詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリスチャン・カリオン監督「フェアウェルさらば、哀しみのスパイ」(★★★★)

2010-09-03 23:59:10 | 映画
監督 クリスチャン・カリオン 出演 エミール・クストリッツァ、ギヨーム・カネ、アレクサンドラ・マリア・ララ、インゲボルガ・ダプコウナイテ、ウィレム・デフォー

 エミール・クストリッツァは「アンダー・グラウンド」の監督である。調べてみたらいろいろな映画に出ているが、記憶に残っていない。意識してみるのは今回が初めてである。顔と体型がなかなかいい。余分なものがある。それが自ら選んで「スパイ」になるという役どころに奥行きを与えている。ショーン・コネリーやマット・デイモンとは違ったセックス・アピールがある。女を引きつける、というよりも、セックスのあとも関係を他人に気づかれない、関係を隠し通せるという「うさんくさい」ものを持っている。(映画のハイライト--ソ連の機密を盗み出すとき、愛人が部屋にはいってくる。それをあしらうシーンが、堂にいっている。あ、スパイとは、こういうことをするのか。これがスパイか、とうなってしまう。)そして、その「うさんくさい」風貌とは逆に、声が実に清潔である。まっすぐである。ためらいがない。この声で「嘘」を語られたら、ちょっと見抜けないだろうなあ。(演技で、そういう声を出しているのかもしれないが……。)
 一方のギヨーム・カネは逆に「透明」である。「うさんくささ」がない。
 これは、とてもおもしろい組み合わせである。「透明」なの人間は「うさんくささ」に押し切られる。「うさんくささ」に抵抗するものを「透明」なのものは持ち合わせていないのである。スパイに利用され、まきこまれていくことを、それを誰にも知られてはいけないのだが、妻に簡単に見破られてしまう。そして、そこでも「透明」な人間らしく、うろたえてしまう。
 おもしろいのは、この「透明」で、繊細で、弱い男の存在によって、「うさんくさい」男の、内部の「透明さ」が照らしだされることである。ソニーのウォークマン、クィーンの音楽--知りもしないものを口にするとき、そこから家族(特に息子)に対する純粋な愛情があふれだす。ギヨーム・カネには、その純粋さは見えていないのだが、その見えていないことがスクリーンに映し出されると、観客には、ギヨーム・カネの見なかった「透明さ」があざやかな光のように伝わってくる。エミール・クストリッツァが内部に抱え込んでいる美しいものが瞬間的に姿を見せる。(これが最後に感動的な父と子の抱擁のシーンに結晶する。)
 あ、まるで、エミール・クストリッツァという役者は、それ自体エミール・クストリッツァの映画みたいである。猥雑で、うさんくさくて、その内部に鮮烈な透明さをかかえている。しかも、それをまっすぐに投げかけてくる。猥雑をまといながら、それを動かしているのは純情であることを教えてくれる。
 不思議がひとつ残る。この映画の主人公の、危険な行為、危険に満ちたスパイ行為を、たったひとりで実行するときの、その「孤高」の精神がどこから生まれてきたのか、よくわからない。しかし、それはきっと誰にもわからないものなのかもしれない。人間の「本質」の問題なのかもしれない。その、最後にふっと浮かんでくる不思議を、エミール・クストリッツァは演じている瞬間は感じさせない。スクリーンにいる間は感じさせない。映画が終わったあと、ふと、思う不思議さなのだ。
 これはすごいことだなあ、と思う。
 私の感じたのは映画を見ての感想だけれど、実際に「フェアウェル」に会った人たちは、その不思議をどんなふうに理解したのだろう。世界を作り替えてしまった男の不思議を、いったいどんなふうに理解したのだろう。
 まあ、これは映画を超えた問題だね。役者を超えた問題である。
 しかし、びっくりだなあ。アメリカの「スターウォーズ計画」ははったりだったのか。はったりがペレストロイカを推進させ、ベルリンの壁を崩壊させる引金だったのか。レーガン大統領、そのハリウッド映画の見せ方などには笑えるが、クィーンやウォークマンなどの「時代」を描く姿勢がていねいなだけに、「国家」のはったり(アメリカのはったり)が生々しく浮かび上がる。そうか、「歴史」はそんなふうにして動いたのか、とあらためて気づかされた。そういえば、「スターウォーズ計画」はどうなったのかなあ、そうだったのか、と納得してしまった。(歴史や国際政治に詳しい人なら知っていることなのかもしれないけれど。) 

 --現代政治、国際政治の「お勉強」にもなる映画でした。はい。
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誰も書かなかった西脇順三郎(136 )

2010-09-03 19:01:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

パウル クレー パウル クレー
最終のインク
最終の形
最終の色

 こういう数行を読むと、西脇が絵画に強い関心と、西脇自身の鑑賞眼をもっていることがうかがえる。西脇が絵画的詩人と呼ばれるとき、きっとこういう行は「傍証」としてあげられるのだと思う。
 この「絵画的描写」はまだまだつづく。

最終の欲情
ホテルのランチでたべてやせた鶏も
砂漠にのさばるスフィンクスにしかみえない
藪の中にするオレーアディス ペディトゥース!
あいみてののちにくらべれば
セザンヌのこともピカソのことも思わなかった
エビヅルノブドウの線
ツルウメモドキの色
ヤブジラミの点点

 「ホテルのランチでたべてやせた鶏」という意表をついたことばもおもしろいし、「エビヅルノブドウ」云々の植物もおもしろいが、それよりももっとおもしろいのが、

あいみてののちにくらべれば

 である。「来歴」をもっていることば、そして、その「音」である。多くのカタカナにまじって、絶対に(ということはないかもしれないけれど、一般的に言って、絶対に)カタカナでは書かないことばが乱入してくる。それが、ことばの重力場を動かす。それまでつづいていたつながりを切断してしまう。
 切断するだけではなく、遠い「過去」をそこに噴出させる。

 こういう瞬間が、西脇の読んでいて、楽しいと感じるときだ。
 「あいみてののちにくらべれば」ということばのなかに「絵画的要素」が何もないのがいい。「あいみての」の「みて」が目に関係しているから「絵画」につうじるという見方もあるかもしれないけれど、ここでは和歌が、ことばが引用されているのであって、絵画的素材は引用されていない。






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北川朱実「住宅展示場の鳥」ほか

2010-09-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
青野直枝「室内」、西出新三郎「石ふたつ」、北川朱実「住宅展示場の鳥」(「石の詩」77、2010年09月20日発行)

 青野直枝「室内」は絵を描いている時間を書いている。

制動のきかない雲がゆっくりと流れていて
うつしとった白をそのままにカンバスに描い
た 通り過ぎた鏡に振り返るまでもなく わ
たしは戸の近くにある安楽椅子に腰を下ろし
た 鏡には静物が正しく映し出されている
そこに比喩の猫は球形の夢をみ 対象のどこ
から計っても中心への長さは等しい そんな
世界が鏡の向こうに開けている

 ことばは、なんのためにあるのだろうか。きっと、ことばをもたないもののためにある。たとえば、この詩なら「比喩の猫」。その猫は「対象のどこから計っても中心への長さは等しい」ということばをいいたくて、球形の夢を見ている。その声を青野は聞く。

所有の啼き声でもないのに
あなたは聞いた気がした

 「聞いた気がした」と、そこまで書いて、ひとは、実は自分の声だったことに気がつく。ひとはいつでも「他人」の声を聞きなどしない。いつも自分の声を聞いて、それを「他人」の声だというものなのかもしれない。
 「私」を「他人」にしてしまいたいのだ。「他人」にしてしまわないことには、もちこたえられない。
 そういうことを、ひとは、露骨にはいわない。けれども、そういう時間があるからこそ、ひとは詩を書くのだろう。ことばを書くのだろう。
 そんなことを感じた。青野の詩の前に、西出新三郎「石ふたつ」を読んだせいかもしれない。

ひとつの石が
「おうい」と思ったが
声にはならなかった

もうひとつの石が
「なんだよ」と思ったが
声にはならなかった

 それはまぎれもなく西出の「声」である。「声」を書きとめながら、西出はふたつの石になる。ひとつ、ではなく、ふたつに。そのどれが「私」でどれが「他人」であるか。それはだれにもわからない。

たがいがどれだけ離れているのか
知らなかった
自分たちのいるところが
どこなのかも知らなかった
もちろん
自分たちが何なのかもわからない

 「知らない」「わからない」から書くのである。
 青野も西出も、とくべつ新しいことを書いているわけではない。けれど、そのことばのひびきの中に、自分の中に「他人」をみつけ、それと正直に向き合うときの静かなたしかさがある。

 北川朱実「住宅展示場の鳥」は、自分の中に「他人」を見るというよりも、「他人」のなかに「他人」の「声」を聞く。

きのう
久しぶりに会った友人は
大きな耳になり 口になり

クジラの尾ひれになって
あたりをずぶ濡れにしたあと

ふいに黙った

一瞬の静けさの中で
グラスの氷が
からん、と澄んだ音をたてたけれど

あれは
彼女がのみ込んだ言葉ではなかったか

 「沈黙」のなかのことば。声。それをグラスの氷が代弁する。グラスの氷が崩れ、くっついていたふたつが離れ(西出の「石」のように)、それから重力があるためにぶつかりあう。からん。それを「彼女の声」と北川が感じるとき、その「声」は北川自身のものになる。
 だれも所有していないがゆえに。

 でも、その「からん」は何なのだろう。「からん」が北川を不安にさせる。

展示ハウスの歌壇を
目の上を白くした一羽の茶色の鳥が
いっしんにつついている

--ツグミです
  人なつっこいから絶滅しかかった

もうすぐ
たくさんの海峡を越えて
シベリアへ帰っていく鳥

人ばかり見ていたから
今日まで知らなかった

 「人ばかり見ていた」は、いかにも北川らしいことばである。その「人ばかりみていた」北川が、人を見ながら、人ではない「からん」に出会った。氷の音。そういうものがあるのだ。「他人」のなかに、さらに「他人」がいて、それは声にならない声をあげている。クジラの尾について話す友人が「他人」であるだけではないのである。そのなかに「声」にならない「声」がある。
 そして、その声は「人なつっこい」おしゃべりを繰り返している内、氷のように、消えてしまう。「絶滅」してしまう。それを絶滅させないために、たとえば「沈黙」がある。「沈黙」のなかで響かせる、「絶対的他人(他者)」の「声」がある。
 それは、知っていることばを洗っていく。知っているはずのことばを洗いつくして、ことばを再生させる。
 北川は「他人」のなかに、さらなる「他人の声」を聞き、それを北川自身のなかに組み入れるようにして、北川のことばを鍛え直しながら書く詩人である。
 「三度のめしより(三十一)」で、中上哲夫「川がわるい!」を引用しながらいろいろ書いているが、その「川がわるい!」は中上のことばであって、中上のことばではない。

--そのとき空から声がふってきて
川がわるい!

 「空からふってきて」と書いてあるように、それは中上のなかから生まれたことばではない。「他人」がさらなる「他人の声」を聞いている。その「さらなる他人の声」が、北川にとっての詩--いちばん北川と重なり合うことば、北川自身が発見したかったに違いないことばである。だから、それを引用し、そのことばを中心に北川はことばを点検しなおす。鍛えなおす。北川は、エッセイでは、そういう仕事をしている。


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