山本みち子「山本さん」、松岡政則「書いてはやめる」(「馬車」42、2010年06月05日発行)
山本みち子「山本さん」のどこがおもしろいか。説明にちょっと困る。
これには事情があるのだけれど、まあ、それはどうでもいい。だから、途中を省略して、最終連。
山本が自分自身を「山本さん」と敬称をつけて呼ぶこと(書くこと)は、「学校教科書」の国語、「流通言語」でいえば「反則」である。変な日本語である。
けれど、その、変、のなかに書きたいこともあるのだ。
この詩は、山本が自分自身を「山本さん」と呼ぶことをやめたら、まったくおもしろくなくなる。
山本が自分自身を「山本さん」と呼ぶのは、「山本さん」は自分であるけれど、ちょっと違う、ほんとうの自分ではない、うその、というのではないけれど、ちょっと切り離したい、自分からは遠ざけたい--というか、「他人」にしてしまいたいような何かなのである。
実は、山本は、近所に引っ越してきた「山本さん」への手土産を自分への手土産と勘違いして食べてしまったことがある。その勘違いしてしまった自分を、ちょっと遠ざけたい。それで、自分のことでああるけれど「山本さん」とまるで他人行儀に扱っているのである。
勘違いした自分など、隠しておけば、何でもない。
でも、言いたい。ほんものの「山本さん」にばれるとちょっと恥ずかしいけれど、その恥ずかしいことを、書きたい。ほかの人には教えたい。肝心の人には教えず、たとえば、「馬車」という同人誌に集っている人には教えたい。私のような見知らぬ読者にも話したい。
でも、なぜ、そんなことを教えたいのだろう。その答え(?)が、実は、最後にある。最終連にある。
無精髭の山本さんは、実は、家にちょっとした事情があるみたいだ。明確ではないのだけれど。そして、その事情は真剣に考えると「不幸」といっていいものなのだけれ。そしてそれは、ほんとうは隠しておきたいことなのだけれど。でも、その隠しておきたいことは、「知らぬは本人だけ」というくらいに知れ渡っている。といっても、それは町内のひとの憶測なのだけれど--また、私の憶測なのだけれど。その知れ渡っていることを、たぶん無精髭の山本さんは知っている。「知らぬは本人だけ」ということさえ知っていて、「あ、山本さんの件ね」と無精髭の山本さんは「他人」のように感じている。ように、見える。
そこに「幸せ」の味がある。
あ、ちょっと書きたいことと違ってしまったかなあ。
無精髭の山本さんの「不幸」は山本の(町内のひとの、そして私の)憶測である。それは知っているつもりでも、知らないことである。無精髭の山本さんは、私たちの憶測とは違って「幸せ」そうである。ほんとうに幸せなのかもしれない。少なくとも「居心地」は悪くない。なぜか。隠していないからである。無精髭であるということさえ、隠していない。さっぱりしている。
無精髭がさっぱりしている--というのは矛盾だけれど、そこには、ずぼら特有の「さっぱり」がある。無理をしない、という気楽さがある。
この「さっぱり」感が「幸せ」。「居心地」がいいことが「幸せ」。「無理をして隠さない」、「隠すという無理をしない」ことが「幸せ」。
山本は、その不精髭の山本さんにならって、自分の隠しておきたいことを、見えるようにするのである。そのとき、自分のことなのだけれど、自分のことじゃないみたいに「さん」づけをしてあばいてしまう。
「さん」づけは、「他人」であることの証拠である。
これは、うそなんだけれど、そのうそは、山本さんの無精髭にいくらか似ている。自然発生的(?)な何かである。
と、書いて、あ、またちょっと違ったことを書いてしまったかなあ、とも思う。というより、書いた瞬間に、ふいに違ったことを書きたくなる。
山本が、無精髭の山本さんへの手土産を勘違いして食べてしまって、それを内緒にしていること--それは一種の無精髭である。ずぼらである。「間違えて食べてしまいました。ごめんなさい」と言えばいいのを、内緒にしている。無精髭の山本さんに対しては内緒にしながら、「馬車」の同人や、詩の読者には内緒にしていない。見えるようにしている。とても奇妙な「無精髭」のような状態だ。
そういうものが、この詩のなかで重なっている。
そして、その重なり合わせ(重ね合わせ)の接着剤になっているのが、自分自身を「山本さん」と呼ぶ、その「さん」づけにある。
自分自身に厳しくない。自分自身を甘やかしている。それって、「居心地」がいい。無精髭の「居心地」のよさ、というのは、これだね。「居心地が悪い」と書くことさえ、なんだか「居心地」が「いい」。無理をするのは、やめた。体裁をとりつくろうのは、やーめた。
と、いいながら、山本さんが無精髭をポチポチ抜くように、山本は自分自身の行為を、山本「さん」という敬称でととのえる。
--そこも、似ている。
あ、変な感想になってしまったなあ……。
*
ちょっと、いいわけ。強引なこじつけ。
山本の詩への感想が、とてもへんてこな、あっちへ行ったりこっちへ来たりという文章になってしまったのは、きっと、松岡政則の「書いてはやめる」を同時に読んだから……。
これは最終連。
何回か、「(と書いてはやめる。」がくりかえされる。書いてはやめるのは、書きたいことを書きはじめるけれど、ことばが順調に(?)動いてくれないから。動いてくれないのだけれど、だからといって、それを捨ててしまうのは、気持ちが落ち着かない。
少し置いておけば、ことばは、だれかのなかで動いてくれるかもしれない。
というより、そういう気持ち、だれかのなかでことばがかってに動いて行ってしまうこと--そういうことをこそ書きたくて、途中までのスタイルにする、ということもあるのだ。
の「どこまで」。それはことばが動いていくところまで、なのだ。「その熟れているを爛れているを啜るしゃぶりつく夜のもも」という進みながらねじれ、ずれ、動く。「どこまで」はなく、「どこか」へたどりついたと思ったらそこが出発点。動詞の主語(私は)は消えてしまって対象と、対象への運動だけがある。運動は、「肉体」ではなく、ことばで明確になる。ことばが「肉体」になる。そうすると、もう書けなくなる。書いては、やめる。
そうなんだなあ。どんな詩のことばも、ある瞬間、ことばであることをやめてしまう。そこにはことばはなくて、「肉体」がある。ことばなのに、ことばではない。そういう瞬間が詩なのだ、と思う。
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山本みち子「山本さん」のどこがおもしろいか。説明にちょっと困る。
山本さんと 山本さんが
バス停で並んでいる
山本さんであるわたしは
もうひとりの山本さんが
山本さんということを知っていて
もうひとりの山本さんは
わたしが山本さんであることを
知らないだろう たぶん
これには事情があるのだけれど、まあ、それはどうでもいい。だから、途中を省略して、最終連。
山本さんと 山本さんが
冬晴れのバス停に並んでいて
わたしである山本さんは 居心地が悪くて
無精ヒゲなどポチポチ抜きながら
なぜか 幸せそうなのである
山本が自分自身を「山本さん」と敬称をつけて呼ぶこと(書くこと)は、「学校教科書」の国語、「流通言語」でいえば「反則」である。変な日本語である。
けれど、その、変、のなかに書きたいこともあるのだ。
この詩は、山本が自分自身を「山本さん」と呼ぶことをやめたら、まったくおもしろくなくなる。
山本が自分自身を「山本さん」と呼ぶのは、「山本さん」は自分であるけれど、ちょっと違う、ほんとうの自分ではない、うその、というのではないけれど、ちょっと切り離したい、自分からは遠ざけたい--というか、「他人」にしてしまいたいような何かなのである。
実は、山本は、近所に引っ越してきた「山本さん」への手土産を自分への手土産と勘違いして食べてしまったことがある。その勘違いしてしまった自分を、ちょっと遠ざけたい。それで、自分のことでああるけれど「山本さん」とまるで他人行儀に扱っているのである。
勘違いした自分など、隠しておけば、何でもない。
でも、言いたい。ほんものの「山本さん」にばれるとちょっと恥ずかしいけれど、その恥ずかしいことを、書きたい。ほかの人には教えたい。肝心の人には教えず、たとえば、「馬車」という同人誌に集っている人には教えたい。私のような見知らぬ読者にも話したい。
でも、なぜ、そんなことを教えたいのだろう。その答え(?)が、実は、最後にある。最終連にある。
無精髭の山本さんは、実は、家にちょっとした事情があるみたいだ。明確ではないのだけれど。そして、その事情は真剣に考えると「不幸」といっていいものなのだけれ。そしてそれは、ほんとうは隠しておきたいことなのだけれど。でも、その隠しておきたいことは、「知らぬは本人だけ」というくらいに知れ渡っている。といっても、それは町内のひとの憶測なのだけれど--また、私の憶測なのだけれど。その知れ渡っていることを、たぶん無精髭の山本さんは知っている。「知らぬは本人だけ」ということさえ知っていて、「あ、山本さんの件ね」と無精髭の山本さんは「他人」のように感じている。ように、見える。
そこに「幸せ」の味がある。
あ、ちょっと書きたいことと違ってしまったかなあ。
無精髭の山本さんの「不幸」は山本の(町内のひとの、そして私の)憶測である。それは知っているつもりでも、知らないことである。無精髭の山本さんは、私たちの憶測とは違って「幸せ」そうである。ほんとうに幸せなのかもしれない。少なくとも「居心地」は悪くない。なぜか。隠していないからである。無精髭であるということさえ、隠していない。さっぱりしている。
無精髭がさっぱりしている--というのは矛盾だけれど、そこには、ずぼら特有の「さっぱり」がある。無理をしない、という気楽さがある。
この「さっぱり」感が「幸せ」。「居心地」がいいことが「幸せ」。「無理をして隠さない」、「隠すという無理をしない」ことが「幸せ」。
山本は、その不精髭の山本さんにならって、自分の隠しておきたいことを、見えるようにするのである。そのとき、自分のことなのだけれど、自分のことじゃないみたいに「さん」づけをしてあばいてしまう。
「さん」づけは、「他人」であることの証拠である。
これは、うそなんだけれど、そのうそは、山本さんの無精髭にいくらか似ている。自然発生的(?)な何かである。
と、書いて、あ、またちょっと違ったことを書いてしまったかなあ、とも思う。というより、書いた瞬間に、ふいに違ったことを書きたくなる。
山本が、無精髭の山本さんへの手土産を勘違いして食べてしまって、それを内緒にしていること--それは一種の無精髭である。ずぼらである。「間違えて食べてしまいました。ごめんなさい」と言えばいいのを、内緒にしている。無精髭の山本さんに対しては内緒にしながら、「馬車」の同人や、詩の読者には内緒にしていない。見えるようにしている。とても奇妙な「無精髭」のような状態だ。
そういうものが、この詩のなかで重なっている。
そして、その重なり合わせ(重ね合わせ)の接着剤になっているのが、自分自身を「山本さん」と呼ぶ、その「さん」づけにある。
自分自身に厳しくない。自分自身を甘やかしている。それって、「居心地」がいい。無精髭の「居心地」のよさ、というのは、これだね。「居心地が悪い」と書くことさえ、なんだか「居心地」が「いい」。無理をするのは、やめた。体裁をとりつくろうのは、やーめた。
と、いいながら、山本さんが無精髭をポチポチ抜くように、山本は自分自身の行為を、山本「さん」という敬称でととのえる。
--そこも、似ている。
あ、変な感想になってしまったなあ……。
*
ちょっと、いいわけ。強引なこじつけ。
山本の詩への感想が、とてもへんてこな、あっちへ行ったりこっちへ来たりという文章になってしまったのは、きっと、松岡政則の「書いてはやめる」を同時に読んだから……。
半月。ベランダで岡山のももを食う。手をべとつかせながら薄い皮
をむく。その熟れているを爛れているを啜るしゃぶりつく夜のもも。
なかのさねがぴくんと震えているのがわかるどこまでが果物なんだ。
(と書いてやめる。
これは最終連。
何回か、「(と書いてはやめる。」がくりかえされる。書いてはやめるのは、書きたいことを書きはじめるけれど、ことばが順調に(?)動いてくれないから。動いてくれないのだけれど、だからといって、それを捨ててしまうのは、気持ちが落ち着かない。
少し置いておけば、ことばは、だれかのなかで動いてくれるかもしれない。
というより、そういう気持ち、だれかのなかでことばがかってに動いて行ってしまうこと--そういうことをこそ書きたくて、途中までのスタイルにする、ということもあるのだ。
どこまでが果物なんだ
の「どこまで」。それはことばが動いていくところまで、なのだ。「その熟れているを爛れているを啜るしゃぶりつく夜のもも」という進みながらねじれ、ずれ、動く。「どこまで」はなく、「どこか」へたどりついたと思ったらそこが出発点。動詞の主語(私は)は消えてしまって対象と、対象への運動だけがある。運動は、「肉体」ではなく、ことばで明確になる。ことばが「肉体」になる。そうすると、もう書けなくなる。書いては、やめる。
そうなんだなあ。どんな詩のことばも、ある瞬間、ことばであることをやめてしまう。そこにはことばはなくて、「肉体」がある。ことばなのに、ことばではない。そういう瞬間が詩なのだ、と思う。
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