詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(142 )

2010-09-13 22:59:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 私が好きな部分を、断片的に書き記していこう。

紫色の八月が光るために
白い路の端がコバルト色にそまる時
男の歴史をおもうのである
あの黒ずんだ葉が無限の形に
くねる無花果の木のかたまり
が路傍に枝をさしのべて
旅人に何物かをしやべろうとしている
あのまだ青いふぐりのような実は
ギリシャ人の彫刻のように
ロダンのヨハネのように
葉の手でかくされている
あの偉大な悲劇がかくされている

 「紫」「白」「コバルト」と色がつづく。この変化を指して、西脇の詩の「絵画性」をいう人がいると思う。だが、私は「絵画」を感じない。すぐに「男の歴史」というような絵画とは無縁な「時間」が引き合いに出されるからである。「絵画性」を「時間」で西脇は否定しているように思う。「紫」「白」「コバルト」は4、2、4音。紫と白は重い。それがコバルトの「バ」という破裂音で吹っ切れる。もし「絵画性」というなら「コバルト」ではなく、日本語の色の名前(コバルトは、なんというのだろう、「青」では言い表せないことはわかるが……)をつかい、「音」が異質なものにかわったという印象を遠ざける方が「絵画的」だろう。意識が「色」に集中するだろう。
 また「絵画性」、その「色」へのこだわりを西脇がもっているとしたなら無花果の実を描写した「青いふぐりのような実」の「青」はとても奇妙である。ここで書かれている「青」は「ブルー」ではなく「グリーン」に近い。「緑」である。「緑」を日本語ではときどき「青」と呼ぶ。信号の青、青葉の青、青年の青--は英語ではたしか全部グリーンである。西脇は「色」ではなく、「音」にこだわってことばを選んでいるのだ。「あのまだ緑のふぐりのような実は」、あるいは「あのまだグリーンのふぐりのような実は」では「音」が狂ってしまう。「みどり(グリーン)」のなかの「濁音」が「ふぐり」の「濁音」の美しさを邪魔してしまう。
 コバルトの濁音、ふぐりの濁音、そしてその前の「しゃべる」の口語の濁音がここでは響きあっている。口語の、声に出したときの、音の響きが詩のなかで反響している。

旅人に何物かをしやべろうとしている

 この1行は、また、「絵画」から遠い。もちろん人が「しゃべっている」絵というものはある。あるけれど、そこではひとは「音」を聞かない。「形」を見る。
 このことばのあとには「彫刻」という、これまた視覚芸術が登場するけれど、それにつらなるのはギリシャ、ロダン、ヨハネという日本語ではない「音」である。
 そしてまた、そこでは「かくす」ということがテーマになっているのもおもしろいと思う。「視覚芸術」はあらわすとと同時に「かくす」のである。
 「かくしたもの」を剥がしていくのが「音楽」(聴覚芸術)というのは、ちょっと飛躍が大きいかもしれないが、なんとなく、そういうことを言ってみたい気持ちになる。
 しゃべる--それは「肉体」のなかに隠れているものを、一瞬のうちに消えてしまう「音」にして吐き出してしまうことかもしれない。定着させずに、常に、あらわれては消える「音」--その運動が、「消える」ことをいいことに、何か秘密をあばくのだ。あばいたあと、そんなことは言っていません--とことばはいうのだ。きっと。
 そういうことは、「ずるい」何かである。けれど、そういう「ずるい」もののなかに、不思議な楽しさがある。
 詩は、そういうものと刺し違えるのもいいのではないだろうか。





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ウォルター・ラング監督「ショウほど素敵な商売はない」(★★★★)

2010-09-13 11:27:32 | 午前十時の映画祭

監督 ウォルター・ラング 出演 エセル・マーマン、ドナルド・オコナー、マリリン・モンロー
 
 芸人一家と、芸人をめざすマリリン・モンローのかけあい。芸人一家の方に力点があり、歌も踊りも芸人一家の方がすばらしく、マリリン・モンローがかわいそうと書くとミュージカルファンには叱られるだろうか。
 楽しいのは、末っ子の男がマリリン・モンローに夢中になり、デートして、家まで追いかけて行ったあと。マリリンを思いながら庭で歌い踊る。庭の彫刻や噴水までも彼の歌にあわせて踊りだす。ミュージカル以外ではありえないシーンだね。
 マリリンがカウチであれこれ思い、そのまわりで末っ子と姉が歌い踊るシーンも楽しい。マリリンのスローテンポな動きと二人の鍛え上げられたスピーディーな動き。その対比がおもしろい。
 ラスト近く。家出した末っ子がやっと帰ってくる。舞台で歌い踊っていた母が、袖で見つめている末っ子を見つけ、はっ、と驚く。けれどそれは一瞬で、歌をやめない。音も狂わない。ダンスも踊りとおす。芸人の生き方を貫く。その「厳しさ」みたいなものをさらりと描いている。
 そして、あ、この一家はほんとうにショーが大好きなのだ。ショーを見て、喜んでくれるひとがいる限り、ショーをつづけるんだということが、まっすぐに伝わってくる。
 ミュージカルの原点だねえ。
                        (「午前十時の映画祭」32本目)


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岡本勝人「風のたつレギリオ」、天沢退二郎「[偽(ウェイ)]目黒駅界隈」

2010-09-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岡本勝人「風のたつレギリオ」、天沢退二郎「[偽(ウェイ)]目黒駅界隈」(「ガニメデ」49、2010年08月01日発行)

 岡本勝人「風のたつレギリオ」は文体が強固である。

小林秀雄夫妻は、編集者の郡司勝義氏と
勝浦から新宮をぬけて那智の滝を参拝し
湯峰温泉に泊まっている
翌日は、車で十津川にそって走り
五條市から奈良にはいる
夕刻には、猿沢池畔の「一宮」の料理屋に
久保田與重郎と入江泰吉をまねいた

 小林秀雄の「伝記」でもあるかのように、小林秀雄の行動が語られる。ただそれだけといえばただそれだけである。そして、この小林秀雄が動いていくにしたがって登場人物も変化し、後半では道元や和辻哲郎も出てくる。

大正時代「沙門道元」(和辻哲郎)の論文が
『日本精神史研究』に収められると
道元の名は一般に知られるようになった
ちかくで東福寺が天台・真言・禅の三宗を併存させる
道元は越前志比庄の谷深い周縁のトポスに越境し
波多野義重の所有地に永平寺をひらいた
いまはもう畑のなかをゆく鉄道はなくなっただろうか
畑の中央になった一本の柿の木

 ここで、私は、あ、その柿の木が見たいなあ、と思った。そして、この柿の木が、実際には見ていないにもかかわらず、見えたように思った。
 これが、詩の、ことばの力だ。
 岡本が書きたいものが何であるか、私は理解しない。けれど、この行にふれたとき、私は岡本もその柿の木を見ているということが実感できた。そして、この柿の木、具体的なものを存在させるためには、それまでの長い長い堅牢な「事実」(しかも、小林秀雄とか、道元とか、和辻哲郎とかの、「他人の事実」)が必要だったのだとわかった。
 --というのは、私の事情で、ほかのひとは(ほかの読者は)違う部分に反応しているかもしれない。岡本も、もっとほかの部分に力点を置いているかもしれない。しかし、まあ、それは関係なのだ。関係ない、と書いてしまうと岡本には少し申し訳ないが、岡本の意図とそれを読む私の思いは完全に一致するはずはないのだから、ことばとはそういうものだというしかない。
 どの行を好きになるか--それはわからない。わからないけれど、どこかの行が好きになれば、そしてその好きな行を読んだあと、すべてが見えたような気持ちになったとき、そこには詩があるのだと思う。

 天沢退二郎「[偽(ウェイ)]目黒駅界隈」は、これもまた奇妙な詩である。

目黒駅を出て北上する電車は、
ただちに目黒川を鉄橋で渡り
そのまま高架上を直進する。
南へ向かう電車はやはり直進するが、
その東側は低価格住宅がはるか遠くまでつづき、
西側は背の低い商店街を、四六時中
電車の地ひじきが揺(ゆす)っている。

 なぜ、こんなことを克明に書かなければいけないのか、わからない。岡本が、小林秀雄の行動を克明に書くのと同じである。それが、いったい、どうしたの?
 どうもしないのである。
 どうもしないけれど、そんなことをことばで書いて、ことばの堅牢さを保ちながら、ことばを動かしているのである。
 そうして、ことばを動かしてみると、ことばというものは頑丈なものである。文体というものは頑丈なものであることがわかる。
 天沢はほんとうは違ったことを書きたい--書きたいのに、ことばがそれを書かれてくれないことがわかってくる。ことばは、なんとしても頑丈に結びついて、想像力をねじ伏せるものなのである。
 「低価格住宅」という奇妙なことばが出てくるが、そんな「詩的言語」からはるかに遠いことばを紛れ込ませても、ことばの運動はびくともしない。
 このびくともしないことばと、天沢は戦うのである。

すでに見たように目黒駅を南北に出入りする電車は、
すぐに北を流れる目黒川と直交している。
つまり駅をゼロ地点とすると
電車路線はy軸、目黒川はxにあたり
これから行く東北の一画は第1象眼というわけである

 およそ「感情」とは無縁のようなことばをまきこみ、さらに「酒店とパチンコ屋、碁会所、古本屋、/棺桶屋、薬屋など」という、硬質な、独立したことばをまきこみ、天沢のことばを運動する--というより流れていく。
 そして、読めばわかるのだが、この流れが、実に実に実に、とどこおりがないのである。
 天沢は、この、幾種類ものことばをまきこみながら、けっして異物のために、停滞してしまうことのない「流れ」を描きたいのだと、だんだんわかってくる。
 書かれていることの「意味」をいちいち気にしてはいけない。
 どんなことばでも、どんどん押し流し、流れてしまうその「水」の勢い、その力こそが天沢にとっては、詩なのである。

 岡本は、小林秀雄や和辻哲郎や道元をまきこみながら流動することば、その流動を推進する力(ことばのちから)をこそ描いていたのかもしれない。
 天沢は、岡本とは違う「流れ」をつくるが、やはり流動することばの、その流動をつくりだす力を、詩と考えている(感じている)のだと思う。

どうなさいました、お客さん?
すずやかな声で揺り起こされ、はッと気が付くと
のぞきこんでいる女の人の、ウェイトレスの制服に
思わず身体がこわばったが、
さっきの女給とは面立ちもちがう、見知らぬ顔だ
崩れた竹垣にはさまった身体をやっと立て直すと
女の人はこころもち眉をひそめて、
大丈夫ですかと言うから、大丈夫ですと言うと、
それではお気をつけてと
背を向けて向こうへ行ってしまった。
考えてみるとこんなところへ何のつもりで
おれは来てしまったのか?…

 「何のつもり」もありはしない。ことばが動くからである。ことばを動かす力が天沢にはあるからである。
 この不思議な力、何がどうしてどうなってと「考えて」みてもわけはわからない。どこへでも、どこででも動くことができることばが、天沢をどこかへ連れていく。天沢はそれについていく。どうなってしまってもかまわないと信じて。
 あ、これは、ことばそのものへの愛なんだなあ。
 愛というのはいつでも、自分がどうなってもいいと覚悟して、相手についていくことだ。



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