詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『光うち震える岸へ』(10)

2010-06-18 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(10)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 きのう、私は詩集のタイトルの『光うち震える岸へ』ということばについて、勝手な「誤読」を書いた。
 実は、詩集のタイトルは、私が「誤読」した部分を掬い取ったものではない。「78」に、はっきりタイトルが出てくる。私は、後先を考えず、ただ感じたまま、考えたままを、「ライブ」として書いていくので、こんなことが起きる。(最後まで詩集を読んで、それから自分の考えを整理した上で、起承転結というか、論理の筋道を考え、「結論」を決めてから書くひとは、こういう「誤読」を犯さないだろう。)
 で、その「78」。

夕日が城壁を照らし出し、その反照のなかですべてが移ろってゆく。(略)長い年月にわたる古都の時々の変遷も、夕暮れが生み出すいくつもの光の層とそれぞれ密かに通底しあって、移ろいのなかでたゆたっている。すべてが夕暮れの移ろいのなかにある。戯れ、漂うすべての事物の影は、様々な相貌を一瞬見せ、夕暮れの光がうち震える岸へ寄せてゆく。やがて、闇がすべてを包みこむ新たな夜が、静かに古都にしのび寄る。

 詩集のタイトルは、「夕暮れの光がうち震える岸へ寄せてゆく。」から取られている。それはそれとして、私は、しかし、私の「誤読」はそんなに「誤読」でもないかもしれないと感じてもいる。
 「78」で私が興味をもったことばはふたつ。ひとつは「通底」。もうひとつは「闇」。「闇」については、あとで(あるいは、後日になるかなあ……)触れるが、「通底」に、私は刺激された。いろいろなことを考えてしまった。
 で、ここから、強引に私は、きのうの「誤読」へと引き返すのだけれど……。

 「通底」って、何? 「通底する」って、何? いや、意味はわからないでもない。「底の方で通い合っている」という意味だと思う。
 けれど。
 こんなことば、ないでしょ? あ、私は、あれっ、ワープロで返還されない。なぜ? と思い、広辞苑で確かめたのだけれど、載っていない。
 造語?
 わけのわからないまま、でも、「わかっている」ことを頼りに書くと--「通底」はぜったいに、「底の方で通い合っている」という意味であり、その「底」は「奥」でもある。そして、「通い合っている」とき、そこに「現象」としてあらわれてくるのは「音楽」である。「響き」である。「音」--その振動(波動)が、意識できない奥底で通い合っている。そして、それが静かに響きあい、「移ろう」。
 そんな感じであると、私は「誤読」する。
 そして、その瞬間。
 「通底」って、もしかすると「通奏低音」から生まれてきている?
 私は音痴なので音楽のことはまったくわからないで書くのだが、クラシックで、なにやらぶーんというような感じで、どこからとも聞こえてくる低い音、ずーっとつづく音のことかなあ、と思うけれど、こういう印象は、音楽だけではなく、何か、「意識」そのもの運動にも感じることがあるね。
 ときどき「基調低音」というようなことばも読むような気がするけれど、これも似ている。
 その音楽そのものは、音痴の私は、ちょっと回避して……。
 高柳がここで書こうとしているのは、きっと、何かしら、ものの奥にある振動(波動)の共鳴のことだなあ、共鳴しながらそれが変化している。変化しているけれど、共鳴そのものは守っているので、「和音」の「基本」が維持されたまま、そしてその「維持」(普遍)があるからこそ、そこにあるものが「移ろい」「ただよう」という「ゆらぎ」として感じられる、ということだと思う。--そんなふうに「誤読」する。
 もし、そうであるなら、きのう最後に書いたこと、

 世界でいちばん美しいのは「抒情」である。「抒情」は波動としてつたわる。「もの」それぞれの「波動(振動)」と「心」の「波動(振動)」が共振し、「ことば」となって響くとき、世界の隠れた「音楽」があらわれる。世界のすべてが「抒情」としてあらわれる。「抒情」は「世界」と「私」の「共振」である。

 というのは、そんなに的外れな「誤読」でもないと思えてくる。
 (あ、これは、私が単に、きのう書いたことに、きょう感じたことを強引に結びつけているだけ、ということかもしれないけれど。)
 そして、きのう「抒情」と書いた部分を「夕暮れの移ろい」と書き直せば、きょう読んでいる部分と重なるかなあ、とも思うのだ。

 世界でいちばん美しいのは「夕暮れの移ろい」である。「夕暮れの移ろい」は波動としてつたわる。「長い年月にわたる古都の変遷」、それぞれの「変遷を演奏する音楽」は、いま、ここ、この「夕暮れの音楽」の「光の幾層もの音楽」と共振し、静かに響いている。「夕暮れの音楽」の「通奏低音」となって響いている。それが静かに「移ろい」「ただよう」感じで響いている。その「波動(振動)」としての「音楽」が、「夕暮れの光が打ち震える岸」--「光」のいちばん美しい瞬間に向けて、静かにその「音楽」を広げていく。世界でいちばん美しいものは、その音楽の静かな動き、「移ろい」である。

 そして、その「岸」。「光がうち震える岸」と「闇」が、ここで、出会う。それは単なる「闇」ではなく、「新たな夜」である。新しい夜である。



 きょうは、ここまで。ちょっと短い感想、舌足らずの感想になってしまったが、「50」以降、「78」まで一気に読んできて、書く時間が短くなったというのが、私のいまの現実である。(「ライブ」なので、補足しておく。)
 「50」以降、私は少し書くことがなくなってしまった。「50」以降の部分が、それまでの高柳のことばの運動と少し違っているように感じ、実は、とまどってしまった。詩というよりは、「旅行記」そのものになっている感じがした。明確にそうとは書いていないのだが、エル・グレコ、そしてその画家にゆかりのトレドの町がそのまま目の前に浮かんでくるような描写がある。エルグレコ、トレドなどの名前は出てこないが、名前以上に「直接的」な感じがして、それまでの「浮遊感」「共振」による「音楽」というものと違うなあ、と感じたのである。
 それが「78」へきて、再び、「共振」へともどった感じがした。高柳のことばをそのままつかえば、「78」には、「50」以前を貫いていた「低音」が奏でられている。その「低音」に呼応してことばが動いている。
 そう感じて、私はきょうの「日記」を書きはじめたのだった。




廃墟の月時計/風の対位法
高柳 誠
書肆山田

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