池井昌樹『母家』(2)(思潮社、2010年09月30日発行)
誰の詩にも、特別なことばがある。その詩人特有のことばがある。池井のその特別なことば(キーワード)のひとつに「あんまり」がある。「月の光」のなかにつかわれている。
わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえこむと
みみもとで
だれかささやきかけるこえ
それはこえだがささやきだか
かぜのおとかもしれないけれど
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
おおごえで
だれかよびつづけていたような
それはだれだかがれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど
「あんまり」は「あまり」。余分、過剰。誰もがつかうことばかもしれないが、単なる過剰ではない。
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
「やさしく(い)」と「くるしく(い)」は同じ性質のものではない。「やさしい」ものが「くるしい」ということは、私には、その具体例が思いつかない。「あんまり」やさしいものが、なぜ、「あんまりあんまり」くるしいものにつながるのか、わからない。
池井の「あんまり」は、たとえば「やさしさ」というものがある容器に入っているとして(人間を感情や行為の入れ物と仮定して書いているのだが)、それに入りきれずこぼれるとき「あんまり」と言っているのではない。あふれるものが「あんまり」(あまり)ではない。
あふれる--あふれたものが「あまり」と考えるとき、そのあまりの、たとえば「やさしさ」というものは、あまりのほかに、同時に「容器」のなかにもある。容器のなかにも「あさしさ」があり、そこからあふれて「容器」の外に「あ(ん)まり」がある。あふれつづけて、容器そのものが見えなくなる(忘れ去られる)ということがあるかもしれないが、ともかく容器はある。
池井の「あ(ん)まり」は、それとは違う。容器のなかに「やさしさ」がやさしさとしてあり、「くるしさ」がくるしさとしてある、というのとは違う。
池井の書いている「やさしさ(く)」「くるしさ(く)」は容器をこわして噴出していく。「やさしさ」「くるしさ」という定義を破壊して、ただ、源流からあふれる「いのち」そのものになってしまう。
人間の「肉体」のなかには、ただ人間をこえていくものがある。それを池井はこの詩では「けだもの」と呼んでいるのだが、人間という枠をたたきこわしてあふれていく力、「いのち」があって、その「枠」がまだこわされていないときには、「枠」は「やさしさ」という容器、「くるしさ」とという「容器」のなかで、ひとつの名づけられたものとして存在するけれど、容器が壊れてしまうと名づけられない「流出」そのものになる。
逆に言うと、「やさしさ」と名づけられたものが「やさしさ」という容器を叩きこわし、「やさしさ」でなくなる。そういうときの「流出」の力が「あんまり」なのである。
池井が書いているのは「あんまり」であり、「やさしさ(く)」「くるしさ(く)」は仮にそう呼ばれているだけのものであり、区別がないのだ。あらゆるものの区別をなくしていくものの力の姿が「あんまり」である。区別がなくなるのは「やさしせ」「くるしさ」だけではなく、ささやき、こえ、かぜのおと、おおごえ、かぜ、つきのひかりも区別がなくなる。
「ささやき」と「おおごえ」は反対のものである。「かげ」と「ひかり」も反対のものである。(やさしさとくるしさも反対のものだろう。)そういう反対のものさえも、反対でなくなる、区別がなくなる。その区別をなくす力が「あんまり」である。
すべての「枠」(容器)--つまり「定義」が、内部から叩きこわされ、ただ「いのち」のとめどもない流れだけがある。その状態が「あ(ん)まり」なのだ。単なる「あまり」ではなく「あんまり」としか呼べないもの。
名詞ではなく、副詞。用言の、その状態をあらわすのだ。
「あんまり」のなかで、池井は、すべての「定義」を押し流されて、放心している。
そのとき、人間をこえるもの、たとえば「つきのひかり」が池井をつつんでいる。人間をこえて存在するものと、「定義」以前の池井が向き合っている。そういう状態が「あんまり」ということばが出てくる「場」なのである。
この「あんまり」は「あまり」のように余分なもの、複数の一部ではないことは、それが「ただ」ということばに置き換えられることがあることからもわかる。「あんまり」のかわりに「ただ」ということばがつかわれている詩がある。
「瞳」。
わたしのむねのおくかには
かなしくふかいひとみがあって
さえざえとたださえざえと
ひとみはみひらかれるばかり
さえざえと「あんまりあんまり」さえざえと--と書き直してみると、池井のことばの動きがより明確になる。
「あんまり」の余剰は、あふれてしまって、ほかのものになるのではない。「やさしさ」が「くるしさ」になるわけではない。「ささやき」が「おおごえ」になるわけではない。
あ、最初から、「ささやき」と「おおごえ」を例にひけばよかったのかもしれない。「ささやき」があふれれば、ふつうは、それはうるさい音(おおごえ)になることがある。ホールで観客がそれぞれささやけば、それは大声に匹敵するうるささになる。池井の「あんまり」は、その余剰は、そういうふうには動かない。
逆である。
いけいの「あんまり」は逆にどんどん単純になる。とうめいになる。存在しないものになる。とうめいな運動そのものにある。まるで、あふれることが、源流へかえるような感じである。
この不思議な運動--矛盾としか呼べないもの。「あ(ん)まり」という複数と「ただ」という単数が同じという矛盾--そこに、池井の詩がある。