことばまで、なぜだか、きりつめられてしまう。

寒い朝。病気なのだ。しばしば陽の光は畳に白っぽい影
を作る。たちまち消える。ぼくの手の平や十本の爪。細
長い水銀柱。筋はのぼる。検温器がかたむく。障子。そ
の桟や。刻字。洗わぬ髪の毛。立ち上がる。両膝に血液
はながれる。足うらに触れる空気。自分はよこへ身体を
もつ。

 なぜ、こんなにことばをきりつめるのか。肉体をきりつめるのか。「ぼくの手の平や十本の爪。」は太陽の光を受け、そして去っているのを、畳のように直接確かめたか。手の平で受け止め、爪で去っていくのを感じたか。「十本の指」ではなく「爪」。不思議な視線の動きがある。
 「足うらに触れる空気。」には非常に驚かされた。動くこと、立ち上がることで、血液が動き(血液が流れ)、足うらの皮膚が敏感になったのだろう。その小さな動きを、きりつめたことばで、大胆に切り取っていく。
 「自分はよこへ身体をもつ。」
 これは、どういう意味だろう。身体を横にした、横にした状態で生きている、という意味だろうか。なんだか、持って回った感じがして、ことばのきりつめた感覚とかよいあわない。
 ほんとうに「よこへ」「もつ」と思って、あれこれ考えてみる。
 「身体をもつ」と齋藤は書くが、「身体」とは「もつ」ものなのか。「もつ」というとき、なにかしら、自分とは「別」のもの、という感じがする。「身体」が「自分」とは別のものなら、「自分」とはなんだろう。それは「よこ」ではなく「まんなか」にある。
 なにかが「自分」のまんなかにある。それをまんなかにおいたまま、「身体」を「よこへ」もつ。このとき「よこ」は「わき」(傍ら)になる。で、そのまんなかは? 私はふいに「ことば」と感じた。
 齋藤の「まんなか」には「ことば」がある。そのことばは「身体」を「よこへ」動かしてしまう。
 「足うらに触れる空気。」そう書いたときも、「足うら」は齋藤自身ではないのだ。「ことば」がまずあって、そのことばが「足うら」を齋藤の「よこ」(傍ら)へ引き寄せる。空気も。「触れる」ということばをとおして。
 あらゆるものが、ことばをとおして引き寄せられる。何かが描写されているのではなく、ことばが、存在を引き寄せている。そうして、そこにはことばではなく、「存在の詩」というものが生まれる--生み出そうとしている、のかもしれない。
 動詞ももたず、ただそこの場に引き寄せられたことば。「障子。」「その桟や。」「刻字」ということばなどに、特に、それを感じる。それらが、どうした、ではなく、それらが「ある」ということのなかに、詩がある。ことばにひきよせられ、存在が「ある」。「ある」ことが詩。
 その存在の「ある」と、齋藤は「身体」を抜きにして対峙しているのかもしれない。



 みえのふみえき「花畑にて」。その「Occurrence 30」。

春はおまえだけの属性だった
川沿いに広がる麦畑の中を
おまえは自転車を押しながら遠ざかる
いまも朝焼けの脳髄で点滅する
ぼくの狂おしい抽象を礫いて
海の方から山峡にむかい
貨物列車がとおりすぎていく

 みえののことばも、描写ではなく、存在をひきよせる運動なのかもしれない。春は最初からおまえの属性だったわけではない。みえのが「おまえの属性だった」と書いてはじめて「おまえの属性」になった。
 「おまえの属性」などといわれてもなんのことかわからないが、それはあたりまえで、そういうものなど存在しなかった。みえのがことばを動かしてはじめて「存在させた」ものである。だから、わからなくて当然なのだ。
 「ぼくの狂おしい抽象を礫いて」も同じ。ここに何が書いてあるかなど、だれにもわからない。それは、読者が、みえののことばをとおり、自分で存在させないかぎり、存在しないものである。
 みえのが読者につたえているのは「意味」ではなく、ことばの運動のリズムそのものなのだ。
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八重洋一郎『白い声』(2)

2010-06-22 00:00:00 | 詩集
 八重洋一郎『白い声』(2)(澪標、2010年06月30日発行)

 くりかえすということをとおして、八重洋一郎は「真理」をつかむ。くりかえしのなかに、「真理」がある、ということを八重は知っている。
 そして、そのくりかえしは、実は、不思議な特質を持っている。
 「巫(ふ)」という作品。その3連目。

生まれることは闇ではない
<生マレルコトハ闇デアル>
みまかることは闇ではない
<ミマカルコトハ闇デアル>
必ず光は示されるだろう
<待ッテモ待ッテモクラヤミバカリ>
生きてあることの光を信ぜよ
<生キテアルコトハ闇デハナイカ>
死んで無いことの光を信ぜよ
<死ンデナイコト ソレコソマサニ闇デハナイカ>

 くりかえしは、その内部に、まったく反対のものを含んでいる。あることがらがくりかえされるとき、それとはまったく逆のことが、その内部でくりかえされる。いや、内部ではなく、外部かもしれないが……。
 いや、内部は外部であり、外部は内部である。それは、つまり、螺旋なのだ。

生死つらぬくまことの覚悟はただひとつ

<万物は
たえない螺旋の循環なれば
生き死にの
あらゆる明暗
あらゆる恐怖はあたりまえ

 「くりかえし」は「循環」とここでは呼ばれている。そしてそれは「螺旋」である。正反対のものが内と外、表と裏にぴったりと切り離せない形でくっついている。だから、それは、「螺旋」というねじれを描いてしまう。
 そして、これからが、八重のいいところなのか、課題なのか、評価が分かれるところだと思うが、八重のことばは「螺旋」を描くに従って、「暗礁(リーフ)」のことばがもっていた「具体性」を失っていく。次第に「抽象的」になっていく。この過程を「精神の純粋運動化」ということもできるかもしれないが、私には、ちょっとついていくのがつらくなることばである。
 「円錐尖点詩論」。

宇宙は倒立円錐であると断定せよ
天空をなすその底円の半径は無限 もちろん
深さも さらに無限
ビッグ・バン以来のすべての時間をはるかに超えて--
さまざまな事象 さまざまな歴史 さまざまな感情いっぱいつめて
倒立円錐はその体積の圧力で針よりもほそい尖点となって
頭のま上からあなたをつきさす

 「くりかえし」は、ここでは「さまざまな事象 さまざまな歴史 さまざまな感情いっぱいつめて」という行の「さまざま」ということばで表現されている。「さまざま」とは「複数」に見えるが、実は「くりかえし」という「ひとつ」である。その行における「複数」は「さまざま」ではなく「事象」「歴史」「感情」である。そして、「事象」「歴史」「感情」は、それぞれ独立したものではなく、「巫」の詩で見たような「表裏」あるいは「外部・内部」である。そこに書かれている「事象」「歴史」「感情」ということばが2種類ではなく、3種類であるために、「表裏」「内部・外部」という関係をはみだしているように感じられるけれど、それは3種類の「螺旋」である。この詩では3種類のものが螺旋を描き、その螺旋は次第に拡大し(あるいは凝縮し)、「倒立円錐」を形作っている。
 とてもよくわかる。とても明解な「数学」(あるいは物理)である。
 だからこそ、私は、ついていくのがつらい。ついていけない、と感じてしまう。
 「頭のま上からあなたをつきさす」という行。そこに「頭」が登場するが、あ、まさに、ここに書かれていることは「頭」で把握し直した何かである。「肉体」(肉眼)が消えてしまっている。--肉眼を超越して、頭脳が世界を再構築している、といういい方もできるかもしれない。
 詩のことばが、ここまで「純粋化」されてしまうと、「誤読」の楽しみがない。

 あ、私の書いていることは「誤読」の最たるものかもしれないけれど、その「誤読」が、ここでは許されない--そういう意味で「誤読」の楽しみがない。
 谷内の書いていることは誤読だ--という批判は、私は、とても気に入っている。私はいつでも「誤読」できるから文学はおもしろい、と考えるのだけれど……。というか、どこまで「誤読」を拡大できるか、私のほかにたとえば「だれそれはこんな誤読をしている」「だれそれはもっとへんなこと(?)を感じている」というふうに、ありえない読み方をどれだけ抱え込むことができるかが、文学の「評価」のひとつとしてあっていいと考えているのだけれど、八重の「円錐尖点詩論」というような詩は、どこかで「誤読」を拒絶している感じがある。「正解」を詩が内部に抱え込んでいる感じがする。「正解」が八重の「頭」のなかにある感じがする。
 それが、私には、つらい。
 
 言いなおそう。
 「暗礁(リーフ)」でも、「答え」というか、八重自身が考えていること、感じていることが、八重の「頭」のなかにあるといえる。そして、それと違うものを「誤読」と八重は言うかもしれない。(そう言って、かまわないと私は感じている。)けれども、そういう「反論」がたとえ八重から発せられたとしても私は気にしないのである。「暗礁」の場合は。
 「暗礁」では、たとえば「脱皮」とか「蛇」とか「しら波」とかということばがある。それは、八重の「頭」のなかの何かをあらわしているかもしれないけれど、八重の頭とは無関係に、実際に、そこに存在する。存在するものとして、私は感じている。「真理」(生死つらぬくまこと)は、八重の「頭」のなかではなく、「脱皮」「蛇」「しら波」そのもののなかにある、と私は感じるからである。
 それは八重の「頭」のなかにあるものと違っていたっていい、と私は思う。
 でも、円錐尖点詩論」のことばは、その根拠を、八重の「頭」のなかにしか置いていない。そう感じて、私は、あ、ついていくのがつらい、と感じるのだ。
 この詩には、八重の「思想」が純粋なことばの運動として書かれている--はずである。だから、それは、この詩集のいちばんいい部分である、かもしれない。でも、そんなふうに純粋に「頭」になってしまったことばは、私には、つらい。

 あ、これは、単純に好みの問題かもしれないのだけれど。
 私は、「暗礁」など、前半にある詩が好きだ。後半にいくに従って、ことばが「頭」のなかだけを動き回る感じがしてきて、つらくなる。もっと南の島の「空気」を感じたいなあ、という気持ちが強くなる、と書けばよかったのかもしれない。

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