詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

グラント・ヘスロヴ監督「ヤギと男と男と壁と」(★★★)

2010-09-26 19:39:41 | 映画

監督 グラント・ヘスロヴ 出演 ヤギ、ジョージ・クルーニー、ジェフ・ブリッジス、ユアン・マクレガー、ケヴィン・スペイシー

 この映画、なんなんだろう。ほとんど実話に基づく物語――というのだけれど、「実話」って、ストーリーが? 俳優の個人的なことじゃないの? っていうのも変なんだけれど、映画を見ている気がしません。演技を見ている気がしない。あ、もちろん役者を個人的に知っているわけではないのだけれど。
 ジョージ・クルーニー。この映画に出るためにダイエットしたんだろうなあ。いい男だけれど、どこか間が抜けている。ついつい信用してしまいそう。目が真剣になればなるほど、間抜けな感じがして、間抜けゆえにだまされている感じがしない。雲を眼力で吹き飛ばすなんて、真似しちゃいたくなるねえ。いや、真似したんだけれど。あ、私にもできた――って、風が吹いただけなんだろうけれど。
 ジョージ・クルーニー。もわあああんとした声で、ラブ&ピースなんて、本当に言っていそう。ヒッピーが似合うなあ。花束が似合うなあ。長髪も一番似合っていたなあ。いつも長い髪? で、不精ひげ? うーん、不精が似合う。不精って自然でいいよなあ。
 ケヴィン・スペイシー。私は大好きな役者なんだけれど、妙に「ずるい」感じ、うさんくさい感じ、嘘つき――って感じがそのまま。若いころを演じるのに「かつら」まるわかりの安っぽいかつらででているところなんか傑作だなあ。私は嘘をつきません、嘘をつくときは嘘とわかるようにしています――って、それが嘘なんです。嘘のコツは、きっとすぐばれる部分をひとついれておくことだね。そうすると他がほんとうに見える。あ、逆もある。ほんとうを一つだけいれて、よりどころにする。今回は、かつらというほんとうの嘘を組み込むという巧妙さ。最後はちゃんと禿を見せてるから、なんだか信じちゃうんだようなあ、ケヴィンは嘘つきじゃない、と。とても、とても、とても変。
 ユアン・マクレガー。いつまでたっても巻き込まれタイプだねえ。自分から他人を巻き込んでゆくなんてありえないんだろうねえ。これじゃあ、ジョージ・クルーニーに「ジェダイ」とは・・・なんて説明されるんだろうなあ。「ジェダイのことなら私の方が専門」と言えない気の弱さがいいなあ。
 あ、それから、ヤギ。いいなあ。本物? もちろん、本物だろうけれど、眼力で殺されるヤギだけが演技をしている――と思った私でした。

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池井昌樹『母家』(2)

2010-09-26 00:00:00 | 詩集
池井昌樹『母家』(2)(思潮社、2010年09月30日発行)

 誰の詩にも、特別なことばがある。その詩人特有のことばがある。池井のその特別なことば(キーワード)のひとつに「あんまり」がある。「月の光」のなかにつかわれている。

わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえこむと
みみもとで
だれかささやきかけるこえ
それはこえだがささやきだか
かぜのおとかもしれないけれど
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
おおごえで
だれかよびつづけていたような
それはだれだかがれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど

 「あんまり」は「あまり」。余分、過剰。誰もがつかうことばかもしれないが、単なる過剰ではない。

それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて

 「やさしく(い)」と「くるしく(い)」は同じ性質のものではない。「やさしい」ものが「くるしい」ということは、私には、その具体例が思いつかない。「あんまり」やさしいものが、なぜ、「あんまりあんまり」くるしいものにつながるのか、わからない。
 池井の「あんまり」は、たとえば「やさしさ」というものがある容器に入っているとして(人間を感情や行為の入れ物と仮定して書いているのだが)、それに入りきれずこぼれるとき「あんまり」と言っているのではない。あふれるものが「あんまり」(あまり)ではない。
 あふれる--あふれたものが「あまり」と考えるとき、そのあまりの、たとえば「やさしさ」というものは、あまりのほかに、同時に「容器」のなかにもある。容器のなかにも「あさしさ」があり、そこからあふれて「容器」の外に「あ(ん)まり」がある。あふれつづけて、容器そのものが見えなくなる(忘れ去られる)ということがあるかもしれないが、ともかく容器はある。
 池井の「あ(ん)まり」は、それとは違う。容器のなかに「やさしさ」がやさしさとしてあり、「くるしさ」がくるしさとしてある、というのとは違う。
 池井の書いている「やさしさ(く)」「くるしさ(く)」は容器をこわして噴出していく。「やさしさ」「くるしさ」という定義を破壊して、ただ、源流からあふれる「いのち」そのものになってしまう。
 人間の「肉体」のなかには、ただ人間をこえていくものがある。それを池井はこの詩では「けだもの」と呼んでいるのだが、人間という枠をたたきこわしてあふれていく力、「いのち」があって、その「枠」がまだこわされていないときには、「枠」は「やさしさ」という容器、「くるしさ」とという「容器」のなかで、ひとつの名づけられたものとして存在するけれど、容器が壊れてしまうと名づけられない「流出」そのものになる。
 逆に言うと、「やさしさ」と名づけられたものが「やさしさ」という容器を叩きこわし、「やさしさ」でなくなる。そういうときの「流出」の力が「あんまり」なのである。
 池井が書いているのは「あんまり」であり、「やさしさ(く)」「くるしさ(く)」は仮にそう呼ばれているだけのものであり、区別がないのだ。あらゆるものの区別をなくしていくものの力の姿が「あんまり」である。区別がなくなるのは「やさしせ」「くるしさ」だけではなく、ささやき、こえ、かぜのおと、おおごえ、かぜ、つきのひかりも区別がなくなる。
 「ささやき」と「おおごえ」は反対のものである。「かげ」と「ひかり」も反対のものである。(やさしさとくるしさも反対のものだろう。)そういう反対のものさえも、反対でなくなる、区別がなくなる。その区別をなくす力が「あんまり」である。

 すべての「枠」(容器)--つまり「定義」が、内部から叩きこわされ、ただ「いのち」のとめどもない流れだけがある。その状態が「あ(ん)まり」なのだ。単なる「あまり」ではなく「あんまり」としか呼べないもの。
 名詞ではなく、副詞。用言の、その状態をあらわすのだ。
 「あんまり」のなかで、池井は、すべての「定義」を押し流されて、放心している。
 そのとき、人間をこえるもの、たとえば「つきのひかり」が池井をつつんでいる。人間をこえて存在するものと、「定義」以前の池井が向き合っている。そういう状態が「あんまり」ということばが出てくる「場」なのである。

 この「あんまり」は「あまり」のように余分なもの、複数の一部ではないことは、それが「ただ」ということばに置き換えられることがあることからもわかる。「あんまり」のかわりに「ただ」ということばがつかわれている詩がある。
 「瞳」。

わたしのむねのおくかには
かなしくふかいひとみがあって
さえざえとたださえざえと
ひとみはみひらかれるばかり

 さえざえと「あんまりあんまり」さえざえと--と書き直してみると、池井のことばの動きがより明確になる。
 「あんまり」の余剰は、あふれてしまって、ほかのものになるのではない。「やさしさ」が「くるしさ」になるわけではない。「ささやき」が「おおごえ」になるわけではない。
 あ、最初から、「ささやき」と「おおごえ」を例にひけばよかったのかもしれない。「ささやき」があふれれば、ふつうは、それはうるさい音(おおごえ)になることがある。ホールで観客がそれぞれささやけば、それは大声に匹敵するうるささになる。池井の「あんまり」は、その余剰は、そういうふうには動かない。
 逆である。
 いけいの「あんまり」は逆にどんどん単純になる。とうめいになる。存在しないものになる。とうめいな運動そのものにある。まるで、あふれることが、源流へかえるような感じである。
 この不思議な運動--矛盾としか呼べないもの。「あ(ん)まり」という複数と「ただ」という単数が同じという矛盾--そこに、池井の詩がある。



童子
池井 昌樹
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