「失われたとき」のつづき。
西脇のことばは、突然飛躍する。たとえば、
エビヅルノブドウの線
ツルウメモドキの色
ヤブジラミの点点
魚の瞑想
小鳥の鯱立ち
藪の中飲の眼
藪の中に落ちた手紙
存在のさびしみをしる男の寝酒の
コップはクコの花のように紫である
距離と時間の差は形態と色彩の
差であるデカルトはこの差をおそれた
方向の差はエネルギーとなる
「エビヅルノブドウ」からの3行、「魚の瞑想」からの4行。「存在のさびしみ」の2行。「距離と時間の差」からの3行。これをつなぐものが何なのか、よくわからない。よくわからないから、私はそれを「突然の飛躍」という。
「エビヅルノブドウ」と「魚の瞑想」、あるいは「存在のさびしみ」の2行は、そのあとで書かれている「距離」と「時間」、「形態」と「色彩」と連動するのだろうか。
「学校教科書」の「文法」では、最初に言ったことを、次に言いなおす形で繰り返すのが「作文」の作法である。同じことをことばを変えながら繰り返し、補足する。それが散文作法のひとつである。「文法」である。
西脇のことばは、これにあてはまるのか。これをあてはめることができるのか。私には、それをうまくあてはめることができない。だから「飛躍」と呼ぶ。
具体的な「もの」を語っていたのに、「距離と時間の差は形態と色彩の/差である」と突然抽象的になるのも、わからない。「距離と時間の差」は、それに先行する何に対応するのかさっぱりわからない。
わからないのだけれど。
私は、この「飛躍」が好きである。
ことばがことばを突き破って動いていく。その突き破り方に、「感情」を感じる。「自由」を感じる。
そして、その軽やかな飛躍からふりかえると……。
「意味」の連動を説明できないのだけれど、「時間と距離の差」と呼ばれているものは、もしかすると「魚の瞑想」云々かもしれない。「形態と色彩の差」は「エビヅルノブドウ」の3行のことかもしれない。
わからないのだけれど、そこに「和音」のようなものが、ふっと感じられる。書かれていることばを通りすぎてから(読みすぎてから)、ふと、読んできたことばが遠くから響いてきて、それが、「あ、こういう和音があるの?」という感じで聞こえてくる。
私の書いていることは、何の裏付けもない。ただ私の「感じ」でいうのだ。その不思議な「和音」、ことばがことばを突き破ったことによって、突き破られたものの中から何かが響いてくる感じがある。
私の書いていることは、誰の「読解」の助けにもならない。逆に、他人の「読解」の邪魔をするだけのものだと思う。私の「誤読」だけしかつまっていない。けれど、私は、そういうことを書きたい。誰の役にも立たない--私の役にも立たない「世迷い言」を書きたい。
西脇のことばは、私のあらゆる「誤解」を超越して、そこにある。たどりつけない。だから、詩だと感じる。
![]() | 西脇順三郎コレクション (1) 詩集1西脇 順三郎慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |
