詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(137 )

2010-09-04 09:25:24 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 西脇のことばは、突然飛躍する。たとえば、

エビヅルノブドウの線
ツルウメモドキの色
ヤブジラミの点点
魚の瞑想
小鳥の鯱立ち
藪の中飲の眼
藪の中に落ちた手紙
存在のさびしみをしる男の寝酒の
コップはクコの花のように紫である
距離と時間の差は形態と色彩の
差であるデカルトはこの差をおそれた
方向の差はエネルギーとなる
 
 「エビヅルノブドウ」からの3行、「魚の瞑想」からの4行。「存在のさびしみ」の2行。「距離と時間の差」からの3行。これをつなぐものが何なのか、よくわからない。よくわからないから、私はそれを「突然の飛躍」という。
 「エビヅルノブドウ」と「魚の瞑想」、あるいは「存在のさびしみ」の2行は、そのあとで書かれている「距離」と「時間」、「形態」と「色彩」と連動するのだろうか。
 「学校教科書」の「文法」では、最初に言ったことを、次に言いなおす形で繰り返すのが「作文」の作法である。同じことをことばを変えながら繰り返し、補足する。それが散文作法のひとつである。「文法」である。
 西脇のことばは、これにあてはまるのか。これをあてはめることができるのか。私には、それをうまくあてはめることができない。だから「飛躍」と呼ぶ。
 具体的な「もの」を語っていたのに、「距離と時間の差は形態と色彩の/差である」と突然抽象的になるのも、わからない。「距離と時間の差」は、それに先行する何に対応するのかさっぱりわからない。
 わからないのだけれど。
 私は、この「飛躍」が好きである。
 ことばがことばを突き破って動いていく。その突き破り方に、「感情」を感じる。「自由」を感じる。
 そして、その軽やかな飛躍からふりかえると……。
 「意味」の連動を説明できないのだけれど、「時間と距離の差」と呼ばれているものは、もしかすると「魚の瞑想」云々かもしれない。「形態と色彩の差」は「エビヅルノブドウ」の3行のことかもしれない。
 わからないのだけれど、そこに「和音」のようなものが、ふっと感じられる。書かれていることばを通りすぎてから(読みすぎてから)、ふと、読んできたことばが遠くから響いてきて、それが、「あ、こういう和音があるの?」という感じで聞こえてくる。

 私の書いていることは、何の裏付けもない。ただ私の「感じ」でいうのだ。その不思議な「和音」、ことばがことばを突き破ったことによって、突き破られたものの中から何かが響いてくる感じがある。
 私の書いていることは、誰の「読解」の助けにもならない。逆に、他人の「読解」の邪魔をするだけのものだと思う。私の「誤読」だけしかつまっていない。けれど、私は、そういうことを書きたい。誰の役にも立たない--私の役にも立たない「世迷い言」を書きたい。
 西脇のことばは、私のあらゆる「誤解」を超越して、そこにある。たどりつけない。だから、詩だと感じる。




西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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安部壽子『古典の時間』

2010-09-04 00:00:00 | 詩集
安部壽子『古典の時間』(空とぶキリン社、2010年09月01日発行)

 安部壽子『古典の時間』の「キネズミ」の書き出し、

キネズミのいるところ
静かなものと
ふたつでいたい
湿った庭にはエンレイソウ
イヌのいないイヌ小屋をのぞき
あなたは小さなあくびをするだろう

 私は「ふたつ」ということばにつまずく。私なら「ふたり」と書いてしまうだろう。けれど安部は「ふたつ」と書く。そのとき「私(安部)」は「人間」ではなく、何か、「もの」になる。
 それが、不思議。
 そして、その「もの」が、「いのち」とは無縁の「もの」ではなく、何かしら「いのち」と関係しているように感じられる。「もののいのち」と「私のいのち」。その「ふたつ」ということかもしれない。
 なぜ、こんなふうに感じてしまうかというと、「イヌのいないイヌ小屋をのぞき」という1行のなかに「時間」があるからだ。
 「イヌがいない」は、かつて「イヌがいた」時間があって、いま、「イヌがいない」のだ。そこには「時間」というものがある。イヌ小屋のなかに。
 そういう「時間」がキネズミと「私(安部)」の間にも入り込んでくる。キネズミと「私(安部)」の間には、何の関係もないかもしれない。「エンレイソウ(延齢草)」と「私(安部)」の間にも何の関係もないかもしれない。けれども、あるかもしれない。かつてイヌ小屋にイヌがいたように、あるとき「私(安部)」はキネズミだったかもしれない。エンレイソウだったかもしれない。そして、あるときキネズミかもしれない。エンレイソウであるかもしれない。
 輪廻--と書いてしまうと違ってしまうかもしれないけれど。
 キネズミと「私(安部)」の間の「時間」が果てしなく遠いものだったらどうだろう。もうキネズミがキネズミであることを主張せず、「私」が「私」であると主張しないような、時間--静かな時間にたどりついたとしたら、そのときキネズミと「私(安部)」は「ふたつ」になれるかもしれない。
 この「ふたつ」は、しかし、とても不思議だ。
 「ふたつ」は「ふたつ」でありながら、「ひとつ」の「時間」を感じさせる。長い長い時間。長い長い時間なのだけれど「長い」という印象ではなく、「ひとつ」という感じの時間--私は、たぶん、とても奇妙なことを書いているのだが……。
 その「ひとつ」の時間というのは、「イヌがいない」と「イヌがいた」という時を分け、同時に結びつける力である。
 あらゆる「ひとつ」が、AとBを分け、同時にAとBを結びつけるのかもしれない。
 「イヌがいない」と「イヌがいた」という時を分け、同時に結びつける力は、キネズミと「私(安部)を、そして「エンレイソウ」と「私(安部)」を分断し、同時に結びつける。
 そして、それは「静かな」なかでおこなわれる。あらゆる運動が停止した「時」のなかでおきる。「永遠」のなかでおきる。
 「永遠」は安部にとって、完璧な「静かさ」なのではないだろうか。

 そんなことは、どこにも書いてない--かもしれない。けれど、私は感じてしまうのだ。「静かなものと/ふたつでいたい」という行、「ふたつ」ということばを見つめていると、そんなことを感じてしまうのだ。

そうして
縄文の地で朝をむかえる
静かなものたちのために 裏山のクリ林の
実をこぼす
ふたりのためには火を熾す
古い川に流れつくサケの群れは
澱んで川下に浮かぶ 地層の底に沈むもの
古い眠りを 眠れ

ふえてくるもののためには
ドングリの ヒマワリの
実をかざす
とぼしい煮炊きで 日暮れては
帰る鳥たちを待つだろう
墓のない地で
ふたつの生を分けあって
ひとつの死をみとどけるために

 最後にでてくる「ふたつ」と「ひとつ」。「ふたつ」を「ふたつ」に分かつのは時間であり、その分けられた「ふたつ」は「死」のなかで「ひとつ」になるのだが、そのとき「死」は「再生」と同じである。そこになっかたもの、「ひとつ」が「ふたつ」から生まれてくるからである。
 「ふたつ」から「ひとつ」が生まれる--というのは、矛盾だが、だから、それが詩である。「ふたつ」はうるさく、「ひとつ」は「静か」である。うるささから「静かさ」が生まれるというのも矛盾である。だから、それを詩と呼ぶしかない。


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