詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(141 )

2010-09-09 11:20:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 西脇の詩には、ときどき「事件」が起きる。

ハイボールは罪悪の根元であるから
シェリー酒のたそがれの空を汲み
かわして蜜酒で永遠のちぎりを結んだ
二人は後世マネーという男が描いた
ようなポーズで休んだ
驚くべき会話もとりかわされた
「存在は存在しないところに存在する
存在は存在ではないところのものだ
すべての存在は舌と舌との間にある
ふれるだけの現実である
舌の先でふれる現実は
アカントスの葉のように
ふるえる 無限が終るようになる」
黒人女からミモザの花を買つて
二人は帽子にさして
また走りつづけた
リットル・ギディングという村まで五分と
いうところでこの偉大な事件が起つた

 「存在は存在しないところに存在する」からはじまる行の「哲学」。それは何も説明されない。補足されない。「二人の会話」という形で提出されるだけである。これは、ひとりでは語られなかったことばであり、そして、そのことばは二人にとっては「補足」の必要がないほどわかりきったことがらである。二人の「肉体」になってしまっている。
 そのわかりきったことがらというのは、「矛盾」(存在は存在しないところに存在する--は矛盾以外の何物でもない)という形でしか語ることができない。「矛盾」であるけれども、ふたりの「肉体」は、それを「矛盾」とは考えていない。
 「肉体」が実感していること--体得していることといった方がいいのかもしれない。それは、「肉体」から外へ出るときは、「矛盾」になってしまう。それは「ことば」にならならずに、「肉体」のなかですべてを統合する何かである。「肉体」と切り離せない何かである。「肉体」と切り離せないもの、「いのち」、それは「矛盾」している。「矛盾」しているからこそ、幾層にも描くことができる。
 そして、それは「ことば」にはならない。「ことば」にならないから、「舌と舌との間」という「肉体」であらわすしかない。

 「存在」を「ことば」に置き換えてみるのもおもしろい。

ことばはことばのないところにことばとしてうまれる
ことばはことばになっていないところのものだ

 西脇のことばは、その「哲学」どおり、ことばのないことろで生まれ、常にことばのないことろへと動いていく。
 それが西脇の詩である。






西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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プーピ・アヴァーティ監督「ボローニャの夕暮れ」(★★★★)

2010-09-09 09:20:14 | 映画

監督 プーピ・アヴァーティ 出演 シルヴィオ・オルランド、フランチェスカ・ネリ、アルバ・ロルヴァケル

 映画と芝居のいちばんの違いは何か。視線の表現の仕方が違う。
 芝居は強いライトの下でかっと見開いた目の力で観客をひきつける。その目は観客を引きつけるまで開いたまま、強い光を発しなければならない。(強いライトを直視し、目の光を反射させなければならない。)
 映画も、また目の強い力で観客を引きつけることもあるけれど、芝居にはできない目の演技というものもある。小さな動き。沈んだ目の色の動き。--これは、芝居では、観客には見えない。目の小さな動きや、沈んだ色を見せるためには「肉体」全体をつかわなければならない。映画では、カメラが動いてくれる。目をアップでとらえてくれる。強い目の力も魅力的だが、映画では、暗く揺れ動く目の動き、視線のニュアンスが、観客をひきつける。こころの揺らぎがあらわれる目に吸い込まれるようにして、映画の中にはいっていくことがある。
 この映画では、母親と隣の男の視線のやりとりが、小さいけれど強い光を発する。観客は(私は)、まず、この光に引きつけられる。あ、この女と男は「できている」、不倫関係にある、とすぐわかる。女(母親)が美しくて、表情がエロチックである。隣の男も、夫(主人公)よりはるかにいい男である。母親のようないい女が、なぜチビでさえない男といっしょにいて、しかも夫と隣の男が親友なのはどうしてなのか--これは変、ということが、すぐにわかる。母親と隣の男の視線のやりとり、視線の会話で。これは、映画にできて、芝居にはできない表現である。
 この二人の視線の動きとは違って、夫の視線は、暗く揺れている。母の美しさに比べると自分は劣っている--そう思い、苦しんでいる娘の苦しみを受け止め、反応するゆらぎ。ゆらぐ視線。その視線のまま、他人の間を行き来する。自己主張というより、他人との「調整」のために、行き来する視線である。
 父親は、娘の情緒不安定がどこから来ているか、うすうす知っている。いや、確信している。母親の不倫である。だが、それを父親は隠そうとする。娘に「恋人」をつくり、(学生を娘の「恋人」に仕立て)、娘の気をまぎらわそうとする。娘に「自信」をもたせようとする。それが、この映画の物語の不幸の始まり、ストーリーの始まりなのだが……。
 父親は、妻(母)と隣の男(親友)との「不倫」を周囲に隠せている、と思っている。だれも知らない、と思っている。もちろん娘も知らないと思っている。ところが、娘が殺人事件を起こし、精神鑑定の結果、施設に収容される。そして、そこで娘の診断にあたった医師から「娘さんの情緒不安定の理由は、母親の不倫である」と告げられる。思春期の少女はそういうことに敏感である、と告げられる。父親が必死になって隠そうとしていたもの--それは、だれにでも露顕していたことなのだ。実際に母と隣の男を見ていない医者にさえ、娘をとおしてわかってしまうほどのものなのだ。
 隠せないのだ。
 父親が(夫が)どんなに視線の奥にこころを隠し、娘への愛情をあふれさせようとも、そのあふれる愛で、他人の視線は隠せない。母親の視線の動き、それにこたえる隣の男の視線。それは隠せはしない。
 娘は父親の視線のベールでつつまれた世界を生きるわけではない。娘はボーイフレンドの視線を見る。それからボーイフレンドのほんとうの恋人の視線を見る。ないがしろにされている自分を感じる。母親の視線が夫をないがしろにし、隣の男を熱く見ているように、ボーイフレンドは自分をないがしろにし、自分の友達に熱い視線を注いでいるのを、強く強く感じる。そして、そのことに耐えられずに事件を起こしてしまう。
 敏感な父親(この敏感さを娘は引き継いでいる)は娘の変化に敏感である。事件が起きたときも、すぐに娘が事件に関係していることを察知してしまう。だからこそ、そこに「精液」が出てきたとき、娘ではない--と必死になって「錯覚」しようとつとめたりする。 普通の父親なら、事件を知り(事件の真実を知り)、うろたえるが、この映画の主人公の父親はうろたえない。何もかも知っているからである。
 父親が真実を隠している。真実を隠す視線で、娘を守ろうとし、そのことが逆に娘を傷つける。傷つけてしまった。--そのことに父親が気づき、また、娘も「事実」を受け入れようと決意する。そのことで、この映画は、この家族は立ち直る。その過程を、この映画は視線で描いていく。
 ラスト近く、娘が殺害した少女の母を訪ねるシーン。映画館で母を見つけ、近づいていくシーン。そのときの、娘のさっぱりした視線。「事実」を見つめ、「事実」と和解していくときの、視線はとても美しい。被害者の母は「事実」と向き合う少女を受け入れないが、娘の母は「事実」と向き合った娘を受け入れる。そして、い和解する。ことばではなく、視線で。この対比も、美しい。
 シルヴィオ・オルランドの演技はすばらしいし、他の共演者も彼の演技にひっぱられるように、視線が充実している。「瞳の奥の秘密」と大きく、パッションに満ちた視線が交錯したが、この映画は、逃げまどう視線が、逃げることをやめ、立ち直る視線の明るさを描いている。


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中井ひさ子「おりてくる」ほか

2010-09-09 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
中井ひさ子「おりてくる」、たなかあきみつ「アイギを読みながら」、杉本徹「数と歌 あるいはアコーディオン」(「エウメニデス Ⅱ」37、2010年07月05日発行)

 中井ひさ子「おりてくる」にはっとした。

青い青い空の
奥の
一隅に
ぼそりと
恐竜の化石が
ひとつ
ころがっている

ハドロサウルスの大腿骨

遠い海の気温が
あたりに流れてくると

少し野太い声で
ティラノサウルスと戦ったこと
おしゃれな縞模様での
時速45キロの走行
嘴で摘み取った
木の枝や歯を
数百本の歯で磨り潰した床
うっとりと 語りだす

 3連目が、とても美しい。この部分は、「嘘」というと変な言い方になるけれど、「現実」ではない。「ハドロサウルスの大腿骨」が「青い青い空の/奥の/一隅に」「ころがっている」というのも「現実」ではなく、一種の空想ではあるが、その最初の空想を「現実」と仮定した場合、その空の一隅へ「遠い海の気温が」「流れてくる」ということはありえない。また、「ハドロサウルスの大腿骨」を見ている「私」の場、そのあたりに「遠い海の気温が」「流れてくる」ということもありえないだろう。「遠い」のだから、「海の気温」が流れてきたとしても、そのときは「海」の属性を失っているだろう。「近く」であるときのみ、それは流れてくることができる。海に近づくと、海はみえないけれど、風に湿り気が感じられ、潮のにおいが感じられるように。「遠く」のものが、自分の近く(あるいは、見つめている空の一隅の近く)に流れてくるというのは、したがって「嘘」である。
 でも、それが美しい。美しさゆえに、「ほんとう」になる。「嘘」を超越して、「美しさ」そのものになる。
 空の一隅にころがっている「ハドロサウルスの大腿骨」という嘘に、遠い海の気温が流れてくるという嘘がぶつかるとき、それはマイナスとマイナスを掛け合わせたときプラスになるように、意識が逆転する。「ほんもの」が突然、噴き出す。
 ハドロサウルスがティラノサウルスと戦ったかどうか知らないけれど、その時代にともに生きていた。木の葉を食べて生きていた--という「真実」が、まるで中井の空想から実現したことがらのように輝きはじめる。
 あ、いいなあ。うっとりするなあ。
 1連目の「一隅に」とか「ぼそり」とか、私の感覚からすると、とても嫌いな(醜い?)何かも、さーっと洗い清めていく「音楽」の美しさがそこにある。
 「ハドロサウルスの大腿骨」という音の明確な「音楽」のあと、「音のエッジ」を隠すように静かに動く「遠い海の気温が/あたりに流れてくると」という旋律(?)が美しいのだと思う。
 瞬間的に、私は、この世ではないところへ行ってしまう。中井の書いていることばへ引きこまれてしまう。



 ことばには「意味」があり、「内容」があり、「音(音楽)」はその「意味・内容」とは関係がないかもしれない。しかし、私は、私の「耳」にあわない「音楽」にはついていけない。私は「意味・内容」には関心がないのかもしれない。「意味・内容」を理解できないのかもしれない。
 というようなことを書きはじめてしまうと、ちょっとややこしくなる。それに、これから引用するたなかあきみつに対して失礼になるかもしれない。失礼になるかもしれないけれど、「アイギを読みながら」の、いくつかの「断章」をコロンを省略して引用すると……。

雪また雪ばむ紙の《高純度》の森

 この最初の1行で、私が感じるのは「高純度」という「音」の美しさである。「雪ばむ」という変な日本語(? 少なくとも、私はこんな言い方をしない、こんなことばをつかわない)と拮抗しながら、「こうじゅんど」という何か特別なものが意識の中を動いていく。その、軌跡としての「音楽」を、私は感じてしまう。

風のぴくぴく脈どうするクリスタルよ、ピッツィカーレ、ピッツィカーレ

空中の動体をキャッチする視覚も同然の《雪》なる動詞の全変化

 「意味」はわかならい。なぜ、その行が書かれているのか、その理由はわからない。けれど、その「音」を書きたかったという「欲望」はわかるような気がするのだ。そこに書かれている「音」、それが「音楽」にかわる瞬間をさがして、たなかはことばを動かしている。その「欲望」のようなものを強く感じるのだ。その「欲望」に共感してしまうのだ。私の「肉体」が、つまり「発声器官(喉、口蓋、舌、歯、唇など)」が、それを発音したいとうごめくのだ。声には出さないが(私は「音読」しない)、「肉体」が動く。そして、動かない「耳」も動きながら、その「音」と「音楽」を聞ける場所を求めて動きはじめる。
 こんな感想は、何の役にも立たない感想だろうけれど、それが私の「肉体」の反応である。そういう反応が起きない詩については、私は、感想が書けない。



 杉本徹「数と歌 あるいはアコーディオン」の「音楽」も美しい。

星の名、乱気流、寺町。

 何のことかわからない。「意味・内容」が、私にはわからない。けれど、読んでしまう。読んだ瞬間、どこかで見た何かが、ふいに私をつつんでしまう。

undercurrent--三方より集い来て四方に散る靴音を、路地の、水の歪みは映すだろうか。いま、光を消す軒先の露すら(だれの)音の記憶。

 あ、いいなあ。美しいなあ。映像と、音と、ここには書かれていないが、匂い(水のにおい--水は、ここでは「映す」もの、視覚に作用するものとした書かれているのだが)が、私をつつむ。
 この瞬間、私は「音楽」を聞いているときの感覚に似たものを感じる。私が、いま、ここではないどこか、この世とは違うところにいるという感じにつつまれる。
 こういう瞬間、こういう瞬間をもたらすことば、その「音」が私はとても好きである。





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