「失われたとき」のつづき。
私が好きな部分を、断片的に書き記していこう。
紫色の八月が光るために
白い路の端がコバルト色にそまる時
男の歴史をおもうのである
あの黒ずんだ葉が無限の形に
くねる無花果の木のかたまり
が路傍に枝をさしのべて
旅人に何物かをしやべろうとしている
あのまだ青いふぐりのような実は
ギリシャ人の彫刻のように
ロダンのヨハネのように
葉の手でかくされている
あの偉大な悲劇がかくされている
「紫」「白」「コバルト」と色がつづく。この変化を指して、西脇の詩の「絵画性」をいう人がいると思う。だが、私は「絵画」を感じない。すぐに「男の歴史」というような絵画とは無縁な「時間」が引き合いに出されるからである。「絵画性」を「時間」で西脇は否定しているように思う。「紫」「白」「コバルト」は4、2、4音。紫と白は重い。それがコバルトの「バ」という破裂音で吹っ切れる。もし「絵画性」というなら「コバルト」ではなく、日本語の色の名前(コバルトは、なんというのだろう、「青」では言い表せないことはわかるが……)をつかい、「音」が異質なものにかわったという印象を遠ざける方が「絵画的」だろう。意識が「色」に集中するだろう。
また「絵画性」、その「色」へのこだわりを西脇がもっているとしたなら無花果の実を描写した「青いふぐりのような実」の「青」はとても奇妙である。ここで書かれている「青」は「ブルー」ではなく「グリーン」に近い。「緑」である。「緑」を日本語ではときどき「青」と呼ぶ。信号の青、青葉の青、青年の青--は英語ではたしか全部グリーンである。西脇は「色」ではなく、「音」にこだわってことばを選んでいるのだ。「あのまだ緑のふぐりのような実は」、あるいは「あのまだグリーンのふぐりのような実は」では「音」が狂ってしまう。「みどり(グリーン)」のなかの「濁音」が「ふぐり」の「濁音」の美しさを邪魔してしまう。
コバルトの濁音、ふぐりの濁音、そしてその前の「しゃべる」の口語の濁音がここでは響きあっている。口語の、声に出したときの、音の響きが詩のなかで反響している。
旅人に何物かをしやべろうとしている
この1行は、また、「絵画」から遠い。もちろん人が「しゃべっている」絵というものはある。あるけれど、そこではひとは「音」を聞かない。「形」を見る。
このことばのあとには「彫刻」という、これまた視覚芸術が登場するけれど、それにつらなるのはギリシャ、ロダン、ヨハネという日本語ではない「音」である。
そしてまた、そこでは「かくす」ということがテーマになっているのもおもしろいと思う。「視覚芸術」はあらわすとと同時に「かくす」のである。
「かくしたもの」を剥がしていくのが「音楽」(聴覚芸術)というのは、ちょっと飛躍が大きいかもしれないが、なんとなく、そういうことを言ってみたい気持ちになる。
しゃべる--それは「肉体」のなかに隠れているものを、一瞬のうちに消えてしまう「音」にして吐き出してしまうことかもしれない。定着させずに、常に、あらわれては消える「音」--その運動が、「消える」ことをいいことに、何か秘密をあばくのだ。あばいたあと、そんなことは言っていません--とことばはいうのだ。きっと。
そういうことは、「ずるい」何かである。けれど、そういう「ずるい」もののなかに、不思議な楽しさがある。
詩は、そういうものと刺し違えるのもいいのではないだろうか。
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