大橋政人「幸せの実物」、金井雄二「椅子」(「独合点」101 、2010年05月15日発行)
大橋政人「幸せの実物」の1連目は、何が書いてあるのか、よくわからない。つまずく。日本語になりきれていない。
「自分ではない/自分の外に」って、何? 「そとに」? 「ほかに」? 読み方もわからない。
たぶん、「自分ではない/自分」というものが、「自分」のなかにあって、その「自分ではない/自分」というものと向き合い、それが「ほんとうの自分」である、ということをつきつめていくというのが「文学」である--というような思いに私が汚染されているのかもしれない。
つまずいたまま、短い詩なので、そのまま読んでゆく。
あ、自分の幸せではなく、自分以外のだれかの幸せが身近にあれば、自分も幸せになれる。幸せを感じることができる。そういうことだったんだね。「自分の外の/自分」「自分の内の/自分」「自分ではない/ほんとうの自分」というような、面倒くさいことではなくて、単純に、自分じゃなくたっていい、だれかが幸せなら自分も幸せを感じることができる--そういうこと。
そういう単純なことに、すぐに私の頭が動いていかないのは、やっぱり「現代文学(?)」に、あるいは「現代詩(?)」に私が汚染されてしまっているんだろうなあ。
その汚れを、大橋のことばは、すばやく、軽く、何でもないことのように洗い流してくれる。それがいい。
猫が一匹。それを見て、「一人だけの身寄りの姉」が「幸せもんだよ」と言う。大橋自身は、最初は、猫のことをそんなふうに考えても、感じてもいなかったかもしれない。けれど、姉のことばを聞くたびに、そうかもしれないなあ、と思う。「姉」がどんな暮らしをしているか、ここには書いてないけれど、猫よりも孤独を生きているかもしれない。「一人だけの身寄り」とは大橋から見てそうなのかもしれないけれど、そういうことばが自然にでてくるのは、実は「姉」こそが「ひとり暮らし」なのではないか、と想像させる。「姉」はひとりでくらしているけれど、猫はこうして家族(?)と暮らしている。愛してくれる人といっしょに暮らしている。「幸せもんだよ」。
そうがねえ、と大橋は実感している。猫は家中を駆け回り、大橋に跳びついてくる。だれかに跳びつける。体当たりできる。ことばではなく、ただ体をぶっつけ、私はここにいると言える。それができる「安心」。それは、たしかに幸せなことだ。「姉」もそういう一瞬を求めて大橋の家へたびたび来るのかもしれない。
そして、幸せは、そういう「安心」をだれかに提供できるというのも、これはまた、たいへんな幸せである。自分が幸せでないと、だれかを受け止めることができない。--ということまで、大橋は書いてはいないのだけれど、私はついつい感じてしまう。
大橋は、まあ、私が書いたような、めんどうくさいことを書いてしまうと、ことばがまた濁ってしまうのを知っている。「現代文学」っぽくなってしまうのを知っている。だから、そんなふうには書かず、
なるほどなあ。必要なのは、「実物」である。そして、「実物」はいつでも、ことばを超えている。そこにはことばなんか、届かない。
私はふいに、1連目を書き換えたくなる。
大橋のことばは、まさに「ことばの外に」幸せを持っている。「現代詩のことばの外に」、ことばがあって、そのことばと幸せがいっしょに日向ぼっこしている。その実物としての「ことば」を私たちに、「これでもか/これでもかと見せつけている」。
そんな幸せを見せつけられると、悔しいけれど、その悔しさが、なんとなくうれしいね。
なんとなく、ではなく、とっても、うれしいね。
*
金井雄二「椅子」は、大橋の作品と不思議な感じで呼応している。金井は「不幸な幸せ」「寂しい幸せ」「哀しい幸せ」のようなものを書いている。それは、だれもが味わうもの。そして、それを味わえるということが、実は生きる幸せ--といでも言うようなことを書いている。
「哀しみ」「寂しさ」--それはひとりで味わうものだけれど、それはだれもが味わうことでひとりのものではなくなる。そういうことをひとはいつしか知る。
「多くの人たちがこの道を歩いたのです/電車の線路のような道です/踏みしめると石と石が泣きだします」。その行の中にひっそりと書かれている「多くのひと」、それは「みんなが待っています」の「みんな」である。そこには、ひとりひとりに「名前」はない。「名前」はもちろん人間ならだれでももっているけれど、それを剥がしてしまって、無名になっている。それは線路の下の「石」のよう。「石」と「石」が触れ合って、泣く。「石」という「実物」になって、泣く。
金井は、大橋とは違った「実物」を書いているのである。
大橋政人「幸せの実物」の1連目は、何が書いてあるのか、よくわからない。つまずく。日本語になりきれていない。
自分ではない
自分の外に
幸せが一個
あるだけで幸せだ
「自分ではない/自分の外に」って、何? 「そとに」? 「ほかに」? 読み方もわからない。
たぶん、「自分ではない/自分」というものが、「自分」のなかにあって、その「自分ではない/自分」というものと向き合い、それが「ほんとうの自分」である、ということをつきつめていくというのが「文学」である--というような思いに私が汚染されているのかもしれない。
つまずいたまま、短い詩なので、そのまま読んでゆく。
ここんちの猫は
ほんとに幸せもんだよ
お前も、いい家にもらわれてきたな
今では一人だけの身寄りの姉が
遊びに来るたびにそう言う
来るたびに言うので
わが家の猫は
どんどん幸せになっていく
家の中は静かだし
部屋から部屋へ
全速力で走りまわり
そのついでに
突然、私の背中に跳びついてくる
言葉ではない
幸せの
実物である
小さい幸せはいま
縁側に正座している
静かに外の光を浴びている
実物を、これでもか
これでもかと見せつけながら
あ、自分の幸せではなく、自分以外のだれかの幸せが身近にあれば、自分も幸せになれる。幸せを感じることができる。そういうことだったんだね。「自分の外の/自分」「自分の内の/自分」「自分ではない/ほんとうの自分」というような、面倒くさいことではなくて、単純に、自分じゃなくたっていい、だれかが幸せなら自分も幸せを感じることができる--そういうこと。
そういう単純なことに、すぐに私の頭が動いていかないのは、やっぱり「現代文学(?)」に、あるいは「現代詩(?)」に私が汚染されてしまっているんだろうなあ。
その汚れを、大橋のことばは、すばやく、軽く、何でもないことのように洗い流してくれる。それがいい。
猫が一匹。それを見て、「一人だけの身寄りの姉」が「幸せもんだよ」と言う。大橋自身は、最初は、猫のことをそんなふうに考えても、感じてもいなかったかもしれない。けれど、姉のことばを聞くたびに、そうかもしれないなあ、と思う。「姉」がどんな暮らしをしているか、ここには書いてないけれど、猫よりも孤独を生きているかもしれない。「一人だけの身寄り」とは大橋から見てそうなのかもしれないけれど、そういうことばが自然にでてくるのは、実は「姉」こそが「ひとり暮らし」なのではないか、と想像させる。「姉」はひとりでくらしているけれど、猫はこうして家族(?)と暮らしている。愛してくれる人といっしょに暮らしている。「幸せもんだよ」。
そうがねえ、と大橋は実感している。猫は家中を駆け回り、大橋に跳びついてくる。だれかに跳びつける。体当たりできる。ことばではなく、ただ体をぶっつけ、私はここにいると言える。それができる「安心」。それは、たしかに幸せなことだ。「姉」もそういう一瞬を求めて大橋の家へたびたび来るのかもしれない。
そして、幸せは、そういう「安心」をだれかに提供できるというのも、これはまた、たいへんな幸せである。自分が幸せでないと、だれかを受け止めることができない。--ということまで、大橋は書いてはいないのだけれど、私はついつい感じてしまう。
大橋は、まあ、私が書いたような、めんどうくさいことを書いてしまうと、ことばがまた濁ってしまうのを知っている。「現代文学」っぽくなってしまうのを知っている。だから、そんなふうには書かず、
言葉ではない
幸せの
実物である
なるほどなあ。必要なのは、「実物」である。そして、「実物」はいつでも、ことばを超えている。そこにはことばなんか、届かない。
私はふいに、1連目を書き換えたくなる。
ことばではない
ことばの外に
幸せが一個
あるだけで幸せだ
大橋のことばは、まさに「ことばの外に」幸せを持っている。「現代詩のことばの外に」、ことばがあって、そのことばと幸せがいっしょに日向ぼっこしている。その実物としての「ことば」を私たちに、「これでもか/これでもかと見せつけている」。
そんな幸せを見せつけられると、悔しいけれど、その悔しさが、なんとなくうれしいね。
なんとなく、ではなく、とっても、うれしいね。
*
金井雄二「椅子」は、大橋の作品と不思議な感じで呼応している。金井は「不幸な幸せ」「寂しい幸せ」「哀しい幸せ」のようなものを書いている。それは、だれもが味わうもの。そして、それを味わえるということが、実は生きる幸せ--といでも言うようなことを書いている。
コノ道ヲマッスグニ行ッテクダサイ
少し歩くと突きあたりになります
そこを右に曲がってください
両側は鬱蒼とした灌木が繁っているでしょう
どうか立ち止まらないでください
多くの人たちがこの道を歩いたのです
電車の線路のような道です
踏みしめると石と石が泣きだします
しばらく歩いてください
左側に萱で作った門があるはずです
錆びたトタン屋根の
みすぼらしい小屋
薄暗い電灯が見えるでしょう
そこでみんなが待っています
君の席ももちろんあります
マアルイ小サナ椅子デスケレドモ
「哀しみ」「寂しさ」--それはひとりで味わうものだけれど、それはだれもが味わうことでひとりのものではなくなる。そういうことをひとはいつしか知る。
「多くの人たちがこの道を歩いたのです/電車の線路のような道です/踏みしめると石と石が泣きだします」。その行の中にひっそりと書かれている「多くのひと」、それは「みんなが待っています」の「みんな」である。そこには、ひとりひとりに「名前」はない。「名前」はもちろん人間ならだれでももっているけれど、それを剥がしてしまって、無名になっている。それは線路の下の「石」のよう。「石」と「石」が触れ合って、泣く。「石」という「実物」になって、泣く。
金井は、大橋とは違った「実物」を書いているのである。
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