中井ひさ子「おりてくる」、たなかあきみつ「アイギを読みながら」、杉本徹「数と歌 あるいはアコーディオン」(「エウメニデス Ⅱ」37、2010年07月05日発行)
中井ひさ子「おりてくる」にはっとした。
青い青い空の
奥の
一隅に
ぼそりと
恐竜の化石が
ひとつ
ころがっている
ハドロサウルスの大腿骨
遠い海の気温が
あたりに流れてくると
少し野太い声で
ティラノサウルスと戦ったこと
おしゃれな縞模様での
時速45キロの走行
嘴で摘み取った
木の枝や歯を
数百本の歯で磨り潰した床
うっとりと 語りだす
3連目が、とても美しい。この部分は、「嘘」というと変な言い方になるけれど、「現実」ではない。「ハドロサウルスの大腿骨」が「青い青い空の/奥の/一隅に」「ころがっている」というのも「現実」ではなく、一種の空想ではあるが、その最初の空想を「現実」と仮定した場合、その空の一隅へ「遠い海の気温が」「流れてくる」ということはありえない。また、「ハドロサウルスの大腿骨」を見ている「私」の場、そのあたりに「遠い海の気温が」「流れてくる」ということもありえないだろう。「遠い」のだから、「海の気温」が流れてきたとしても、そのときは「海」の属性を失っているだろう。「近く」であるときのみ、それは流れてくることができる。海に近づくと、海はみえないけれど、風に湿り気が感じられ、潮のにおいが感じられるように。「遠く」のものが、自分の近く(あるいは、見つめている空の一隅の近く)に流れてくるというのは、したがって「嘘」である。
でも、それが美しい。美しさゆえに、「ほんとう」になる。「嘘」を超越して、「美しさ」そのものになる。
空の一隅にころがっている「ハドロサウルスの大腿骨」という嘘に、遠い海の気温が流れてくるという嘘がぶつかるとき、それはマイナスとマイナスを掛け合わせたときプラスになるように、意識が逆転する。「ほんもの」が突然、噴き出す。
ハドロサウルスがティラノサウルスと戦ったかどうか知らないけれど、その時代にともに生きていた。木の葉を食べて生きていた--という「真実」が、まるで中井の空想から実現したことがらのように輝きはじめる。
あ、いいなあ。うっとりするなあ。
1連目の「一隅に」とか「ぼそり」とか、私の感覚からすると、とても嫌いな(醜い?)何かも、さーっと洗い清めていく「音楽」の美しさがそこにある。
「ハドロサウルスの大腿骨」という音の明確な「音楽」のあと、「音のエッジ」を隠すように静かに動く「遠い海の気温が/あたりに流れてくると」という旋律(?)が美しいのだと思う。
瞬間的に、私は、この世ではないところへ行ってしまう。中井の書いていることばへ引きこまれてしまう。
*
ことばには「意味」があり、「内容」があり、「音(音楽)」はその「意味・内容」とは関係がないかもしれない。しかし、私は、私の「耳」にあわない「音楽」にはついていけない。私は「意味・内容」には関心がないのかもしれない。「意味・内容」を理解できないのかもしれない。
というようなことを書きはじめてしまうと、ちょっとややこしくなる。それに、これから引用するたなかあきみつに対して失礼になるかもしれない。失礼になるかもしれないけれど、「アイギを読みながら」の、いくつかの「断章」をコロンを省略して引用すると……。
雪また雪ばむ紙の《高純度》の森
この最初の1行で、私が感じるのは「高純度」という「音」の美しさである。「雪ばむ」という変な日本語(? 少なくとも、私はこんな言い方をしない、こんなことばをつかわない)と拮抗しながら、「こうじゅんど」という何か特別なものが意識の中を動いていく。その、軌跡としての「音楽」を、私は感じてしまう。
風のぴくぴく脈どうするクリスタルよ、ピッツィカーレ、ピッツィカーレ
空中の動体をキャッチする視覚も同然の《雪》なる動詞の全変化
「意味」はわかならい。なぜ、その行が書かれているのか、その理由はわからない。けれど、その「音」を書きたかったという「欲望」はわかるような気がするのだ。そこに書かれている「音」、それが「音楽」にかわる瞬間をさがして、たなかはことばを動かしている。その「欲望」のようなものを強く感じるのだ。その「欲望」に共感してしまうのだ。私の「肉体」が、つまり「発声器官(喉、口蓋、舌、歯、唇など)」が、それを発音したいとうごめくのだ。声には出さないが(私は「音読」しない)、「肉体」が動く。そして、動かない「耳」も動きながら、その「音」と「音楽」を聞ける場所を求めて動きはじめる。
こんな感想は、何の役にも立たない感想だろうけれど、それが私の「肉体」の反応である。そういう反応が起きない詩については、私は、感想が書けない。
*
杉本徹「数と歌 あるいはアコーディオン」の「音楽」も美しい。
星の名、乱気流、寺町。
何のことかわからない。「意味・内容」が、私にはわからない。けれど、読んでしまう。読んだ瞬間、どこかで見た何かが、ふいに私をつつんでしまう。
undercurrent--三方より集い来て四方に散る靴音を、路地の、水の歪みは映すだろうか。いま、光を消す軒先の露すら(だれの)音の記憶。
あ、いいなあ。美しいなあ。映像と、音と、ここには書かれていないが、匂い(水のにおい--水は、ここでは「映す」もの、視覚に作用するものとした書かれているのだが)が、私をつつむ。
この瞬間、私は「音楽」を聞いているときの感覚に似たものを感じる。私が、いま、ここではないどこか、この世とは違うところにいるという感じにつつまれる。
こういう瞬間、こういう瞬間をもたらすことば、その「音」が私はとても好きである。