詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斉藤梢『貨物船』(弘前詩塾叢書5)

2010-09-06 00:00:00 | 詩集
斉藤梢『貨物船』(弘前詩塾叢書5)(弘前詩塾+北方新社、2010年09月01日発行)

 斉藤梢『貨物船』の詩集のタイトルともなっている「貨物船」はとても美しい作品である。雑誌で読んだとき、その感想を書いたと思う。何度も感想を書きたいという気持ちと、もうこれ以上私のことばで余分な汚れをつけくわえたくないという思いがせめぎあう。短い詩なので、全行引用して、ひとことだけつけくわえることにする。

起きて一杯の水を飲む
きらきらと細やかな粒子が
体のなかで静かに踊る
その間 一分

そうして次には一番太い血管の川を
ことことと貨物船がゆく
貨物船は私の過去にかたむき
やわらかなその矛先は
わずかずつ今に痛みながら
よろよろと一直線に進んでゆく

 やわらかさこそが生きてゆくコツと
 言いました あなたは

いつの日かいつか
私が骨というカタチになったその時
あなたにだけはこの貨物船が
白い胸骨の隙間あたりから見えるといい

私の記憶を積む船体が
こつこつとただこつこつと軋む
噫、
この貨物船という小さな秘密

 貨物船の積みには「やわらかさこそが生きてゆくコツ」と語ってくれたあなたの「ことば」である。貨物船が秘密であるように、その積み荷もまた秘密である。「あなた」とともに生きる斉藤の、美しい秘密である。

 「眺望」という詩も美しい。

自転車のカゴの中から
ひそひそと声がする
「これからどこへ行くのかなあ」と
夕暮れから夜へと急ぐ闇と競いながら
私は漕ぐ
十個のじゃがいもを連れて

(略)

どこかの町や村で
じゃがいものために必要だった土は
また新しい種いもを待ち
わずかに付きそって来た土は
もうすぐ私の台所で洗い流される
だろう、きっと

その土に名前はない
(略)

 「土に名前はない」と斉藤は書いているが、ここまで書いてしまえば、その土には「名前」はある。「貨物船」のように短いことばになっていないだけで、「名前」はあるのだ。その「名前」は、まだ斉藤にとっても「秘密」であるが、その「秘密」を読者は知っている。
 「貨物船」は「過去にかたむき」「今に痛みながら」「一直線に進んでゆく」が、斉藤が書かなかった「土の名前」も「過去」と「今」にふれながら、まっすぐな「生き方」を進んでいる。
 「土の名前」を思う斉藤のこころは、と言い換えるべきかもしれないが。

 「鼓動」もすばらしい。

馬の瞳(め)が鏡となっていた

つ、つ、つ、と細かい雨の降るなかを
岩木山の麓のここまで走ってきて、
あなたが言う
「ドイツ車で走る砂利道」と
そして
わたしは「馬」を指さす

父と母と妹と私の足跡をひっそりと
生々しく蔵(しま)ったこの土地に
今はもう何も残っていないこの農場に
立つわたしたち
(略)

何かから漕ぎいだすように
何かの先へと走りだして
すがるように、今「馬」を見つけた
「馬の匂いがする」とあなたが言う
  そして
わたしはクルリと旋回する

ここまでのものを脱いで
ここに鳴る鼓動を信じる。と

わたしは馬の瞳(め)と約束した

 「ここまでのものを脱いで/ここに鳴る鼓動を信じる」は斉藤の「秘密」である。馬と約束した秘密である。それは斉藤の「貨物船」の、また別の「積み荷」でもある。
 馬は、今ここにいて、今ここにいない。
 斉藤のことばのなかにいる。秘密もまた、今ここにあって、今ここにない。
 それは、ともに「生き方」あるいは生きてきた記憶として、今ここに、よみがえってくるものとしてある。

 斉藤の書いているような詩は、「現代詩」の「流通」には乗りにくいかもしれない。けれども、たしかに大切なことばの運動である。「弘前詩塾」で斉藤を支える仲間たち、それから彼女たちを見守る藤田晴央に、私は感謝しなければならない。藤田や仲間たちがいなかったら、たぶん、斉藤のことばは、こんなふうに結晶にならず、それこそ彼女の胸の奥の秘密でありつづけたかもしれない。
 秘密を、思いきってことばにしてみようと決意した斉藤の生き方にも、ありがとうといいたい。



 この詩集は、書店ではなかなか手に入らないだろうと思う。限定 200部とある。直接「弘前詩塾」へ問い合わせてみてください。弘前詩塾は、
〒 036-8184 弘前市松森街100  電話・FAX 0172-36-6584
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